車泊で「ご当地マンホール」

北は山形から南は大分まで、10年間の車泊旅はマンホールに名所・旧跡・寺社・狛犬・・思い出の旅、ご一緒しませんか。

ご当地マンホールとマンホールカード in 福島県須賀川市

2024年10月11日 08時00分00秒 | マンホール・マンホールカード・キャラ・福島県

須賀川市(すかがわし)は福島県の中央よりやや南に位置する市です。2005年4月1日、岩瀬郡長沼町、岩瀬村を編入、現在の市域になりました。北は郡山市、南は玉川村、鏡石町、天栄村、東は平田村に隣接。西に那須連峰、東に阿武隈の山並みを望み、市内中心部を阿武隈川、釈迦堂川が流れる豊かな自然と穏やかな気候に恵まれたまちです。近年、特撮の巨匠、円谷英二の出身地であることから代表作品のひとつであるウルトラマンを活かしたまちづくりやイベントが精力的に行なわれており、2013年5月5日には「M78星雲 ウルトラの星」の姉妹都市となりました😊。

須賀川の歴史は古く、旧石器時代の乙字ケ滝遺跡を始め、奈良時代から平安時代にかけての遺構である上人壇廃寺址など、古代からこの地が東北地方の要衝であった事を示しています。鎌倉時代以降は二階堂氏の城下町として栄えましたが、天正年間に伊達政宗に攻められ、須賀川城は落城。毎年11月の第2土曜日に行われる日本三大火祭りの1つ「松明あかし」は、このときの二階堂家の霊を弔うために行われてきた伝統行事です。また市域には、全国の牡丹園で唯一の国指定名勝である「須賀川牡丹園」が有名で、季節には多くの観光客で賑わいます。「市の木:赤松」「市の花:牡丹」「市の鳥:かわせみ」を制定。

キャッチフレーズは「共につくる 住み続けたいまち」

明治22年(1889)、町村制の施行により岩瀬郡須賀川町・浜田村・西袋村・稲田村・小塩江村・仁井田村・大東村が発足。

1954年、須賀川町、岩瀬郡浜田村・西袋村・稲田村・小塩江村が合併、市制を施行し須賀川市が発足。

1955年、岩瀬郡仁井田村を編入。

1967年、岩瀬郡大東村を編入。

マンホールには市章を中心に「市の花ボタン」が美しくデザインされています。

市の花:牡丹が大きく一輪描かれています。

旧長沼町のデザインマンホールで「町の花:百合、町の木:桜、町の鳥:カッコウ」、自治体章が須賀川市に変更されています。

昭和29年(1954)6月10日制定の市章は「須賀川市の「す」の字を図案化し、末広がりの市政発展を表しています。」公式HPより

須賀川市マスコットキャラクター『ボータン』。420年以上を誇る伝統の火祭り「松明あかし」の火の粉が、「牡丹園」の牡丹の花びらに降り掛かり生まれた、炎と花を司る妖精。松明の炎の「力強さ」と「明るさ」、牡丹の花のような「美しい心」を持っています。

1960年代、本市出身の「二人の円谷」の活躍が日本中を熱狂させました。一人は「特撮の神様」こと『円谷英二監督』。一人は、1964年の東京五輪で銅メダルを獲得し、当時低迷していた日本陸上界の救世主となった『円谷幸吉選手』です。ただ、須賀川駅周辺にはウルトラマンは沢山出没していますが😅、円谷選手に関するものが無くてちょっと残念。

撮影日:2015年6月25日

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マンホールカード、頂きました

2019年8月7日、第10弾として全国61自治体で61種類(累計455自治体539種類)の マンホールカードの配布が 開始されました。「須賀川市」のマンホールカードは、「須賀川市民交流センター tette」でいただけます。

2009年に設置開始されたマンホールには「市章」と「市の花:牡丹」がデザインされています。

「中心に市章、その周りに市の花である牡丹がデザインされたマンホール蓋です。 牡丹の名所として知られる国指定名勝「須賀川牡丹園」は昭和3年(1766年)に摂津国(現在の兵庫県宝塚市)から牡丹の苗木を持ち帰り栽培したのが始まりとされ、現在では10ヘクタールの園内に290種類7,000株もの大輪の牡丹の花が咲き誇り、牡丹をはじめとする四季折々の花や風景を楽しむことができます。 本マンホール蓋と同じデザインで異なる色や色のないマンホール蓋が市内中心部などに設置されていますので散策しながらお探しください。」

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郡山市内あちこちウォッチ in 福島県郡山市

2024年10月10日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市麓山に建つ「福島県郡山合同庁舎」。鉄筋コンクリート造2階建て、陸屋根、中央塔屋付の建物は、昭和5年(1930)に旧郡山市役所として建てられ、昭和43年(1968)まで市役所として、その後は合同庁舎として利用されてきました。

設計は『宮田荘七郎』。基本的に左右対称のシンメトリーな構成で、玄関ポーチを含め中心部分に凝った意匠を施し、塔屋があることで印象深い建物となっています。

現在では少なくなった当時の役所建築として非常に貴重な存在ですが、2026年3月には新たな「福島県郡山合同庁舎」が完成予定とか。この文化遺産としても貴重な建物がどのような形で残されるのか・・それにしても、臆せずにもっと内部を見学しておけばよかったなと、何時ものごとくの後悔😥

郡山市の主だった立ち寄り地はあらかた紹介を終えました。あとは例によって「なんでも面白い」と私のデジカメが捉えた町の景色から😊 最初は郡山市の市章がそのまま建物の顔になった「市立中央図書館・日和田分館」

郡山市日和田町小堰にある東北本線「日和田駅:跨線橋」何故と聞かれても明確に応えられないのですが「跨線橋」のある風景が好きなんです。

花かつみ橋から見る「東北本線の線路」。これで電車とか来たら最高なんだけど、「時刻表?何それ?」の二人じゃ、よほどもの好きな女神さんが微笑まない限りあり得ない😅

古今和歌集に【みちのくの あさかのぬまの花かつみ かつみる人に 恋ひやわたらん】と歌われた事で、陸奥国の安積の沼の名物となった「花かつみ」。元禄2年5月1日(1689年6月17日)、芭蕉と曾良は安積山を訪れて「~あさか山有。路より近し。此あたり沼多し。かつみ刈比もやゝ近うなれば、いづれの草を花かつみとは云ぞと、人々に尋侍れども更知人なし。沼を尋、人にとひ、かつみかつみと尋ねありきて、日は山の端にかゝり~」と奥の細道に記しています。花かつみ橋レリーフ「奥の細道を旅する芭蕉と曾良と花かつみ」

訪問日:2015年6月25日

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一口メモ

明治9年6月、明治天皇の東北巡幸のさい、「菖蒲に似て いとちいさき花」なるヒメシャガを「花かつみ」として天覧。以後、「ヒメシャガ」が「花かつみ」とされ、昭和49年に郡山市の花に制定されました。

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郡山市郡山公会堂 in 福島県郡山市麓山

2024年10月09日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市麓山に建つ塔屋が美しい「郡山市郡山公会堂」

鉄筋コンクリート造2階建、銅板葺の建物は、郡山市制施行を記念して市中心部に建てられました。

連続半円アーチの柱廊と、窓台受。上げ下げ連窓などを丁寧にデザインした躯体の隅に、縦長ガラス面で垂直性を強調した塔屋。建設当時には塔屋に時計が埋め込まれていましたが、次第に時刻が狂うようになり、第二次世界大戦中に市民からの苦情で取り外され、代りに市章が埋め込まれていたそうです😅

1998年頃の改修で塔屋に再び時計が埋め込まれ、2002年、国の登録有形文化財に登録。2005年には改修工事が完了し、建設当時の御影石の外壁、ルネサンス様式の天井、ステンドグラスをはめ込んだ窓などが復元されました。

設計者は『矢橋 賢吉(やばし けんきち)』。明治建築界三大巨匠の一人とされた大蔵省営繕の妻木頼黄の右腕で、国会議事堂・旧総理大臣官邸・枢密院庁舎 (皇宮警察本部) などを手掛けた人物。

と珍しく、詳しく紹介した理由は、彼の先祖が平安時代初期から前期にかけて実在した『嵯峨天皇』の第12皇子『源融(みなもとのとおる)』まで遡れる事。ちなみに『源融』って誰?と思う方もいるでしょうが、何と!あの源氏物語の主人公「光源氏」のモデルと云われている人物なのです。まぁ、光源氏と矢橋氏とは全く無縁ですが😅

公会堂の敷地内にあった『内海久三』氏の「郡山市民の歌 ボクの街 郡山」。市政30周年を記念し、一般公募により昭和29年に制定。
【恋とは楽しく 悲しいものと  龍山の松風  ささやいた  泣くのはおよしと  弁天池で  優しく微笑む  お月さん  ああ思い出の  夢が住んでる  ボクの街 郡山】

ネオ・ルネサンス様式を基調とするモダンな外観には、開拓の意気込みが壮麗に表現され、郡山の飛躍的発展の象徴ともなりました。2017年、「郡山市郡山公会堂」は、日本遺産「未来を拓いた『一本の水路』」の構成文化財として追加認定を受けました。

訪問日:2015年6月25日

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安積(あさか)歴史博物館 in 福島県郡山市開成

2024年10月08日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市開成、福島県立安積高等学校の敷地内に美しい姿を見せる「安積(あさか)歴史博物館」

明治17年(1884)9月11日、安積開拓の地に開校した福島県唯一の中学校「福島中学校」。明治22年(1889)3月、安積開拓の桑野村に移転し「福島県尋常中学校」と校名を変更。移転に際しては県会議員の建議が県会で可決された事、また農民が学校用地を寄付するなど、桑野村の協力が大きく関わっていました。

明治34年(1901)、「福島県立安積中学校」と校名改称。昭和23年(1948)4月1日、新学制により「福島県立安積高等学校」と改称し、昭和48年(1973) 3月まで校舎として使用。同年に県文化財に、昭和52年(1977) 6月、国の重要文化財に指定。

翌・昭和53年7月、明治時代に建築された当初の姿に復元するため文化庁の指導により半解体修理工事が行われ、昭和55年9月に終了。昭和59(1984)年9月、創立百周年記念式典が挙行され、安積中学校本館は、「安積歴史博物館」として一般公開される事になりました。

また、創立百周年記念事業実行委員会は、記念事業の一つとして、安積歴史博物館の正面に明治・大正・昭和を代表する「安積健児の像」を建立。

像の制作は、本校四五期卒業生である『佐藤静司氏』。明治・大正・昭和を象徴する学生の姿は、まさに「安積健児」ここに在り。

それにしても・・・楽しみにしている割には休館日のチェックが甘い。とは言え、福島県のほぼ半域を、それなりの長い日程で巡る車泊旅。どこに行ってもこの「残念でした」は付きまとうのですが・・ああそれでも、館内の見学、したかったな・・😭

「安積(あさか)歴史博物館」は、日本遺産「未来を拓いた『一本の水路』」構成要素として、国重要文化財の指定を受けています。

訪問日:2015年6月26日

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郡山市開成館~安積開拓 in 福島県郡山市開成

2024年10月07日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市開成、開成大神宮の近くにある「郡山市開成館」。園内には明治時代初期に建てられた建物4棟が公開されており、当時の生活様式や、安積開拓と安積疏水についての資料等を展示。またこれらの建物は「未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通“最期の夢”と開拓者の軌跡」の構成の一つとして、経済産業省認定:近代化産業遺産に認定されています。

博物館の名称となった「開成館」は、明治7年(1874)に区会所として建設された疑洋風建築の建物。安積開拓の核である「福島県開拓掛」の事務所が置かれていた場所です。

明治9年(1876)、6月16日に郡山へ到着した明治天皇御一行は、郡山学校で休憩した後、桑野村を訪れ、「開成館」に一泊。「開成館」では、山吉盛典中條政恒が参向して開墾事業等について奏上。また、開墾功労者として開成社員や戸長などが召し出され、右大臣:岩倉具視より褒詞を受けています。

開成館3階には当時の行在所が宮内庁の監修を受けて再現されています。当時の御座所の畳は近江表を用い、厠や浴室には杉板を使用。出入りする箇所には有り合せの襖が充てられていました。

県指定重要文化財「安積開拓官舎(旧立岩一郎邸)

安積開拓の中心的役割を果たした「福島県開拓掛」の職員用に建てられた官舎で、明治7年8月落成の「開成館」とほぼ同時期に建築。

明治12年(1879)、伊藤博文内務卿と松方正義勧農局長たちが安積疏水の起工式に来郡した時には、この部屋が宿舎となりました。松方はその時の感想を「茂松清風舎(松が茂り、清らかな風が入ってくる)」と書に残しています。

県開拓掛に着任した立岩一郎もここを宿舎としましたが、明治14年11月に官を辞した時、県から払い下げを受け、以来、立岩家によって守られ、昭和63年に郡山市に寄贈、開拓創業時の姿に復元されました。

明治11年(1878)、政府は国政事業として士族授産の為の安積開拓を決定し、全国各地から士族を移住させ、安積郡全域に広がる原野の開墾を開始。「安積開拓入植者住宅(旧坪内家)」。

鳥取開墾社」の副頭取・坪内元興の住宅で、明治政府が入植者の住宅用に補助金を交付して建築させた規格住宅の中でも上級クラスの建物で、明治政府の『黒田清隆』『三島通庸』などの高官が安積開拓の視察をした際の休憩所として利用しています。

郡山市指定重要文化財「安積開拓入植者住宅(旧小山家)」

明治15年に旧松山藩から安積町牛庭地区に入植した「愛媛松山開墾」15戸の1戸で、室崎久遠が明治政府から建築の補助を受けて建築。明治32年に室崎が転出した後は、同じ松山から入植していた小山宇太治が住んでいました。

「()国指定の名勝及び天然記念物:開成山櫻」開拓用の池の堤を強化するために植樹。今でも1,299本の桜が咲き乱れる県内有数の桜の名所として、季節には多くの人たちが訪れます。

訪問日:2015年6月26日

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安積(あさか)開拓の歴史に触れる in 福島県郡山市

2024年10月06日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

会津若松市、郡山市、苗代町にまたがる断層湖「猪苗代湖(いなわしろこ)」。日本国内で4番目に広く、福島県のシンボルの一つとされ、湖水が澄んでいることから「天鏡湖(てんきょうこ)」とも呼ばれる猪苗代湖。

不毛の土地と云われた安積原野に水を流すため、猪苗代湖から流れる阿賀野川水系一級河川・日橋(にっぱし)川の上流に建設された「十六橋水門(じゅうろっきょうすいもん)」。近代日本の国営農業水利事業第1号といわれる安積(あさか)疎水はここから始まりました。

江戸時代、奥州街道の宿駅が置かれていた郡山。開成館に展示されていた当時の地図を見ると、宿場町の周囲には「不毛」と記された広大な原野が広がっており、それは、時に水争いも起こる程の慢性的な水不足によるものでした。(不毛の文字部分🔴表示)

「阿部茂兵衛像 」「戊辰戦争で郡山の町の大半は戦火で焼失。明治5年(1872)、福島県典事中條政恒は「開拓告論書」を出し、その政策を推し進め、物産方(金融業)阿部茂兵衛鴫原弥作、橋本清佐衛門を加えた4人で話し合い、開成山開拓(大槻原開拓)の意思を固めた。阿部茂兵衛を中心に富裕商人25人が集い、明治6年(1873)に「開成社」を設立。阿部茂兵衛を初代社長として開拓事業に尽力。開拓地までの道を作り、灌漑用水地(現五十鈴湖)を造成。心の拠り所として開成山大神宮を勧請、開拓事務所として開成館を建設。この開拓で、新村桑野村(現開成地区)が明治9年(1876)に誕生した。」現地案内より

福島県典事『中條正恒』「開拓の心 :―尺を開けば一尺の仕合あり、一寸を懇すれば一寸の幸あり」

「開成山大神宮」の正面鳥居の南側に建立された「入植者の碑・旧二本松藩士族 大槻原」。明治6年3月、福島県令の『安場保和』は二本松に出張し、安積開拓への移住を勧奨。それを受け、大槻原に28戸、対面原に11戸が移住。割り当てられた土地は久留米藩士族などの半分に過ぎなかったといいます。開拓村は後に「桑野村」となって独立。(全国9藩から郡山に移住した士族たちが安積原野を開拓した場所を示す「入植者の碑」は、市内10箇所に設置されています)

「中條政恒翁頌徳碑:元米沢藩士。明治5年(1872)福島県令安場保和に大槻原開墾の指導者として迎えられ、「開成社」の協力を得て明治9年に桑野村を誕生させた。この荒野開拓の成果が認められ、明治12年から国の事業として安積疏水の開削と、安積野開拓が進められ「安積開拓の父」と呼ばれた。」碑文は大久保利通の長男利武、彫像は北村西望作。

福島県は、旧二本松藩士の授産と養蚕による振興を目的として桑畑の造成を。開成社は、米の増産を目的とした溜池の築造と水田の造成を・・福島県の告諭書に集う開拓者たち。この開拓により、明治9年(1876)までに水田76ha、畑140ha、ため池54ha、宅地25ha、道路23haが造成。郡山市指定史跡「安積開拓発祥の地」碑と「明治天皇桑野行在跡碑」

「安積野開拓顕彰碑」。題字は『松平勇雄元福島県知事』。撰文は『高橋堯元郡山市長』。碑についての説明文には入植藩一覧も記されています。

刀を鋤に持ち替えて不毛の大地に挑む父と息子。傍らに寄り添う妻は乳飲み子を抱き幼子の手を引く・・レリーフは当時の入植者たちの姿を写し取った物でしょうか。

碑の台座に嵌めこまれた開拓者の故郷の玉石。それぞれの石の旧藩名は、当時の9つの自治体の酋長が銘記。棚倉藩・会津藩・二本松藩・鳥取藩・久留米藩・米沢藩・松山藩・「大槻南原・塩の原を担当した土佐藩」「対面原・青田原の開拓を担当した岡山藩」・・期せずして二人の故郷の石が並んでいる事に、不思議な縁を感じさせられました。

安積疎水の開削は、もともと日本海に注いでいる猪苗代湖の水を、奥羽山脈を掘り抜いて郡山周辺の安積野に導き、水不足の原野を沃野に変えようという、わが国初のプロジェクト。本格化したのは明治9年(1876)に福島に立ち寄った内務郷『大久保利通』が、福島県典事『中條正恒』の疎水計画を聴取したときから始まりました。 

「開拓者の群像」左から『中條政恒』『大久保利通』『ファン・ドールン』
「安積原野の開拓はこの地より創まる」ーかつて奥州路の小宿駅に過ぎなかった郡山は、明治の初期、この地の富商らが結成した開成社と、士族授産を目的とした明治政府直轄の大規模開拓により、太古以来の安積原野がことごとく開拓された。さらに明治十五年、有史以来初めて猪苗代湖水をこの原野に東注した安積疏水の完成は、今日の郡山市発展の原動力となった。 われらは、この地に開拓精神発揚のシンボルとして、「開拓者の群像」を設置し、先人に感謝しその偉業をたたえ、これを後世に伝えるものである。 1992年10月 郡山市」

明治15年の通水式で農商務大輔として出席した『品川弥二郎』が詠んだ【 岩が根を 砕きて落す 猪苗代の 水は黄金の種となる覧 】

訪問日:2016年6月26日

 

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開成山大神宮 in 福島県郡山市開成

2024年10月05日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市開成に鎮座される「開成山大神宮」。御祭神は『天照大御神・豊受大神・神倭伊波禮彦命(神武天皇)』。伊勢神宮の御分霊が奉祭されている事から『東北のお伊勢さま』とも呼ばれます。

創建「安積開拓の開拓民の精神的なよりどころにするため、福島県の典事の中條政恒が伊勢神宮の分霊の奉遷を神宮司庁へ働きかけた結果、明治9年(1876)1月に太政大臣が認可。地元では「岩代大神宮」を希望したが、「伊勢神宮」と同じように旧国名を冠することに政府が難色を示したため、「開成山大神宮」の名称が決定。猪苗代湖から導水した安積疏水の起業式は明治12年(1879)に挙行、通水式は明治15年(1882)10月1日に岩倉具視右大臣ほか要人を招いて開成山大神宮で執り行われた。」公式HPより抜粋

拝殿後方に、一間社神明造、銅板葺きの御本殿。

現在の拝殿は、1991年の御分霊奉遷百十五年と皇紀二千六百五十年を奉祝し、青森檜葉で造営。神明造、切妻、銅板葺き、平入、正面1間切妻向拝付き。

昭和50年(1975)、御分霊奉遷100年を奉祝し、伊勢神宮より遷宮の際の御用材の撤下を受けて現在の本殿を造営。これに合わせ、明治8年(1875)に造営された旧本殿を瑞垣の南に曳き移し、「桑野宮(くわののみや)」とし「本社御祭神三座の荒魂」をお祀りします。

切妻、銅板葺き三間一戸の御神門

御神門前左右より神域を守護されるのは、随分と目鼻立ちのがっちりされた狛犬さん一対。形で言うと招魂社系に近いと思われますが、白目部分が強調されている所為で、ビックリ顔に😅

宝物殿には神宝の太刀「備前国長船・室町時代刀匠:勝光の作」、槍「国綱:安土桃山時代の作」。いずれも郡山市指定重要文化財の指定。

拝殿の左側奥に建立された「聖徳太子:十六歳孝養像」

聖徳太子像由緒碑「太子は尺度広狭の制を定めて技術の法を示し、建築士諸工匠の守護神と仰ぎ尊ばれている。昭和46年6月8日に建築士会郡山支部が、建築士法制定20周年を記念して聖徳太子像を奉安」

由緒碑の後方にあった「歌碑」・・・・読めません😔

新たに銅(あかがね)によって修繕された鳥居。開成山大神宮は安積原野開拓に大きな役割を担った事から、2016年に「未来を拓いた「一本の水路」-大久保利通"最期の夢"と開拓者の軌跡 郡山・猪苗代-」の構成文化財として日本遺産に登録されています。

参拝日:2015年6月26日

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山ノ井農村公園~うねめ伝説 in 福島県郡山市片平町

2024年10月04日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市片平町にある「山ノ井農村公園」

今から千三百年前の「うねめ伝説」の地として語り伝えられており、「うねめ公園」の別名でも知られます。

語り継がれる「采女伝説」。それは冷害続きの為に年貢が納められなかった安積の里に、奈良の都より派遣された葛城王の巡察から始まります。里人は王をもてなす宴を開き、年貢の免除を申し出ますが王は聞き入れません。機嫌の悪い葛城王に対し里長の娘「春姫」は、里人の想いを込めた歌を献上します。【安積山 影さえ見ゆる山の井の あさき心をわが思わなくに】(訳:安積山の麓の山の井の清水は山影を映し浅く見えますが、とても深い清水です。そのように私たちが王を思う気持ちはとても深いのです。)

これを聞いた王は里の窮状を察し、三年間の税の免除と引き換えに春姫を「采女」として仕えさせる事にしました。都へ上がり帝の寵愛を受ける春姫ですが、故郷には次郎という思い人が・・中秋の名月の日、春姫は猿沢の池畔の柳に衣をかけ、入水したようにみせかけて安積の里へ向かいます。けれどそこで次郎が山の井の清水に身を投じた事を知り、雪の降る夜、あとを追って同じ清水に身を投じてしまいました。

想い合う二人がそれぞれに身を投じた山の井公園の清水のそばには、春姫の詠んだ【安積山 影さえ見ゆる・・・」の歌碑が建立されています。碑には「御即位記念」の篆額、揮毫は御歌所参候(さんこう)『源英一』。碑陰に「大正4年霜月 片平青年会」の刻。

「うねめ春姫の塚」「春姫の像」

春姫の霊を慰めるため、昭和32年(1957)に建立された「采女神社」

「采女供養記念碑」

東北自動車道安積PA記念スタンプ「采女伝説」と「花かつみ」

公園内に建立されていた「片平村 青年團 奉耕神饌田」碑。仔細不明。

訪問日:2015年6月26日

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隠津島(おきつしま)神社 in 福島県郡山市喜久田町

2024年10月03日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市喜久田町堀之内宮に鎮座される「隠津島(おきつしま)神社」。御祭神は『武御雷之男神(たけみかづちおのかみ)』

「延喜式内(約1170年前)の古社で、社殿は時の国守により創建。伝記に当時の街道は安積山の東を走り、 その麓には安積沼が大海のように広がり、住民は点在する島々に住んでいた。 その一つが安根が島、その上にあるのが上伊豆島、下を下伊豆島、沖にあ るのを隠津島と言った。島の西には安積山がそびえ、獣や蛇が多く住み、田畑に害を与え、時に人や家畜まで襲い、また日照りや長雨で悲惨を極めた。時の国守は命を下して斎場を隠津島に建て、武御雷之男神を奉斎、地名を 冠して隠津島神社と稱え、万民が世の平安と五穀 豊穣を祈った。神社内にある冷泉左中将為久卿、烏丸左中将光 榮卿の社頭奉納和歌三首もこの時のものかと思わ れる。~中略~安積郡三社の一とされ、明治39年県社に列格」神社由緒より

明治12年(1879)、建立の社殿

拝殿前左右より神域を守護されるのは背に仔狛を乗せる吽形さん、毬に手を重ねる阿形さんの一対。いわゆる福島型と呼ばれるタイプで、盛られた毛並み、流れる尾、半ば宙に浮かせた互いの前足に特徴があります。

足の下からいつの間にか這い出して親狛の背中に噛り付く仔狛・・と思ったのですが・・

吽形さんの右足の下にも大人しくうずくまる仔狛の姿が見えます。玉を思わせる見開いた眼、分厚い唇等々・・神獣巡りを楽しみとするご亭主殿、前に後ろにと走り回っています😅

境内の一画に保存される倒壊した鳥居。保存された往時を語る爪痕は、むごく胸に刺さり、私たちはただ手を合わせるのみ🙏🙏

参拝日:2015年6月26日

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菅布禰(すがふね)神社 in 福島県郡山市中田町下枝

2024年10月02日 08時00分00秒 | 神社仏閣・名所・観光・福島県

郡山市中田町下枝宮ノ下に鎮座される「菅布禰(すがふね)神社」。御祭神は『猿田彦命・日本武尊』。多田根本神社の宮司様よりご紹介いただき、参拝させて頂きました。

蓬田岳の山頂近くにある菅船神社・総本社の遥拝殿。「山ふく・ふくしま30座」によれば「山頂に祀られる菅船神社(菅布禰神社)は猿田彦命と日本武尊を祀ったといわれる。日本武尊が東国平定の際、蓬田岳に棲む水鬼と風鬼を討伐したときに建立されたといわれる。」。頂いた御朱印には「旧二本松藩々主丹羽家造営 正一位 菅船大明神」と墨書されています。

朱の鳥居左右より神域を守護されるのは、神殿狛犬を思わせる、頭上に角を持つ吽形さん。頭上に宝珠を頂く阿形さんの一対。共に目には象嵌が施されています。福島県でこのタイプに出会えるとは・・😍

「多田根本神社」の宮司様に「旅先の神社参拝で、良い狛犬さんに出会えるのが楽しみです」と話した私たちに、それならばとご紹介頂いた「菅布禰神社」。こんなに個性的で彫りの良い狛犬さんに出会えた事に、心から感謝いたします🙏🙏

神橋を渡り二の鳥居

両袖に隋神が祀られる祠を持つ神門。隋神様の所在は未確認ですが、ご亭主殿曰、どなたもおいでにならなかったとの事。

隋神門正面に唐破風づくりの拝殿。拝殿額には「正一位 菅船大明神」

こちらの建物に関しては今一つ不明。森に向かって開け放たれているので、遥拝所ではないかと想像するも、額の画像を残しておかなかったのが悔やまれます。

さらに建物の前に奉納されていた石灯籠の彫刻がまた見事で・・・😲 下から見上げてみましたが、火袋部分は間違いなく一つの石から彫り上げられています。

火袋に絡みつく龍・・狛犬さんと言い石灯籠と言い、本当に良い物を見せて頂き感謝に堪えません。

総本社「菅船神社」の社号碑と思われます。

社号碑を守護される狛犬さん一対。ゆるやかにカーブしたたてがみを肩に滑らせ、大きな目で参拝者を見返しています。

石造りの御神庫

参拝日:2015年6月26日

コメント (2)
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