ずっと観たかった映画だった。
観てよかった。
うつくしい。中国はこんなにうつくしいところがあるだな。
観たことのない景色、しかしなつかしい景色がうちの小さいテレビ画面に広がる。
時代はいつだろう、今に近いと思う。
中国の奥深い山村に歩いて郵便物を配る父親、その仕事を継ぐことを決めた若い息子。
一人っ子政策で息子はひとり。その代わりによくできた「次男坊」と呼ばれる犬がいる。
息子の初めての仕事の日、父親は心配になって息子についてゆく(犬の「次男坊」も)。
郵便配達の仕事はきつい。
山道をのぼり、崖をのぼり、川を渡る。
父親はそれがもとで足を悪くしている。
たまにしか帰って来なかった父親に親近感を持てない息子は
とまどいながら父親に郵便配達の仕事につきそってもらい、
いままで見たことのない父親の、人生の一端にふれる。
途中の宿泊で、息子は父親にこぼす
「山に住んでるひとには山以外なにもない」と。
「なくても頭でものをかんがえてる。苦しみにぶつかれば考えることで乗り超える。
そうやって考えることなしに人生の喜びはない。
郵便配達の仕事はきつい仕事だ。長く続ければ友人も知識も増える。実にやりがいがある。
他の仕事をしたいとは思わん。誇りを持ってやれよ」父親は答える。
山に暮らし、他になにも持たない(持てない)人々は、それでも乗り越えるすべを持っているのだ、
金銭で得るもののかわりにな、父親はそう言っているのだ。
そしてそこに生きる喜びがあると言う。
父親自身そうであったのだろう、伴侶である妻も。
この会話には父親自身、これでよかったのか、という懐疑的な思いもどこかあって
息子はこの先の人生、自分のように郵便配達になっていいのか、という。
まだあどけなさを残す息子の寝顔をしあわせそうに眺める父親。
ひとの喜びとはなんなのか。
何かを所有することなのか。
何かを待つことなのか。
毎日毎日おなじことを繰りかえすことなのか。
私事だけれど、ここに越して来て友だちもいなくて夫婦と子どもだけの日々が何年も続く中
おとなりのおじさんやおばさんがいっぱいの野菜を持ってうちに寄ってくれて、
天気やイノシシの話をしてくれることがどれだけありがたかったことか。
わたしはこの映画を観ていてそれを思った。
おじさんはもう亡くなっていない。
でも「なんでもない天気や農作物とかの四方山話」が生きてる中のたのしみだったりするって
わたしに教えてくれて、それはいつもわたしにある。
わたしは山に暮らし、山のひとになったのであろうか。
いやーまだまだだな。そこに近づいてはいるんだろうが。
本当に「山のひと」になられたのですね。
私はやっと最近になって、「海辺の人」
を自覚しています。チマさんよりずっと
年上なのに、子どもが独立して近県の
海もない、山もない、川は排水溝の大きい
ようなものだけ、田畑もないお寺もない
神社もない、あるのはマンションだけ
という場所に住んだので、そこへ行くたびに
田舎なのに、なぜ閉塞感があるのか?
と考えるようになりました。
殆ど毎日海が見える場所に散歩や買い物に
行き、波の音、潮風の具合などに
生活が左右されて、海の収穫も
季節や天候によって大違いなのに
やってくる方々は一年中「釜揚げしらす」
と叫ぶので、しらすは一年の3分の一は
禁漁なのに、と思って違和感を感じたり
しています。きっとチマさんのからだは
だいぶ緑の血が流れるようになったのでしょう。
いつも読んで下さってありがとうございます。
なんだか長いことおつきあいのある友人とお話ししてる気もちです(年下から失礼します)。
やまのひと、なかなかなりたくても遠いかな。裏山にいるととてもほーっとして、いつまでもそこにいたくなるのですが気持ち先行かしら。もすこし生活に密着させたいところです。
tenfingersさんのいる海の町は、視界がわーっと広がってるのでしょうね。こちらと反対。うちは裏も山、前も木々が広がっているので、夕方日が落ちるのが早いです。たまには海のような遮るもののない空間に寝てみたくなります。
でも毎日異なる海の色やその上の空の明るさとかを見るのと、
恵那山や御岳山、アルプスの山を眺めるのと気持ちは同じような気がします。見ると落ち着きますよね。
夜には夜の、朝には朝の顔があって、ニンゲンの遠くおよばないものがそこにあるとホッとします。
うちはもう日が落ちました(いま夕方4時です)うっすら暗いです。