『わりなき恋』を読んだ、年齢を重ねて出会う恋に我が身を重ねて憧れた
孤独と自由を謳歌する、国際的なドキュメンタリー作家・伊奈笙子、69歳。秒刻みのスケジュールに追われる、大企業のトップマネジメント・九鬼兼太、58歳。激動する世界情勢と日本経済、混沌とするメディア界の最前線に身を置く二人が、偶然、隣り合わせたパリ行きのファーストクラスで、ふと交わした『プラハの春』の思い出話…。それがすべての始まりだった。容赦なく過ぎゆく時に抗う最後の恋。愛着、束縛、執念…男女間のあらゆる感情を呑み込みながら謳い上げる人生賛歌(岸恵子著『わりなき恋』〈2013年3月、幻冬舎刊〉)。
何故、この本を読みたいと思って予約カードを出したのか、定かではない。公民館経由で図書館から借りる本の中には、「何でこの本の予約を出したのだろう」と思う本も少なくない。岸恵子著『わりなき恋』も、そんな一冊だった。
予約カードについては、書評や広告、あるいは書店に並んでいるものをチェックして、予約カードを出している。正直余り吟味もしないまま提出し、本が届いても読まないまま返すのも、多くはないがある。それは時間の関係であったり、もう既に興味が薄れているものもある。
さて、そんな中での女優・岸恵子が書いた小説『わりなき恋』は、今借りいる本が少ないこともあり読み始めた。読み始めると、面白くてグイグイと引き込まれて、一気に読んだ。
超多忙な日々を過ごす二人は、世界を巡りながら電話で、FAXで、メールでと語り合う。一気に燃え上がる私と同じような年齢の笙子の恋に、我が身も重ねてみる。私のような年齢で、そんな恋はできるのだろうか、いやそれは無理と思いつつも憧れたりもした。
飛行機で偶然隣り合わせた女性の電話番号を聞き、すぐさま電話で食事に誘う。我が人生では、到底できなかったことだ。「もしあの時」はないが、もしあの時に電話をする勇気があったら、食事に誘う勇気があったら、そうしたことはしばしばあった我が人生。
この小説は、少なくない部分は、岸惠子の実体験と思うが、ネットで調べても「九鬼」のモデルはわからなかった。この本が出版された頃に、週間誌に書かれていたように思うだが。
ところで、笙子は「古来稀」(70歳)の誕生日の夜に、「受け入れることができなかった」。その「かくも長き不在」の後の「女として凋落の縁」を彷徨い、回復を求めて婦人科医を訪れる覚悟を、とても美しく感じた。
するとふいに、主人公・国分隆一郎(73歳)が「突然襲われた、回復しようのない性的不能」について書かれた、渡辺淳一著『愛ふたたび』(幻冬舎)を思い出した。そして同時に、国分の自己満足に満ちた言動(小説)に辟易したことを思いだした(そして、もう渡辺淳一は読まないと思ったことも)。
それにしても、「出会うのが遅すぎた分、九鬼には九鬼の、笙子には笙子の、修正も矯正もできない、断固とした、人生の道のりが既に、できあがってしまっているのだ」、と言うこの文章に惹かれた。小気味いい、岸惠子の人として生きる矜持のようなものを感じた。
この小説『わりなき恋』には、次のような文章がある。
「元気を出してね」
「うん、もう大分、元気になった。あしたからまたばりばりやる」
「何を?」と、からかうように、すこし心配顔の砂丘子が訊いた。
「生きることを」
期待せずに読み始めたが、「男女間のあらゆる感情を呑み込みながら謳い上げる人生賛歌」を読んで心地がよい。私も「生きることを、ばりばりやろう」と思う。
北川景子の麗子お嬢様に胸キュン、映画「謎解きはディナーのあとで」を観た
映画「謎解きはディナーのあとで」を観に行った。過日、吉備路文学館で、原作者の東川篤哉さんのトークを聞かせていただいたお礼の意味もある。と同時に、やはり北川景子の麗子お嬢様を見たいとも思ったからでもある。
この「謎解きはディナーのあとで」は、テレビで見ていた。北川景子の令嬢刑事に、「失礼にがら」と毒づく櫻井翔の執事が人気だった。そのテレビ番組の映画化であり、まさに気分転換の映画鑑賞だ。
舞台は豪華客船の船内、映画化にあたってのスケールアップか。前半は風祭警部が、そして後半は当然だが執事の景山の出番だ。宮沢りえの出演は嬉しかった。加えて、2010年の映画「最後の忠臣蔵」で出会った桜庭みなみにも、また魅了された。
ところで、北川景子のデビュー作は、ナント、2003年のテレビドラマ「美少女戦士セーラームーン」だったそうだ。それは知らなかった。それにしても、せっかくの映画化であり、もう少しだけ北川景子の麗子お嬢様ぶりを見たかった思いがないではない。ともあれ、しばし、心のお洗濯の時間を過ごした。