「感動をありがとう」「勇気をもらった」-オリンピックやW杯で、メディアにこの言葉があふれるたびに背中に虫唾が走る。ひねくれ者と言われようが何だろうが、違和感を覚えるのだから仕方がない。
あれは確か、長野オリンピックのジャンプ団体で日本が金メダルを取ったときだった。実況アナウンサーが「感動をありがとう」といったのが始まりだったはずだ。一般人が、すぐに反応した。おまけに「勇気をもらった」まで付け加えて、日本中にこの二つの言葉があふれかえった。以来、大舞台で日本選手が活躍する度に繰り返されている。
何がいやだっていうのかというと、何より日本語の使い方として変なのだ。感動はするものであって、あげたり、もらったりするものではない。ちなみに勇気は「勇気づけられた」が正しい。そんな固いこと言ってるから、頭が固くなるのだと言われれば、その通りで、取ってつけた嫌いの理由にすぎない。だから、PKを外した駒野が帰国会見で「チームのみんなから勇気をもらった」と言ったことは素直に聞き流せる。
たぶん、この二つの言葉が醸し出す選手と観客の距離感がたまらなくいやなのだ。そんなのばっかじゃないのと言われても、どうにもいやなものはいやなのだ。
こんな気持ちになるのは自分だけなのかと思ったら、作家の奥田英朗氏がアテネ五輪観戦を記した著書の中で、感動をありがとうという言葉が大嫌いだと書いており、密かに溜飲を下げた。
あれは確か、長野オリンピックのジャンプ団体で日本が金メダルを取ったときだった。実況アナウンサーが「感動をありがとう」といったのが始まりだったはずだ。一般人が、すぐに反応した。おまけに「勇気をもらった」まで付け加えて、日本中にこの二つの言葉があふれかえった。以来、大舞台で日本選手が活躍する度に繰り返されている。
何がいやだっていうのかというと、何より日本語の使い方として変なのだ。感動はするものであって、あげたり、もらったりするものではない。ちなみに勇気は「勇気づけられた」が正しい。そんな固いこと言ってるから、頭が固くなるのだと言われれば、その通りで、取ってつけた嫌いの理由にすぎない。だから、PKを外した駒野が帰国会見で「チームのみんなから勇気をもらった」と言ったことは素直に聞き流せる。
たぶん、この二つの言葉が醸し出す選手と観客の距離感がたまらなくいやなのだ。そんなのばっかじゃないのと言われても、どうにもいやなものはいやなのだ。
こんな気持ちになるのは自分だけなのかと思ったら、作家の奥田英朗氏がアテネ五輪観戦を記した著書の中で、感動をありがとうという言葉が大嫌いだと書いており、密かに溜飲を下げた。