21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

「維新と慎太郎」の笑劇

2014-03-07 00:16:33 | 政治にモノ申す
 石原慎太郎という政治家について、あるいは石原慎太郎という男の人間性に関して、これまでじっくり考えてみたことがなかったが、今回の維新内部のごたごたを見るにつけ、興味を持ってしまった。

 私が石原慎太郎の存在を知ったのは、もちろん小説家としてだが、実際は裕次郎の兄という程度にしかとらえていなかった。太陽の季節は、ちらっと映画はみたものの原作は読んでいないし、これからも読むことはないだろう。つまり、小説家慎太郎にはまったく興味がない。

 多少興味を持ったのは、彼が衆院議員になって中川一郎らと青嵐会でやんちゃをしていたころだ。こいつらには絶対に日本を任せたくないと高校生の頃に心から思った。やがて、議員を辞め都知事になり、また性懲りもなく議員になったが、印象はただただ国取りゲームを楽しんでいるようにしか見えない。

 民主が政権交代を果たしたことにより、自民の一党支配は終焉を迎え、やっとこの国にも政権交代可能な時代が到来した。そして、民主の不甲斐なさに乗じて、既成政党を叩く新たな政党が国民に受け入れられ、維新が急成長した。そこに乗っかったのが慎太郎軍団だった。狙いは数による国取りの一点。つまり、寄り合い所帯の民主と同じことを始めたわけだ。

 その結果が、今日の維新のゴタゴタというわけだ。それにしても慎太郎という男、言いたい放題、やりたい放題は正直で誠に結構だが、唯一気にくわないのは所詮は勝ち馬に乗るしか能がないのに、そんな己の性分を全く理解していない点だ。

 小沢一郎は壊し屋と罵られながらも、政治を変えるためにひたすら権力の座を求めて、見込みがあれば己を殺してとりあえず数集めに奔走する。そして、ここ一番に勝ち馬に乗り、そこで実権を握ろうとして最後はこける。

 石原慎太郎は妥協を嫌う癖に勝ち馬に乗ろうとするから殊更性質が悪い。結局は、この国がどうなろうが、持論をぶち大衆がわーっと騒げばそれで満足なわけで、真剣に政治を変えようなどとは考えていないのだ。所詮は無責任な国取りゲームに興じているだけではないのか。やはり、慎太郎は政治家ではないのだろう。

 元来、政治家ではない人間が政治をやるとロクなことにならない。細川護煕しかり、青島しかり、猪瀬またしかりである。

 政治家とは時に己を欺き、大衆に媚を売り、とことん勝ち戦にこだわる人種である。武将でいえばやはり家康と秀吉ということになる。小田信長は決して政治家ではないのだ。

 早晩、維新は割れて、なくなるだろう。次の政権は果たして再編による新党なのか、粘り腰で民主が息を吹き返すのか。少なくともそこに慎太郎はいないはずだ。

 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする