21世紀中年

昭和オヤジのときめき、ひらめき、感激、嘆きを思いのままに書き連ねます

キリギリス人の平和主義

2014-07-02 05:22:44 | 雑記帳
 深夜、アルゼンチンの勝利を見届けながら、一冊の本を読み終えた。竹内真の「図書室のキリギリス」だ。小説の内容は割愛するが、最後のこんな一文から、頭の中が目まぐるしく回転しはじめた。

 <しかし、まれに温かな環境に恵まれたキリギリスは二年目の春を迎えることができるらしい>

 かなり昔、30歳の愛娘がまだ小学校の低学年だったと思う。夏休みに採集したキリギリスが、根雪となった12月になっても虫かごの中で元気に泣いていた。当時住んでいた家が昼夜温かい集中暖房の公団住宅だったためにキリギリスにとっては居心地満点だったようだ。特別なことをしたわけでなくただ毎日キュウリなどの餌を与えていただけである。夜中にギーギー泣かれるとさすがに腹がたったが、殺すわけにもいかず、まあ、好きなだけ生きればいいさと餌を与え続けた。体はさすがに黄色っぽく変化していたが、窓の外の雪景色と対象的に元気に泣いていた。

 しかし、そんなキリギリスも年を越したら息絶えてしまった。理由は簡単、正月家族で田舎に帰省して戻ってきたら、硬くなって倒れていた。3日間餌があたらず餓死したのだ。娘は特に虫好きな子供ではなかったので、「死んじゃったね」と冷めた口調で、悲しげでもなかったのが救いではあった。長生きさせたかったと悔やんだのは私くらいだったが、餌の心配もしないで出かけたのだからどうしょうもない。

 そんな昔の出来事を思い出すと、眠気が吹っ飛び、TVを消してからもしばし頭の中でキリギリスが頭から離れなかった。ノースリーブスの「キリギリス人」ってどんな歌だったか気になり、確か、飲めや歌え的な享楽的な歌詞だったのではなかったか、などと考え、次には北国の人間は厳しい冬を越すことが生きるという行為の証しかもとどんどん発想がとまらなくなり、北国の人間はアリで、南国の人間がキリギリスかと、バカバカしい事を考えてしまった。

 バカバカしいとはいえ、北国の人間にとって冬を越すということは確かに生きるための最も現実的な目標であるのに対し、南国の人間に北国の越冬に匹敵する一大目標はあるのかと気になってしまった。

 そうこうするうちにうとうと眠ってしまい、起きるとベルギーとアメリカがまたまた、1点を争う好ゲームを展開していた。今日は仕事が休みなので、このままゲームを見ることにする。

 それでも、キリギリスから始まった連想は頭から離れず、こうしてとめどない話を書き始めてしまった。どこまで、連想が続くか分からないが、今、覇権主義は北国の暮らしに耐えられない人間の南下思想が発端なのではと思い始めている。集団的自衛権の憲法解釈変更の暴挙が、こんなところにも影響しているようだ。アリとキリギリスになぞらえれば、勤勉実直なアリの発想は覇権主義につながり、キリギリスの享楽主義はそこに発展することはないのではないか。

 集団的自衛権の行使は日本の平和を維持するために不可欠とする主張は欺瞞に満ちている。平和を維持するために戦った瞬間に平和などあとかたもなく消えるという現実を無視してはならない。ならば、恒久平和を望むなら決して戦ってはならないという9条は正しい。平和を欲して戦い、結局は平和でなくなるより、最初から白旗掲げて平和を貫くこと方が潔いし、本望ではないか。キリギリス人で結構、戦争という冬など越せなくても結構だ。

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 安倍ファシズム政権から目を... | トップ | 山口真由が娘の同級生だったとは »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

雑記帳」カテゴリの最新記事