軍隊と戦争
戦後の日本は、平和憲法の下で軍隊を持たないことになりました。これは、人類の長い歴史とその将来を考えてみれば、大変優れた知恵だと思っています。
戦後、軍隊を持たない日本にも、「2つの軍隊がある。読売巨人軍と救世軍だ。」などというジョークが流行ったことがありましたが、第二次大戦を経験した日本人は、それを良しとし、世界は平和であるべきだと考え、安んじて暮らしてきました。
軍隊を持つことは戦争に近づくこと、持たないことは戦争から遠ざかること本能的に感じていたからでしょう。
これはまさにその通りで、例えば、個人的な殺傷事件の場合でも、加害者や被害者が凶器を持っていた場合と全く素手の争いだった場合とでは、ニュースを聞く我々にとっての印象は全く違うでしょう。
凶器を持っていた場合は、「ああやっぱりそういう事だったのか」と誰しも思います。凶器を持つことは、当事者が予め争いに近づくこと当然に想定していたと受け取られます。
それを承知でか、知らずにか、「日本も軍隊を持つべきだ」という意見がまたぞろ聞こえるようになったように感じられます。「自衛隊を国防軍に」などという意見も聞かれたりしますが、軍隊を持つことは、やはり日本が戦争に近づくことでしょう。
ソマリアの海賊問題の折に「軍隊と警察」を書かせて頂きましたが、国連の平和維持活動に貢献するというのであれば、本来国連中心主義を掲げる日本は、国連は世界全体に不正を許さない、まさに超国家的な警察システムを持つべきだと提唱し、その国連警察に日本は協力を惜しまないことを明確にすべきでしょう。
戦争は基本的に国と国の争いです。そして通常、勝った方が正義ということになるのです。これは同じレベル同士の争いでは、ある意味で致し方のないことで、あるべき解決の方向というのは、それより一段上のレベルから判断し、正、不正を見極め、地球人類として、より多くの人があるべき方向と考えることを人類の正義とすべきでしょう。
「地球はまだそんな時代にはなっていない」という意見もあるでしょう。しかし100年、200年先の世界を先取りした平和憲法を持っている日本だからこそ、それが言えるのです。
日本が国連の常任理事国になりたいというのなら、そうした目的を鮮明にして、率先して将来世界の姿を語るべきでしょう。
戦後の日本は、平和憲法の下で軍隊を持たないことになりました。これは、人類の長い歴史とその将来を考えてみれば、大変優れた知恵だと思っています。
戦後、軍隊を持たない日本にも、「2つの軍隊がある。読売巨人軍と救世軍だ。」などというジョークが流行ったことがありましたが、第二次大戦を経験した日本人は、それを良しとし、世界は平和であるべきだと考え、安んじて暮らしてきました。
軍隊を持つことは戦争に近づくこと、持たないことは戦争から遠ざかること本能的に感じていたからでしょう。
これはまさにその通りで、例えば、個人的な殺傷事件の場合でも、加害者や被害者が凶器を持っていた場合と全く素手の争いだった場合とでは、ニュースを聞く我々にとっての印象は全く違うでしょう。
凶器を持っていた場合は、「ああやっぱりそういう事だったのか」と誰しも思います。凶器を持つことは、当事者が予め争いに近づくこと当然に想定していたと受け取られます。
それを承知でか、知らずにか、「日本も軍隊を持つべきだ」という意見がまたぞろ聞こえるようになったように感じられます。「自衛隊を国防軍に」などという意見も聞かれたりしますが、軍隊を持つことは、やはり日本が戦争に近づくことでしょう。
ソマリアの海賊問題の折に「軍隊と警察」を書かせて頂きましたが、国連の平和維持活動に貢献するというのであれば、本来国連中心主義を掲げる日本は、国連は世界全体に不正を許さない、まさに超国家的な警察システムを持つべきだと提唱し、その国連警察に日本は協力を惜しまないことを明確にすべきでしょう。
戦争は基本的に国と国の争いです。そして通常、勝った方が正義ということになるのです。これは同じレベル同士の争いでは、ある意味で致し方のないことで、あるべき解決の方向というのは、それより一段上のレベルから判断し、正、不正を見極め、地球人類として、より多くの人があるべき方向と考えることを人類の正義とすべきでしょう。
「地球はまだそんな時代にはなっていない」という意見もあるでしょう。しかし100年、200年先の世界を先取りした平和憲法を持っている日本だからこそ、それが言えるのです。
日本が国連の常任理事国になりたいというのなら、そうした目的を鮮明にして、率先して将来世界の姿を語るべきでしょう。