今日は、岸田総理の1日遅れた所信表明演説です。
すでにマスコミでも、総理が時限的な所得減税の指示をしたとか、野党は社会保険料の軽減とか給付金支給とか、物価と庶民生活の問題についての論点は賑やかですが、いずれも国民所得の分配構造といった基本問題より、実質賃金の低下といった表面的な事象へのパッチワークをどうするという議論のようです。
そのあたりはこれからの与野党の議論を見ていくしかありません。今日は、パレスチナ問題で世界中が大きな心痛を抱く「報復の連鎖」についてです。こうした問題に根本解決はないという視点と、日本の取るべき態度について考えてみたいと思います。
パレスチナ、ハマスの問題は歴史を遡れば、十字軍の時代にい達するといわれます。
但し、宗教の問題は、歴史の中でも宥和の時代もあり文化的にも、イスラム教文化とキリスト教文化の融合は、ヨーロッパでもたくさん見られるところです。
庶民の世界では宗教の平和共存は日常生活の中で一般的なものでしょう。宗教が違えば対立しなければならないというのは、宗教が政治と結びついて、権力者が自分の権力拡大の野心を持つ場合に限られるのではないでしょうか。
この実態をつぶさに見れば、宗教の違いは実は口実で、本心は自分の権力の維持拡大のために宗教の違いを利用するというのが真実に近いようです。
ロシアの場合は、プーチンの領土拡大の野望が原点であることは明らかですし、イスラエルとパレスチナにしても、双方の住民の間では摩擦も相互依存もあり、ミサイルや空爆による相互に巨大な犠牲を強いる破壊と殺戮を望むなどという事はありえないでしょう。
にも拘らず、巨大な人的、物的犠牲を無視して、テロと呼ばれる攻撃を仕掛けるのは、自分の権力・立場の誇示、相手に大きな 損害や衝撃を与えれば権力者としての権威を誇示できるという、事の前後もを弁えない衝動の結果でしょう。
対立する相手は、当然こうした攻撃を座視することが出来ません。戦争に引き込まれざるを得ない事は正当防衛(反撃行動)が国際法上も認められているように、避ける事の出来ない状況に追い込まれるのです。
そして、こうした行動は、歴史的に見れば権力者の権力意欲が強いほど「報復の連鎖」となって繰り返されるのです。
この「報復の連鎖」を断ち切る話は、日本では仇討禁止令や菊池寛の「恩讐の彼方に」などいろいろあり、人類は知恵を発揮して来たのでしょうが結局は個人の場合は怨念、組織や国の場合は権力者の欲と人間性の在り方に帰結するのでしょう。
システムとして「権力者の欲望」を封じ込める主要な方法は民主主義でしょう。歴史が示すように戦争を起こすのは独裁者が殆どです。庶民は何時でも何処でも平和を望んでいて、その願望は武器の進歩とともに強くなり、原爆については決定的な反対となっています。
という事で、それでは、最後に日本のあるべき姿につてです。
日本は憲法で戦争放棄を謳う国です。そしてこの70余年、国際対立を無くすべく常に努力して来ています。
その成果は、多くの国が「多くの対立関係がある世界の国々の中で、日本は、対立を抑止し、話し合いを尊び、紛争を抑止するための考動の出来る国、という見方に結実しています。
ところがトランプ=安倍の蜜月以来、アメリカ追随の行動が多くなり、その見方にひびが入りつつあるようです。
アメリカが国際関係について一方的な見解を取る時、日本はアメリカに「対立は非、話し合い、融和こそが持続可能な世界の平和と安定発展を齎す」と率直に発言すべきだ、と言ってほしい。それが言えるのは日本しか無い、という意見が聞こえています。
つまり日本にはアメリカだけではなく世界全体を見てほしい、日本なら、アメリカに率直に意見を言えるはずだという見方でしょう。
こうした意見がある事を日本は誇りに思わなければなりませんし、日本国民もそれを望んでいるでしょう。
岸田政権の視線の先には、アメリカだけではなく「世界人類社会」全体があって欲しいとという広汎な願いを岸田政権はどう理解するのでしょうか。
すでにマスコミでも、総理が時限的な所得減税の指示をしたとか、野党は社会保険料の軽減とか給付金支給とか、物価と庶民生活の問題についての論点は賑やかですが、いずれも国民所得の分配構造といった基本問題より、実質賃金の低下といった表面的な事象へのパッチワークをどうするという議論のようです。
そのあたりはこれからの与野党の議論を見ていくしかありません。今日は、パレスチナ問題で世界中が大きな心痛を抱く「報復の連鎖」についてです。こうした問題に根本解決はないという視点と、日本の取るべき態度について考えてみたいと思います。
パレスチナ、ハマスの問題は歴史を遡れば、十字軍の時代にい達するといわれます。
但し、宗教の問題は、歴史の中でも宥和の時代もあり文化的にも、イスラム教文化とキリスト教文化の融合は、ヨーロッパでもたくさん見られるところです。
庶民の世界では宗教の平和共存は日常生活の中で一般的なものでしょう。宗教が違えば対立しなければならないというのは、宗教が政治と結びついて、権力者が自分の権力拡大の野心を持つ場合に限られるのではないでしょうか。
この実態をつぶさに見れば、宗教の違いは実は口実で、本心は自分の権力の維持拡大のために宗教の違いを利用するというのが真実に近いようです。
ロシアの場合は、プーチンの領土拡大の野望が原点であることは明らかですし、イスラエルとパレスチナにしても、双方の住民の間では摩擦も相互依存もあり、ミサイルや空爆による相互に巨大な犠牲を強いる破壊と殺戮を望むなどという事はありえないでしょう。
にも拘らず、巨大な人的、物的犠牲を無視して、テロと呼ばれる攻撃を仕掛けるのは、自分の権力・立場の誇示、相手に大きな 損害や衝撃を与えれば権力者としての権威を誇示できるという、事の前後もを弁えない衝動の結果でしょう。
対立する相手は、当然こうした攻撃を座視することが出来ません。戦争に引き込まれざるを得ない事は正当防衛(反撃行動)が国際法上も認められているように、避ける事の出来ない状況に追い込まれるのです。
そして、こうした行動は、歴史的に見れば権力者の権力意欲が強いほど「報復の連鎖」となって繰り返されるのです。
この「報復の連鎖」を断ち切る話は、日本では仇討禁止令や菊池寛の「恩讐の彼方に」などいろいろあり、人類は知恵を発揮して来たのでしょうが結局は個人の場合は怨念、組織や国の場合は権力者の欲と人間性の在り方に帰結するのでしょう。
システムとして「権力者の欲望」を封じ込める主要な方法は民主主義でしょう。歴史が示すように戦争を起こすのは独裁者が殆どです。庶民は何時でも何処でも平和を望んでいて、その願望は武器の進歩とともに強くなり、原爆については決定的な反対となっています。
という事で、それでは、最後に日本のあるべき姿につてです。
日本は憲法で戦争放棄を謳う国です。そしてこの70余年、国際対立を無くすべく常に努力して来ています。
その成果は、多くの国が「多くの対立関係がある世界の国々の中で、日本は、対立を抑止し、話し合いを尊び、紛争を抑止するための考動の出来る国、という見方に結実しています。
ところがトランプ=安倍の蜜月以来、アメリカ追随の行動が多くなり、その見方にひびが入りつつあるようです。
アメリカが国際関係について一方的な見解を取る時、日本はアメリカに「対立は非、話し合い、融和こそが持続可能な世界の平和と安定発展を齎す」と率直に発言すべきだ、と言ってほしい。それが言えるのは日本しか無い、という意見が聞こえています。
つまり日本にはアメリカだけではなく世界全体を見てほしい、日本なら、アメリカに率直に意見を言えるはずだという見方でしょう。
こうした意見がある事を日本は誇りに思わなければなりませんし、日本国民もそれを望んでいるでしょう。
岸田政権の視線の先には、アメリカだけではなく「世界人類社会」全体があって欲しいとという広汎な願いを岸田政権はどう理解するのでしょうか。