ネットでXを見ていたらこんな投稿に出会いました。
埼玉の地名で「この字読めますか?」と言うのです。これを見てとても懐かしく思いました。
私は、この地に1944年から46年まで2年程「縁故疎開」していました。「縁故疎開」と言う言葉自体がわかる方が少ないと思います。
太平洋戦争でアメリカ軍の空襲が激しくなり、東京にいられなくなりました。小学校高学年の生徒は学校単位で「集団疎開」しました。1年生だった私は母親の実家に疎開しました。そこが男衾でした。駅から4km離れた農家でした。そこで農作業の苦労を目の当たりにしました。米作り、麦踏、草刈り、炭焼きなどなど東京では体験できないことばかりでした。イナゴ、カエル、桑のみなども食べました。
アメリカ軍の機銃掃射や熊谷大空襲も見ました。
今でも、平和が第一、米粒ひとつでも大事にする と言う私の生きざまの原点です。
池袋から寄居町に行く東武東上線の駅名です。
私の思い出の詰まった駅名です。