囲碁きちの独り言 Ⅱ

趣味の旅行、うたごえ、囲碁の事や日常の出来事を記録する。

「山登り卒業式」・・・

2021-08-10 07:57:00 | ハイキング
8月6日、朝の所沢平和祈念式を済ませてから親戚のお墓参りに行きました。



命日が広島原爆投下の日でしたので忘れることができません。
埼玉・久喜市のお墓参りを済ませて、那須高原に向かいました。
「緊急事態宣言下」の旅行は不謹慎です。でも、旅行に行きには連れ合いが難病のため、主治医の旅行許可、宿泊先に業者の方からあらかじめ酸素ボンベを届けてもらわなければなりません。その為、2か月以上前から準備が必要です。昨年も緊急事態のため直前にホテルをキャンセルしました。同じことは出来ないので予定通り出かけました。
高齢者の運転は危ないから と今回は娘が職場を休んで運転してくれました。親の権威はすっかりなくなりました。

翌日、那須・茶臼岳に登ることにしました。

那須ロープウエイで9合目まで行きました。



連れ合いは頂上駅で休んでいてもらうことにしました。頂上までの往復は90分とありました。



頂上駅からルき出しました。子ども、女性などフアミリー登山の方が多かったです。



牛の首分岐まで行きました。頂上駅まで200mとありますから、それだけしか歩いていません。


分岐を過ぎると本格的な山になり、急登になりました。



頂上を目指す人はと途端に少なくなりました。
娘はドンドン登ります。しかし、頂上まで45分、とても歩けそうもありません。息が苦しくなり、ハァハァするばかりで足が前に進みません。
残念ながら頂上はあきらめることにしました。
コロナ太りの運動不足がこんなにひどいと思いませんでした。
2021年8月7日は、私の山登り卒業式 になってしまいました。
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御岳渓谷散策・・・

2020-11-14 09:22:32 | ハイキング
所沢うたごえ喫茶LOVE&PEACEのお仲間、3人で御岳渓谷に紅葉を見に行きました。
途中、乗り換えの青梅駅ホームで珍しい方おひとりが増えました。同行のHさんが、元の職場の同僚Mさんを見かけて、一緒に歩いてもらうことにしました。

先ず、川合玉堂美術館に行きました。



日本画の大家です。私は油絵より日本画の方が心を癒されるような気がして、好きです。
美術館の庭園の銀杏が見ごろで素敵でした。

渓谷沿いの遊歩道は台風の被害を受けましたが、やっと修復が済んだようです。



途中、童謡「お山の杉の木」の楽譜と歌詞の歌碑がありました。



戦時中に戦意の高揚ために作られた童謡です。歌碑は2番までしかありませんでした。帰宅後調べたら6番はこんな歌詞でした。
 勇士の遺児なら なお強い
 体を鍛え 頑張って 頑張って
 今に立派な 兵隊さん
 忠義孝行 ひとすじに
 お日様出る国 神の国
 この日本を 守りましょう 守りましょう

でも、アベ・スガ政治は、こんな国にしようと画策していると思うと空恐ろしい気がしました。

ゆっくり・のんびり歩いて目的地の「ままごとや園地」に着きました。
日本車「澤乃井酒造」の庭園です。平日だと言うのにとても混んでいて、テーブルが開いていませんでした。ひとり席に相席してもらい、その方に写真を撮ってもらいました。



私とHさん、途中から同行したMさんは元同業者、そしてMさんは青梅市在住です。LOVE&PEACEのIさんは、青梅市出身でした。共通の話題がいろいろあり、話はつきませんでした。
しかも、美味しい日本酒を飲みながらですからなおさらです。私は「自詰」の酒が辛口ですっきりしていて美味しいように思えました。

男性4人の無粋なグループでしたが、紅葉よし、酒よし、語らいよし の楽しい一日でした。




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さよなら・・・登山靴

2020-05-20 10:48:34 | ハイキング
齢を重ね、いよいよ山登りが出来なくなりました。
そこで、残念ながら登山靴を処分しました。



アチコチの山に登った記念すべき登山靴ですが、やむを得ません。
左が私のものです。右の2足が連れ合いのものです。
私は最初にハイキングに行った時からキャラバンシューズを履いています。今度、処分したのは3足目のキャラバンシューズです。
連れ合いは、私より立派な登山靴を持っていました、右側は革靴で、靴底を張り替えました。元気なころは随分出かけていました。

私が山登りを始めたのは、60歳の時からです。定年退職した時、職場の山の会の後輩に誘われたのが契機です。初めて登ったのが北アルプスの槍ヶ岳でした。天候不良で槍のてっぺんには登れませんでした。

今日、百名山の本で調べたら、45座に登っています。どの山もやっとの思いで登りました。77歳位までですが、事故もなく登り通せたのは後輩の山仲間のお陰で、感謝、感謝です。

また、「連れて行って!」と頼みたいですが、気力はあっても体力がありません。

今年は、コロナの関係で、富士山はすべての登山道が閉鎖だそうです。富士山には登っていません。登る山でなく「眺める山だ」と思っているからです。これからは、すべての山が「眺める山」になってしまいます。里山から頂を眺めるのも良いものだと思います。
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今の時代に似ている・・・

2020-03-30 18:05:52 | ハイキング
予定した用事がコロナの関係で中止になったため一日中、家にいました。
そこで、録画してあったテレビ番組を見ました。
「二・二六事件の全貌」です。海軍の極秘文書が見つかり、その記録に基づく実証を再現しています。

二・二六事件は、私が生まれる前の年に起きました。この事件を契機に、昭和天皇がますます神格化され、軍部の発言力が強くなり、その後の政治が軍部の言うままに動いたことを示しています。
国民を抑圧し、無謀な戦争に突き進み、事件からたったの9年後には日本は敗戦を迎えました。

陸軍も海軍も青年将校に責任を押し付け、自らの組織を守ることに腐心していたことがわかり、今の政治によく似ています。
現在、一強と言われる政治が大手を振って進められ、国政を私物化し、議会も司法もマスメディアも、「忖度」して官邸にもの言わぬ雰囲気が横行しています。
これこそ、私には、いつか来た道 の繰り返しのように思えます。
いろいろ考えさせることがありますので、機会がありましたら、ぜひ、ご覧ください。



以下、NHKの解説から・・・

二・二六事件から戦争への道

日本を揺るがした、戦慄の4日間。

陸軍上層部は、天皇と決起部隊の間で迷走を続けた。それにもかかわらず、事件の責任は、決起部隊の青年将校や、それにつながる思想家らにあると断定。弁護人なし、非公開、一審のみの「暗黒裁判」とも呼ばれた軍法会議にかけた。

事件の実態を明らかにしないまま、首謀者とされた19人を処刑し、陸軍は組織の不安は取り除かれたと強調した。一方で、事件への恐怖心を利用し、政治への関与を強めていった。

「現に目の前で何人も銃で殺されたり、斬り殺されたりという事件を見て、政治家も財界人も、もう陸軍の言うことに対して、本格的に抵抗する気力を失っていくんですね。これが二・二六事件の一番、その後に対する影響力の最たるものですね」(戸髙さん・大和ミュージアム館長)

34歳で、事件に直面した天皇。軍部に軽視されることもあった中、陸海軍を動かし、自らの立場を守り通した。クーデター鎮圧の成功は、結果的に、天皇の権威を高めることにつながった。

「二・二六事件を経て、軍事君主としての天皇の役割はすごく強くなってしまって。天皇の権威、神格化といってもいいですが、そういうものが二・二六事件で大いに進んだことは間違いないと思います」(山田さん・明治大学 教授)

事件後、日本は戦争への道を突き進んでいく。高まった天皇の権威を、軍部は最大限利用して、天皇を頂点とする軍国主義を推し進める。そして軍部は、国民に対して命を捧げるよう求めていく。

日本は太平洋戦争に突入。天皇の名の下、日本人だけで310万人の命が奪われ、壊滅的な敗戦に至った。二・二六事件からわずか9年後のことだった。

戦後、天皇は忘れられない出来事を2つ挙げている。終戦の時の、自らの決断。そして、二・二六事件。

「戦後天皇がもしこの事件に非常に思いをもっているとすれば、これは後の戦争に突き進んでいくような一つの契機になった事件、実は自分が起こした強い行動っていうのは、戦争に進んでしまった要因の一つではないかと、戦後いろいろな思いをもった可能性も考えられる」(河西さん・名古屋大学大学院 准教授)

晩年、天皇は、2月26日を「慎みの日」とし、静かに過ごしたという。

二・二六事件を記録し続けた海軍は、その事実を一切公にすることはなかった。なぜ事実を明らかにしなかったのか。極秘文書6冊のうち、事件後、重要な情報をまとめたと思われる簿冊がある。そこには海軍が、事件前につかんだ情報が書かれていた。その内容は、詳細を極めていた。

事件発生の7日前。東京憲兵隊長が海軍大臣直属の次官に、機密情報をもたらしていた。

「陸軍・皇道派将校らは、重臣の暗殺を決行
 この機に乗じて、国家改造を断行せんと計画」

襲撃される重臣の名前が明記され、続くページには、首謀者の名前が書かれていた。事件の一週間も前に、犯人の実名までも、海軍は把握していたのだ。

海軍は、二・二六事件の計画を事前に知っていた。しかし、その事実は闇に葬られていた。なぜ事件は止められなかったのか、その真相は分からない。ただ、その後起きてしまった事件を海軍は記録し続けた。そこには、事件の詳細な経緯だけでなく、陸軍と海軍の闇も残されていた。

昭和維新の断行を約束しながら青年将校らに責任を押し付けて生き残った陸軍。事件の裏側を知り、決起部隊ともつながりながら、事件とのかかわりを表にすることはなかった海軍。

極秘文書から浮かび上がったのは二・二六事件の全貌。そして、不都合な事実を隠し、自らを守ろうとした組織の姿だった。

「本当のことを明らかにするのは、ものすごく難しいことで。如何に事実を知るということが難しいかということですよね。たまたま私どもは、何十年ぶりかに現れた資料によって、今まで知られなかったことがわかるわけですが、こんなことは類いまれなことで、わからないまま生きているんだと」(田中宏巳さん・防衛大学校名誉教授 極秘文書を発見した研究者)

事実とは何か。私たちは、事実を知らないまま、再び誤った道へと歩んではいないか。83年の時を超えて、蘇った最高機密文書。向き合うべき事実から目をそむけ戦争への道を歩んでいった日本の姿を今、私たちに伝えている。
コメント (2)
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言い得て妙・・・

2020-03-23 16:13:41 | ハイキング
今日の東京新聞の「本音のコラム」です。

看護師の宮子あずささんが「どさくさリスク」の表題をつけて、コロナウイルス問題に絡めて官邸や国会での問題を指摘していました。



今日の参議院予算員会での審議でも、森友学園問題等が取り上げられていました。宮子さんは、そんなことも含めて「どさくさに紛れて」アベ政権が三権分立を侵すようなことをやっていることに警鐘を鳴らしています。
ぜひ、読んで共に考えてゆきたいと思います。


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