「千勢は、会社に顔を出したことがあるの? たとえば、武蔵の忘れ物を届けたりとか」
「とんでもありません! 旦那さまがわすれものなんて。
だいいち、お仕事をご自宅におもちかえりになられることは、いっさいありません。
ですから、一度もありません」
大きく頭を振って否定する千勢。どうしても知られたくないという思いが強い千勢だ。
「でも、誰か来た事はあるでしょ? たとえば、徳子さんとか」
「あ、それもありません。女子社員は、げんきんなんです。ぜったい立ち入り禁止です。
誤解をまねくおそれがあるからと。なにせ旦那さまの女性関係……。とにかく、一度もございません」
失言をしたと慌てる千勢だった。そのあわてぶりからして、なにかを隠していると思える。
だがしかし女子社員云々は、どうやら本当だろうと、頷く小夜子だ。
「でも、千勢が居ないときなんかは?」
わざと意地悪い質問をぶつけてみた。
「小夜子奥さまがいらっしゃるまでは、千勢が住みこんでおりましたから。
けっしてそのようなことはありませんでした」
「そう、そうなの。公私のけじめはきちんと付けてるのね。
武蔵らしいわね、確かに。でも、男子社員は良いんでしょ?」と、本筋に入った。
このことを聞き出すが為の、徳子の名前であった。
「はい。でも、竹田さんだけです。あとは、加藤せんむさんはたびたびお見えになりますが。ほかには、どなたもです」
千勢の口から竹田という名前が出た折にぽっと頬が赤らんだことを、小夜子は見逃さなかった。
と同時に、小夜子の胸の奥がざわついた。
小夜子すら殆ど気付かぬ程のものではあったが、途端に小夜子の機嫌が悪くなりもした。
「専務のことは言わないで! あたし、あの人嫌い!
武蔵が頼りにしてるみたいだから、仕方なく顔を合わせるけれど。
ほんとは顔も見たくないの。だから今後一切、あたしの前では口にしないで!」
小夜子のあまりの剣幕に、青ざめた表情で頭をこすりつけた。
五平のことが遡上にのぼったためだと、「いっさい口にいたしません、もうしわけございません」と平謝りをした。
「良いのよ、千勢。きつく言い過ぎたわ、あなたが悪いわけじゃないのにね。
加藤専務はね、どうしても、生理的に受け付けないのよ。
あなたにとっては善い人らしいし、恩人みたいなのよね。
まあね、あたしにしてもねえ。武蔵に引き合わせてくれたのは、あの人なのよね。
感謝しなければいけないのかもね、ほんとは。
でもさ、武蔵に会わなかったらさ、武蔵の援助がなかったらさ、アーシアの元に行ってたかもしれないし。
そうしたらアーシアも死ぬことがなかったかもしれないし」
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