11日(土)。5月の連休に開催予定だった「ラ・フォル・ジュルネTOKYO 2020」については3月中に中止が発表され、同月31日にメールで「払い戻しに関するお知らせ」が届きました それによると、「セブンイレブンでのチケット代金支払い/セブンイレブンでのチケットの引き取り」の場合は、「4月10日(金)10:00以降にセブンイレブンで一度チケットを発券し、発券から24時間後から同じ店舗で払い戻しを受けるよう」求めています
二重手間だと思いますが、どうやらシステム上の問題のようです。このため、昨日いつものセブンイレブンで10枚のチケットを発券してもらいました
面倒ですが、今日の午後以降、同じ店で払い戻しをしなければなりません
コンサートが中止になると色々なところで不具合が生じるようです
NHK交響楽団から4月定期公演(A・B・Cの全6公演)中止に関するお知らせと共に機関誌「Philharmony」4月号が送られてきました 先月は読売日響から「月刊オーケストラ」3月号が送られてきました
先日のブログにも書きましたが、NHKや読売グループがバックについている経営基盤が安定しているオーケストラだからできることだと思います
収入のほとんどをチケット収入に頼る多くの自主運営オケにはこういうサービスはできません
ということで、わが家に来てから今日で2019日目を迎え、独英の研究チームによると、世界で検出された新型コロナウイルスを遺伝子型で分類すると、広東省や日本・米・豪のAタイプ、東アジアのBタイプ、欧米のCタイプの3数類に分けられることが分かった というニュースを見て感想を述べるモコタロです
A・B・Cの3種類って まるでN響の定期演奏会のコースみたいだ 4月は中止だけど
昨日の夕食は「牛タン塩焼きとミスジ焼肉」「生野菜サラダ」「卵スープ」にしました ミスジは初めて食べましたが、個人的にはハラミの方が好きです
桐野夏生著「夜の谷を行く」(文春文庫)を読み終わりました 桐野夏生(きりの なつお)さんは1951年金沢生まれ。成蹊大学法学部卒業。1993年「顔に降りかかる雨」で江戸川乱歩賞、1999年「柔らかな頬」で直木賞受賞など、数多くの文学賞を受賞しています
この小説は、1971年から翌72年にかけての冬、榛名山から迦葉山の山あいの山岳ベースで、時代の変革を目指した若者たちが「総括」の大義名分のもとに 凄惨なリンチによって12名の死者を出した「連合赤軍事件」をテーマにしています 当初は合法的な抗議運動を展開していた学生や市民は、しだいに爆弾や銃を武器にして権力に対抗するようになっていきましたが、この中から生まれたのが「赤軍派」であり「革命左派」でした
「赤軍派」は学生を中心としたインテリの理論的な武闘至上主義的な集団で、「革命左派」は地域の労働運動を地道に担ってきた人が多く、「婦人解放」を掲げ、女性メンバーも多く、山に入ったメンバーのうち半数近くは女性でした
このように、党派性が全く違う2つの組織が合体したのが「連合赤軍」でした
アジトから逃げ出し、警察に逮捕されたメンバーの西田啓子は5年間の服役を終え、人目を忍んで慎ましく暮らしていた しかし、ある日 図書館で新聞を見て悲鳴が漏れそうになる。そこには「永田洋子死刑囚が死亡 連合赤軍事件 大量リンチ殺人」という見出しが躍っていた
そんな折、元同志の熊谷千代治から、「古市洋蔵というフリーライターが啓子から当時の話を聞きたがっているので電話番号を教えても良いか」というい電話がかかってくる
過去を振り返ることはしない、と決めていた啓子だったが、一緒に逃亡した君塚佐紀子などの現況も気になるので、こちらから尋ねてみようという気になり、承諾する
それがきっかけになり、啓子は再び過去に向き合うことになる
啓子は米軍基地にダイナマイトをしかけ、物置小屋を爆発させた勇気を買われ、永田洋子に”度胸がある”として可愛がられていた 彼女は仲間の死体を埋める穴を掘ったりしたが、殺人はしていなかった。他の何人かの女性と同様、妊娠していた
「総括」の名のもとに次々と殺されていく仲間を見て、自分もいつ殺されるか分からないと不安を覚え、君塚佐紀子とともに脱走を図ったのだった
啓子はしばらくフリーライターの古市洋蔵から元同志の情報を電話で教えてもらっていたが、今は名前を変えて生きている君塚佐紀子に会いに行かないかと誘われる 実際に会ったら丸く太っていてまるで他人のようだった。彼女は両親から縁を切られ、名前を変えて目立たないように必死に生きていた
東日本大震災で母親と弟を亡くしたが、縁を切られているのでは墓参りにも行けないと言っていた
しばらくして、古市は今度は啓子を 事件のあった山岳ベースに行かないか、と誘った 啓子はすっかり変わってしまった現地で過去のあれこれを思い出す
その時、古市から「自分の父親は牧師だったが、71歳の時に自分が養子として貰われた。父親によると、自分が生まれたのは栃木県女子刑務所の中だった
その時、妊娠していたのは5人で、獄中で出産したのは1人だけだった
」という告白を聞く
啓子は長い間 心にしまっておいた秘密から解放された
巻末の「解説 彼女と私たちが生きた時代」を、連合赤軍事件で永田洋子の弁護士を引き受けた大谷恭子さんが書いていますが、とかく”集団リンチ”などが前面に出がちなこの事件を、もう一つの側面から捉えて鋭い分析を加えています 超訳すると、
「山岳ベースは、武闘闘争の訓練の場であると同時に、そこで理想的な共同体をつくり、次の世代を産み育てる根拠地として位置づけられていた 特に永田さんを指導者とする革命左派は、山岳ベースを根拠地とすることを鮮明に打ち出していた。山に入ったメンバーには看護師もいたし、永田さん自身も薬剤師として病院勤務の経歴がある
彼らは、山に理想的な根拠地を作ろうと、まだ乳飲み子だったわが子を連れて夫婦ともども山岳ベースに入り、あるいは妊娠した恋人と共にベースに入り、そこで子どもを産み育てようとしていた
そこにどんな共同生活を思い描いていたのか、この思いと、これが崩壊していく様を、もっと女性の視点で取り上げられてもよかったと思うが、おもに軍事を優先しようとした赤軍派からの発言と永田さんの言動が注視され、革命左派の無名の女性兵士たちに光が当たることは少なかった
ようやく桐野氏がここに焦点を当て、その当時の彼女らの気持ちと行動、そして、その後の生活を丁寧に物語にしてくれた。・・・あの凄惨な事実と事件から、よくぞここを拾ってくれたと、桐野氏に最大の感謝とエールを送りたい
」
永田洋子は1993年2月 最高裁で死刑判決を受けましたが、2011年2月5日午後10時6分、東京拘置所において脳腫瘍によって病死しました 彼女とともに理想的な共同体をつくろうとしながら 挫折していった「女性兵士」たちは、3月11日の東日本大震災を乗り越えて、どこかでひっそりと暮らしていることでしょう