26日(火)。わが家に来てから今日で2064日目を迎え、新型コロナウイルスの感染拡大で3月上旬を最後に趣味のゴルフをやめていたトランプ米大統領は24日、ワシントン近郊にあるゴルフリゾートを2日連続で訪れプレーしたが、バイデン前副大統領は「新型コロナによる(米国内の)死者が10万人に近づき 多くの人が失業している。それなのに大統領はブルフをしている」と批判した というニュースを見て感想を述べるモコタロです
トランプはそのままゴルフ場に留まって 政治に関わらない方が世界のためになる
昨日、夕食に「鶏肉とホウレンソウの卵とじ」を作りました ヘルシーで美味しいです
「音楽の友」6月号のベートーヴェン「弦楽四重奏曲」特集を読み終わって、何か面白い記事がないかな と探していたら、「ロシア音楽物語 エフゲニー・ムラヴィンスキー ~ レニングラードの奇跡」という浅松啓介氏の記事が載っていました エフゲニー・ムラヴィンスキー(1903-1988)は貴族で法律家の父と歌手の母のもとサンクトペテルブルクで生まれました ムラヴィンスキーはオーケストラに長時間、長期間のリハーサルを強いる厳しい指揮者ということで知られていました 浅松氏は次のように書いています
「私自身がサンクトペテルブルクの音楽院で学んでいた時に、指揮科の教授から聞いた忘れられないムラヴィンスキーのエピソードがある ブルックナー『交響曲第7番』のリハーサルの後に、急きょムラヴィンスキーがその演奏会本番をキャンセルするという出来事があった。彼は、『リハーサルでこれ以上にないほどの演奏ができたため、本番ではそれを超えるものができないから』という理由で 本番を行わない決断をしたのだ その時のことは、いまもムラヴィンスキーの音楽作りを象徴する言葉として語り継がれている」
さらに次のように続けます
「現在の音楽業界を取り巻く環境ではありえない長時間、長期間のリハーサルは、彼とその手兵レニングラード・フィルの土台であったし、世界に名を馳せるオーケストラに仕上げられた大きな理由の一つだ 想像してみてほしい。ソ連という鎖国状態の国で、海外へ出ることもなかなか叶わない状況で、音楽家が持っていた楽器の質を。今からは考えられないほど低品質の楽器を用いて、いろいろな工夫や鍛錬のもと、ああした歴史的演奏を紡ぎ出し世界へ出て行ったことを とにかく妥協のない練習を楽団員に強いて、いわば独裁色を持ちながら、徹底的に音を作り込んでいく時間をとっていた これは共産党政権のもと、他の業種と比べて、はるかに恵まれた給与体系や生活水準が音楽家に与えられていたことも一つの理由だろう」
そして、ムラヴィンスキーとショスタコーヴィチの交友関係に触れ、ショスタコーヴィチ「交響曲第12番ニ短調”1917年”作品112」は特別な意味を持っていると書いています 1917年という年は、ロシア革命、すなわち社会主義への突き進むきっかけとなった十月革命があった年です 貴族の家系に生まれたムラヴィンスキーはこの年、14歳の少年でしたが、裕福な生活環境から財産を没収され、「みな平等に与えられた」小さなアパートに移らされ、天国から地獄へ突き落されたのです 浅松氏は書きます
「地獄を見た形だ。それに加え最愛の父が3年後に亡くなってしまう こうしたあまりにも劇的な出来事が、ずっと彼の人生に横たわっていたそうだ。苦悩、喪失感というような感情や表現に対して、大きなシンパシーを感じて接していたことが、彼とショスタコーヴィチ音楽との相性の良さを押し上げていることは疑いの余地がない さまざまな名演があったなか、それでもやはりショスタコーヴィチの演奏は随一のものであるように思われる」
ここに1枚のCDがあります。ムラヴィンスキー指揮レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団によるショスタコーヴィチ「交響曲第12番ニ短調”1917年”作品112」の演奏です 1984年4月30日、レニングラード・フィルハーモニック大ホールでの録音です この曲はムラヴィンスキーが最後に初演したショスタコーヴィチの交響曲(1961年10月1日、レニングラード・フィルにより初演)ですが、それから23年後に収録したこの演奏が奇しくもムラヴィンスキーが録音した最後の作品となりました
1961年に作曲されたこの作品は第1楽章「革命のペトログラード」、第2楽章「ラズリフ」、第3楽章「アウローラ」、第4楽章「人類の夜明け」の4楽章から成ります ムラヴィンスキーによる研ぎ澄まされた指揮による非常に厳しい演奏です まさにムラヴィンスキーの遺言を聴く思いがします
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