決意だけではなく、行動を貫く

2017年02月20日 16時57分15秒 | 社会・文化・政治・経済
目標を明確に

課題に立ち向かう挑戦の中から分かち合う喜びがあり、希望があるからこそ前に進んでいく。

決意だけではなく、行動を貫く。

立場口先や要領で、人が動くはずがない。
人を真剣にさせるのものは、虚栄も気取りも捨てた、自分の真剣さ以外に絶対ない。

本気で挑戦したら、どんな結果でも納得できる。

苦しいことも全部、自分の糧になる。

仕事で結果を出すには、自分が殻を破らなければならない。

真心は必ず通じる。
時間はかかっても、必ず良い方向へ変えていけると確信する。

一人の人を大切にし、守り励ます

2017年02月20日 16時50分55秒 | 社会・文化・政治・経済
見えや気取りを捨てた人は、思いもしない力が出る。
どんな仕事も、「これこそわが使命」と決めることから、偉業への道は開かれる。

仲間と力が合わない間は本当の能力は出ない―詩人・タゴール

国連「世界社会正義の日」
貧困・差別の根絶へ。

まず相手を理解することが友好の第一歩。
“差別のない社会”を目指す。

人生の本質を突いている数々の言葉。

人の心は、他者との触れ合いという「縁」によって、大きく変わることができる。
一つ一つの小さな縁を大切にしたい。

新しい人の力、新しい人の可能性。

一人の人を大切にし、守り励ます。

世界各地で、特に若者の「宗教離れ」が進んでいる。
だが、宗教は観念ではなく、実践に真髄があるとされている。

若者の多くがが、宗教は観念に過ぎないと思っているようだ。

仏教は慈悲の精神であり、実践する人は自身の内面を見つめ、深める人間である。

宗教は社会学者の見地から言えば、宗教とは、何千年もかけて築きあげられた「自己を知るツール」であるよ言える。

仏教は、その始まりである釈尊のメッセージ自体が普遍的、つまり、あらゆつ人に対して向けられたものであるとい特徴がある。
そのメッセージは今も、あらゆる人に届く可能性がある。
国立ラ・ラグーナ大学のディアス・ベラスコ教授

それぞれの宗教団体が、自分たちだけの考える「正しさ」に固執していると、社会と断絶してしまい、社会に貢献することも、認知されることもなくなると思います。
多様な宗教団体が社会に受け入れたれ、人々の生き方の多様性を実現する役目を果たしていくために、宗教団体が政治に積極的に声を上げていくことも大切だと思っています。
スペイン宗教多様性唖ブザーバーのプエルト・ガリシア・オルティス事務局長

勇気、希望、不屈の精神

2017年02月20日 13時06分30秒 | 社会・文化・政治・経済
社会で起きてていることは、そこに住む人々の生命状態の反映である。

他者のために行動する、とはどのようなことなのか。

組織は、一人一人への尊敬を基軸とした、真の人間の絆によって成り立っている。

様々は困難は、むしろ成長への“燃料”である。

分断が進む社会において、平和を築くために私たちは何ができるのか。

人間の生命の中にある悪を乗り越える方途はなにか。

人間の生命の変革の連帯こそが、世界を変革する根本の力だ。

勇気、希望、不屈の精神を向かって前進を開始する。

温泉の湯治で抗酸化力がアップ

2017年02月20日 12時13分07秒 | 社会・文化・政治・経済

「歌は言葉なんだ。そして、ちゃんと言葉を話せる人でなければ日本の歌は歌えない」作曲家・船村徹さん

改めて、自覚し日本語の言葉を大切のして歌いたいと思った。

セルフネグレスト
体がゴミに埋もれ 両足が壊死する。
「お上の世話になるのは申し訳ない」などの意識から助けを求めない。
娘は「母のことを誰に相談すればいいのか分からなかった」と涙したという。
「依頼がなくても専門家が訪問支援に出掛けていくことが肝要だ。
それが結果的之社会的コストを減らす」と高齢者医療に詳しい千葉県の川昌正平医師は話す。

自らのがん体験を語る「がんスピーカー」
患者や家族でつくる「茨城よろこびの会」
昨年5月、がんの正しい知識を持ってもらおうと「がん体験談スピーカーバンク」を設立。
これまで病院や中学、高校などで3380人に闘病生活などを語ってきた。
代表は水戸市東原、河口雅弘さん(72)

作家・吉川英治さんの信条は「生害一書生」。
世間が「大家」扱いでも、謙虚さを失わなかったそうだ。
大衆の心に響くものを求め、最後まで書き続けた生涯だった。
偶然であるが、高校生のころに、友人のお父さんから吉川さんの生原稿見せられたことを思い出した。
飯坂温泉に湯治に行った時である。

若き力によってこそ大事業は成就する。

大事な力は“決断力”

戦国武将たちも温泉を利用していた。
豊臣秀吉は有馬温泉(兵庫県)
徳川家康は熱海温泉(静岡)
家光、吉宗ら歴代将軍も温泉好きで、江戸城に温泉を運ばせた。
江戸後期の温泉番付
吉宗は草津(群馬)から温泉を運ばせた。
温泉の東の大関は草津、関脇は那須(栃木)、小結は諏訪長野)
西の大関は有馬、関脇は城崎(兵庫)、小結は道後(愛媛)
温泉の湯治で抗酸化力がアップ

第32回全日本選抜競輪 た平原康多選手が優勝

2017年02月20日 07時35分29秒 | 未来予測研究会の掲示板
第32回全日本選抜競輪は、4日目、ベストナインが出揃い、決勝戦を迎えた。
大舞台で幾度も好連携をしてきた平原康多選手(87期 埼玉 34歳)と武田豊樹選手(88期 茨城 43歳)。
特に今開催では、平原選手の強さ、レース運びのうまさが際立っていた。
戦法が常に安定しており、信頼度も高かった。
逃げたらダメの競輪。
好位置を確保して、いかに100%の力を勝負どことで発揮できるかが、競輪の鉄則。
つまり、ラインを走る競輪は、中段の位置が有利。
逃げるのではなく、やむを得ず逃がされてしまう選手が少なくない。
タイミングを図るうまさは、頭脳プレーでもあるのだ。
ムダな競り合いで力をロスする選手も多い中で、平原選手はムダな力は使わない。
意地になって自滅するのは、観ていて歯痒いのだ。
「お先にどうぞ」と引くべきところは引くのが最適な走法。
競って勝ったのは、8レースの深谷知広選手(96期 愛知 27歳)のみであった。
ベストの上がりタイム10秒4
この自信で競り勝ったのだ。

深谷選手が自在型の戦法になれば、平原選手並みの強さを発揮するだろう。
平原選手のベストの上がりタイム10秒8
武田選手のベストの上がりタイム10秒9
武田選手のコメント
「和歌山記念で力の弱さを感じて、トレーンング法も変えて、今回は良い感じですねプレッシャーもあるけど、しっかり優勝を目指して」
43歳であるが、まだ衰えてはいない走りで2着となる。
主導権を握って自分の走りができた平原選手は、「関東の先頭で。(昨日)寒くて重たかったけど、状況に応じて走れている」と語っていた。
強さの秘訣は、まさに状況に応じる自在性なのだ。
勝つべくして優勝し、3000万円の賞金をゲット!
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取手競輪場
周長400m
バンク特徴
クセのない走りやすいバンクとして好評。
カントはややきついがどんな戦法でも決まりやすい。

見なし直線距離 54.827m
センター部路面傾斜 31°30′25″
直線部路面傾斜 2°51′44″
ホーム幅員 10.0m
バック幅員 10.0m
センター幅員 7.5m
最高上がりタイム 10.7秒 吉岡 稔真 1998年06月20日

1着決まり手グラフ
逃げ19%
捲くり28%
差し53%

2着決まり手グラフ逃げ17%
捲くり14%
差し30%
マーク39%










































愛人の典子

2017年02月20日 06時32分53秒 | 未来予測研究会の掲示板
利根輪太郎は、自称・競輪研究家として、全国の競輪場を渡り歩いて来た。
北海道の函館競輪場へは、愛人の典子と行った。
37歳のころで、典子は19歳であった。
「私、北海道へまだ、行ったことないの。何時か行ってみたいな」と浅草の神谷バーで典子が言うので、「今度の日曜日、行くか?」と打診した。
「どこへ?」
「北海道さ」
「北海道?!」
典子とは出会ってまだ1週間。
新宿のパチンコ屋で隣合せた女だった。
「高校生だろう?パチンコなんてしていいのか?」と声をかけたのだ。
「私、高校生じゃないよ」典子は化粧気のない素顔の女で、高校生に見えたのだ。
「腹へったな。飯でもどうだ」
二人の玉が消えかかった時に誘いをかけた。
「私もお腹空いてきた」と典子は応じた。
そこで、輪太郎は元雑誌社の同僚だった野々村幸恵の親父さんがやっている
「幸恵も32だっからね。もらってくれる男が現れてよかったよ。本当に」
親父さんは赤ら顔で微笑んだ。
酒を飲んで、気合いを入れて寿司を握るのである。
女好きな輪太郎は、幸恵に惚れ込んだが相手にされなかったのだ。
「ビルか酒か、どっち?」
「お寿司には、お酒だわね」典子は率直に応じた。
典子は輪太郎のように日本酒好きであったのだ。
典子は編集関係の専門学校で学んでいると言う。
「ジャーナリスト志向なんだ」
「本当は、放送関係に行きたかったのけれど、この顔でしょ」
「女子アナか?」
「声はいいと言われたのだけれど」
典子の羞じらう笑顔に輪太郎は心を動かされた。
秋田県から出て来て、まだ浅草へ行ってないという。
「姉が結婚前に、浅草の美容室で働いていたのだけれど」
「そうなんだ。では、次のデートは浅草だな」
「連れて行ってくれの?」
「ああ、今は風来坊なんで、何時でもOK」
「風来坊?!」
「まあ、自由人だな」
輪太郎は父親が半年前に亡くなり、父親の株券や預金、貯金など2500万円余を手にていたのだ。
失業したのは、営業所の所長を殴り倒したのである。
鼻血が出て所長は近くの診療所で診断書を手にして「傷害で訴えてやる」と叫ぶ。
「どうぞ」と輪太郎は開き直った。
総務課長が「辞表を書け。それで穏便にすむ」と、とりなすのだ。
「利根、辞めるなら許す」と所長の大島五郎は痛む鼻を押させるような仕草である。
輪太郎は「暴力はだめですよね」とニヤリとする。
「もう、お前さんの顔は見たくないね。よく笑ってられるな」と口をとがらせる。
月刊誌の編集の仕事からリフォームの仕事に転職して約1年。
輪太郎は仕事に身が入らず転職のきっかけになったのだ。
パチンコと競輪の日々、思わぬ若い娘との出会いがあったのだ。

今は亡き友人たちを忍びながら

2017年02月20日 05時25分43秒 | 未来予測研究会の掲示板
初日4529名、2日目3419名、3日目5083名、最終日は7000名くらいであっただろうか。
取手競輪場は、初めてのG1レースでたくさんの競輪ファンが訪れ賑った。
昭和30年代、40年代、50年代はどれほどのファンが訪れていたのだろうか?
多くの居酒屋、そば屋、喫茶店、スナック、食堂、キャバレーの桃山などが記憶の中にとどまったいる。
白山通りは多くの店が閉ざされ、いわゆるシャッター通りになってしまった。
ある意味で、門前町、旧取手宿場であった取手の街は寂れ、発展性の乏し地域都市の一つとなったいる。
往時には料亭や遊郭もあったそうだ。
映画館もなくなり、跡地はパチンコ店になったが、そのパチンコ店閉鎖され、今はカラオケ店とエステや美容店となった。
新四国巡礼の白装束の人も見られた大師通り。
利根輪太郎は今は亡き友人たちを忍びながら、競輪場の正面スタンドに坐していた。
50代、60代で逝ってしまった友人たち。
輪太郎宛てに、遺書を残した村上惣之助の淋しげな笑みも忍ばれた。
東京・銀座の老舗の日本料亭の元板前であった村上は女房に逃げられ、二人の娘を育てていた。
思えば、競輪ファンの友人の中には女房に逃げられた悔しさを押し殺しているような「過去」を輪太郎に吐露していた。
酒の席で聞く話は、男の悲哀であり、せつなくもあった。
男ができて、幼子を置いてまで取手から去っていったのである。










競輪仲間たち

2017年02月20日 03時39分36秒 | 未来予測研究会の掲示板
初日3000円 2日目3000円 3日目5000円 最終日6000円
投じた資金、かわいいものだ。

取手競輪場で初めて開催されたG1レース
読売新聞社杯「第32回全日本選抜競輪」は取手市白山の元競馬場で開催された。

利根輪太郎の友人の荻原直樹は、取手2中時代、その競馬場の馬の施設の脇を通り通学したと言っていた。
荻原は3年前に認知症となり、現在は藤代の養護老人施設に入所している身である。
多弁である彼が人がが変わったように無口となり、柔和な笑顔も消えて、競輪仲間たちは皆、彼の変貌ぶりを訝っていた。
最後まで変わらなかったのは、女性への関心であった。
彼は誰彼となく、競輪場へ来た女性ファンに声をかけていた。
元々、下心のない荻原であったので、大概の女性は荻原の柔和な笑顔に警戒したり、身がまえをすることはなく、彼の問い掛けに自然体で応じてした。
利根輪太郎は女好きのくせに、常に女性に対して、憶するして話掛けられずに居たのだ。
「あの人は、取手協同病院の看護婦なんだ」
「あそこに居る女は、藤代の大工の女房だ」
「キャバレー桃山の加代子が、大穴をゲットしたよ」
荻原は競輪場に来ている多くの女性たちと顔見知りとなり、気軽に会話を交わしていた。
一方、輪太郎に対しては、「輪ちゃん」と声をかけてくれる女性は、スナック「フロリダ」や「エイト」のママくらいであった。
意識過剰な輪太郎は、相手の容貌の美しさや漂う気品などに憶するばかりであった。
輪太郎は10代の少年のころとほとんど進化しないような40代の男であったのだ。
もしも、荻原が健在でいたら、全日本選抜競輪に訪れた多くの女性ファンに必ず声をかけていただろう。
70代となった荻原が姿を見せなくなった取手競輪場の久々の賑いの中に佇みながら輪太郎は、往時を偲んでいた。
父子家庭であった荻原は二人の小学生の息子を連れて、競輪場へ来ていた。
その二人の息子が共に輪太郎の息子と同じ年齢でクラスメートでもあったのだ。