レイキャビク西街ひとり日誌 (Blog from Iceland)

北の小さな島国アイスランドはレイキャビクの西街からの、男独りブログです。

日本ノスタルジー後遺症

2023-12-12 06:00:00 | 日記
こんにちは/こんばんは。

わずか二週間の札幌滞在の後で、私は昨今では恒例となっている「日本ノスタルジー後遺症」にかかりました。私の場合の発症例は、日本のライト・ミステリーに耽溺することです。浸り込んで、日本での生活感をチビチビと引き延ばしにかかるのです。

プラスかマイナスか?と問われれば、程度にもよりますが私個人限定で言うとマイナスでしょう。精神的に日本に浸りきっていたら、やはり仕事とか身が入らなくなります。

で、そういう後遺症を吹っ切るのに一番良いのは、そのことに向き合い「総括」することです。「総括」とはなんぞや?ということになりますが、「まとめること」「キリをつけること」ですので、今、こうしてブログに書くことで、ワタシは「総括」しようと試みているのでした。




清涼感アップ用ピック1
Myndin er eftir Jonatan_Pie@unsplash_com


「日本ノスタルジー後遺症」の発症例を「日本の生活感に浸りきること」と書きましたが、実はその浸りきる感の中には、いくつかの「より深い深み」(二重修飾であまり好きでないのですが他に言葉を思いつきません)があるように感じています。

この点は以前にも触れたことがありますが、ノスタルジーとの関係で考えたことはなかったかと思います。

さて、今回のノスタルジーはいくつかの日本のライト・ミステリーにハマって発症しました。太田紫織さんの「疵痕(きずあと)とラベンダー」、友井羊さんの「スープ屋しずくの謎解き朝来ごはん」シリーズ、そして岡崎琢磨さんの「珈琲店タレーランの事件簿」シリーズです。

「スープ屋しずく」シリーズはアラサーのOL目線で話しが進み、「タレーラン」は大学生とおぼしき青年の語りです。この中で、「タレーラン」にはふたつの長編的なお話しが含まれています。

ひとつはバリスタ美星の亡くなったおばさんが、六十代になって失踪した一週間の謎を追うもの。もうひとつは、語り手のアオヤマ青年が中学生の時に出会った年上のおネエさんを巡る事件。このふたつともとりわけ面白いです。というか、胸に沁みました。

そして「疵痕とラベンダー」では、太田紫織さんによるもう一つのお気に入りの「櫻子さん」シリーズと同じく高校生が語り手です。ストーリーにもかなり「高校生活」が舞台としいて登場します。

で、前から気が付いていたのですが、私がこれらの物語りを読む時には完全に語り手の高校生と同化してしまうのです。これについては以前にもブログで書いたことがあります。どちらかという笑える現象として。




相当ハマった「櫻子さん」シリーズ


サッポロ北街ひとり日誌(7)- 栞子さんと櫻子さん

櫻子さんとボッシュ、そしてOhtani-san! のいる夏休


今回の札幌滞在中、私は六十五歳の誕生日を迎えました。めでたく前期高齢者入りです。それでも、本を読むときは瞬時に高校生に戻ります。

今回、特に「タレーラン」のアオヤマ君が中学生の時を回想するお話しが気に入ったことについて考えた時、ワタシのこの「中高生がえり」の現象の背後に、なにかしらの「憧憬」があるのかなあ、と気が付きました。

念のため言っておきますが、私は別に普段よりたとえば女子高校生を追っかけまわしているタイプのおじさんではありませんからね。(^-^;

アイドルのファンでもないですし、興味もない。だいたいそのくらいの歳の女の子には別に魅力も感じません。いや、かわいいな、とかは思いますよ、フツーの意味で。ですが女性としての魅力は感じません。私の場合、魅力的に感じる女性の年齢も自分とともに上がってきていますね。

にもかかわらず、です。アオヤマ君が、ひとりで河原に佇んでいた時に二十歳くらいの見知らぬおネエさんに出会った際の情景は、まったく何の苦もなくわかってしまうのです。

十四、五歳の男の子にとって、みっつよっつ歳上の女性がどれくらいの大人に見え、自分から程遠い存在であるのかとか、同時にどれくらい魅力的になりえるかとか。




札幌で迎えた65th バースデー


考えてみれば、「櫻子さん」シリーズを私がお気に入りなのも、そういう基盤に立った「少年」(語り手の正太郎。櫻子さんはいつも彼を「少年」と呼びます)と櫻子さんの関係があるからでしょう。櫻子さんは少年の恋人ではないのですが、少年にはやはりそういう「憧れ」もあるのです。

なんか、そういう憧憬を呼び込む潜在的な体験が自分にもあったのかなあ?と振り返っても見たのですが、実体験的には何もないですね。総じて先生とか先輩とかには –男女の関係なく– 疎んじられていました。先生とか先輩に可愛がってもったことなんてまったくないな。だから逆に憧れとして残ってるのかな?

そうなると、ちょっともう手に負える範疇を越えてしまいますね。いずれにしても、これは「日本ノスタルジー後遺症」の中に奥深く開いている深淵です。

もうひとつ、ノスタルジーの中にある「深み」と感じるのは、これは好きな小説の全般について言えるのですが「人情話し」ですね。梓林太郎さんの作品の中の「茶屋次郎」シリーズも大好きですが、これなんかミステリーなんですけど、基本的には人情話しだろうと思います。

もっと今風な「スープ屋」にしても「タレーラン」にしても、人情は無縁どころか物語りの大切な味付けになっていると言えるでしょう。日本人のメンタルティに、人情を欲するものがあるんでしょうね、きっと。

もちろん、欧米の小説 –とは言っても、私の場合ミステリーに限定されますが− でも、もちろん人情のあるものは多くあります。大ファンである、マイクル・コナリーの「ボッシュ刑事」シリーズ。後期の作品「ブラック・ボックス」では、ボッシュこそ「人情の人」という感じで、ラストシーンは心に沁みました。




清涼感アップ用ピク2
Myndin er eftir Jonatan_Pie@unsplash_com


さて、日本のライト・ミステリーを読むことは何ら問題ではありません。後遺症として問題になるのは、浸り込んで現実逃避になることです。

今回は、日本から戻って、そうですね、結構長い間、二週間くらいこの後遺症を引きずってしまいました。今はもう大丈夫です。今は読書を離れて、ネットで波瑠さんの出演した過去のテレビシリーズにハマっています。

それにしても、前期高齢者ともなると、生活の中で直面するいろいろな状況の中で、そこになにがしかの「潜在的体験・未体験」が関係しているのだろうか?などといちいち詮索しなければならなくなるようです。

まだ若い世代の皆さん、そういう面倒くさいことにならないように、今のうちに、人生の一コマ一コマではっきりと決着をつけていく術を身につけることをお勧めします。可能かどうかは、また別の問題ですが。(^-^;


*これは個人のプライベート・ブログであり、公的なアイスランド社会の広報、観光案内、あるいはアイスランド国民教会のサイトではありません。記載内容に誤りや不十分な情報が含まれることもありますし、述べられている意見はあくまで個人のものですので、ご承知おきください。


藤間/Tomaへのコンタクトは:nishimachihitori @gmail.com

Church home page: Breidholtskirkja/ International Congregation
Facebook: Toma Toshiki

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