週刊朝日が昭和 58 年ごろ「ひいきの宿」という連載を始めた。それは、当時各界で活躍されている方々に「ひいきの宿」のエッセーを書いてもらい、、写真家が撮った数枚の写真をつけて 1 ページをつくるという体裁になっていた。
この連載は 103 回つづき、私はそれを全部買ってスクラップしておいた。しばらく忘れていたが、すこしずつここに up することにした。
今回は、連載第 1 回の「松乃茶屋(箱根)」である。なおここは、現在登録有形文化財となって、公益財団法人三井文庫が管理し、公開はされていない。
豊かなひととき 栗田 勇(作家・評論家)
日本には、ホテルとちがって「宿」という長い伝統に生きているものがある。どんな地方へ行っても、それぞれに、幾代にもわたる物語(ロマン)に触れることができる。旅の宿りは昔から人生の大事として詩歌にも唱(うた)われてきた。
近頃はそんな出逢いもきわめて稀になったが、時に人知れず、そんな出逢いを大切に持ちつづけている宿もある。箱根湯本の「松乃茶屋」さんがそうだ。 3500 坪の敷地に、ひっそりと数寄屋造りの棟が 2 つ 3 つ。深山幽谷に身をひそめる思いがする。
しかも、三井家ゆかりの名品を中心に、主人の三井姿子(しなこ)さんが、ひとつひとつ厳しくえらんだ逸品が、こともなげに膳にならべられる。永楽和金、得金や、沈寿官の箱形鉢、魯山人の器、床には、沢庵の書、安田(ユキ)彦、小林古径の小幅などがさりげなくかざられる。
お料理は、河岸に頼ることなく、長年出入りの筋から仕入れ、客の意向を察してととのえられる。最近、ふやけたような料理ばかり多いなかで、きっちりと、、筋目のたった料理人の心意気が伝わってくる。
だが、やはり宿は雰囲気である。わが家のように暖かくゆきとどいていて、それでいて「旅心」という、研ぎ冴まされた感性に忘れられないすがすがしい思い出を刻んでほしい。
たんに一夜の泊まりでなく、人生の豊かなひとときを味わうことができるのが、三井姿子さんの「松乃茶屋」なのである。
宿泊は最高でも 15 人。
住所●神奈川県足柄下郡箱根町湯本518
室数●7 室
料金●27,000円