ベトナム 2 安直にベトナム概要
概要
ベトナム国家の始まりは、中国の南東岸に住む「百越」という諸民族が南下し、現在のベトナムの地に遷移して、原始的だが小規模な国家群を形成したことに由来する。
漢・唐の時代には中国の侵略に抵抗できず、中国からの直接支配を受けたが、10世紀には独立した。
その後のベトナムでは丁朝・李朝・陳朝・黎朝・阮朝など独自の王朝国家が成立し、文化的な繁栄をみせた。
19世紀後半にはフランスが中国の清王朝を破り、ベトナムを中国の冊封体制の下から転出させて、フランス領インドシナという植民地政府の下に編入した。
第二次世界大戦中の日本軍の進駐(仏印進駐を参照)と戦後の第一次インドシナ戦争を経てフランス植民地体制が崩壊し、国土は社会主義陣営のベトナム民主共和国(北ベトナム)と資本主義陣営のベトナム共和国(南ベトナム)に分裂。ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)を経て南ベトナムの政権が崩壊し、1976年に統一国家としてベトナム社会主義共和国が成立した。
政治体制はベトナム共産党による一党独裁体制である。
エコノミスト誌傘下の研究所エコノミスト・インテリジェンス・ユニットによる民主主義指数は、世界136位と下位で「独裁政治体制」に分類されている(2019年度)。
また国境なき記者団による世界報道自由度ランキングも下から6番目の175位と下位であり、最も深刻な状況にある国の一つに分類されている(2020年度)。
人権状況についてヒューマン・ライツ・ウォッチは、政府が言論・結社・報道・信仰など人民のあらゆる基本的自由を制限しており、刑事司法は政府からの独立性に欠け、警察は自白を引き出すために拷問を多用するという人権侵害が極めて深刻な国であることを報告している。
経済面では、1978年のカンボジア侵攻後の国際的孤立の中で国際収支が悪化して経済危機に陥り、干ばつや洪水などの自然災害による食糧不足などが重なって大量の難民を出す事態に陥った。
その対策として1986年にドイモイを打ち出し、経済の自由化を進めた。外国資本の導入で製造業は活況を呈し、南シナ海で石油の開発が進んで原油が重要な輸出品になっている。
他方でドイモイの進展で貧富の格差は拡大している。
外交面ではベトナム戦争以来親ソビエト連邦外交を基調としたため、ソ連と対立する中華人民共和国と関係が悪化。
1977年に国連に加盟するも、1978年に親中反ソ派のポル・ポト政権下のカンボジアに侵攻したため、1979年に中国のベトナム侵攻を招き、国際的に孤立した。
ソ連崩壊後の1991年に中越戦争で交戦した中華人民共和国と、1995年にはベトナム戦争で交戦したアメリカ合衆国と国交を回復し、ASEANにも加盟した。
近年は南沙諸島など南シナ海への実効支配を強める中国との対立が深まっており、2010年代以降はアメリカ軍やASEANと合同軍事演習を行うなど中国牽制の姿勢を強めている[14][15]。2016年にはTPPに加盟。
また、フランス統治時代があったため、フランス語とを共有する国・地域の総体フランコフォニー国際機関にも加盟している。 軍事面では18歳から25歳の男性を対象に兵役期間2年の徴兵制を敷いており、ベトナム人民軍は50万弱の兵力を有する。
軍事力は軍事ウェブサイトの グローバル・ファイアパワー (GFP) が発表する「2020 Military Strength Ranking」によれば世界22位で、東南アジアでは第2位である。
人口は9762万人(2020年ベトナム統計総局)。住民はキン族(ベトナム人)が約86%を占め、他にミャオ族、チャム族など53の少数民族が存在し、中国人も暮らしている。
宗教は仏教徒が多いが、カオダイ教やホアハオ教、フランス植民地時代からのカトリックも存在する[5]。憲法上は信教の自由を認めているが、実際には政府による強力な規制・監督が敷かれており、アメリカから信教の自由の改善を要請されている。
公用語はベトナム語で住民の大半が使用しているが、一部に少数民族の言語も存在する[5]。表記方法としては古くは漢字が用いられ、13世紀からはチュノムという漢字を基に作られた独自の民族文字が使用されるようになったが、フランス統治時代以降はチュ・クオック・グーと呼ばれるローマ字表記が用いられており、現在は漢字とチュノムは廃れている。
地理としてはインドシナ半島の東半部、トンキン湾、南シナ海に沿うS字形の南北に細長い国土である。北部はソンコイ川の形成する 紅河デルタとそれを囲む山岳地帯から成り、中部はアンナン山脈が急崖をなして南シナ海岸に迫る狭い地域であり、最狭部では東西の幅が約50kmである。南部は主としてメコン川のメコンデルタからなる。
首都はハノイ。
(ウィキペディア)
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