乱鳥の書きなぐり

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ヨーロッパの「城」の特徴 / 役割や構造 

2024-11-10 | 資料での旅

 

ヨーロッパの「城」の特徴 / 役割や構造 

 

 ヨーロッパにはまるで童話の世界から飛び出してきたような、美しく壮麗な歴史ある城がたくさんあります。

 ヨーロッパでは歴史的に数多くの侵攻や領土争いがあり、そのために防御の要となる城が数多く建造されたという背景があるからです。

 

 また、地方領主が独立性を保つために城を築いたこともその数を増加させました。

 地政学的に見ても、山地や河川沿いなど戦略的に重要な位置に城を築くことで、自らの領域を守ると同時に他の勢力の進出を防ぎました。

 さらに、農業が中心の経済では、領主は農民を保護する代わりに税を徴収し、その税収をもって城を構築・維持していたのです。

 

 以下でそんな城の役割、構造についてもっと詳しく解説

 ヨーロッパの建築文化

 

 

ヨーロッパの城の役割

 誰もがイメージする上に高くそびえ立つ城、というのは民間人が住むところではなく、「為政者や軍の指揮官の住居」であり、政治や情報の拠点でした。

 山地や河川沿いなど交通・軍事・通商上の重要な拠点に建設され、支配域を守る為の防衛線として機能しました。

 

 敵の侵攻や攻撃を防ぐ為に土や石で固め頑強に作られており、食料、武器、資金の備蓄場所でもありました。

 古来より他民族との侵略戦争を繰り返してきたヨーロッパ人には、このような場所は常に欠かせない存在だったのです。

 多くの城があるのは、ある意味必然といえる。

 

ヨーロッパの「城」の特徴|役割や構造に注目しよう引用

 

 

https://europa-japan.com/category15/entry104.html引用

 

Wikipedia引用

 ゴシック様式とは

 バロック様式とは

    アール・ヌーヴォーとは

 ルネサンス建築とは

    マニエリスムとは

 ロココ とは

 

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ヨーロッパ建築様式の種類|各様式の特徴や成立した順番は?

2024-11-10 | ことのは

 

ヨーロッパ建築様式の種類|各様式の特徴や成立した順番は?

 

ヨーロッパ建築様式の多様性は、文化的および歴史的変遷を反映しています。ローマ帝国の古典的な形式から始まり、中世の宗教的建築、ルネサンス時代の復古主義、バロックの華麗な飾り付けまで、時代ごとの社会的、文化的な背景によって建築様式は進化してきました。この記事では、それらの特徴や成立の順番を探り、それぞれの時代の美的感覚を理解する旅をします。

 

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ロココ とは

2024-11-10 | ことのは

ロココ とは

 

  ロココ(Rococo)とは、美術史で使われた用語で、バロックに続く時代の美術様式を指す。

 18世紀、ルイ15世のフランス宮廷から始まり、ヨーロッパの他国にも伝えられ、流行した。

 

 

語源

 

 ロココはロカイユ(rocaille)に由来する言葉である。

 ロカイユは岩の意味で、バロック時代のグロット(庭園洞窟)に特徴的な貝殻で装飾された岩組を指したが、そこから転じて、1730年代に流行した、貝殻の曲線を多用したインテリア装飾をロカイユ装飾(ロカイユ模様)と呼んだ。

 

 ロカイユ装飾は、イタリアの貝殻装飾に由来すると考えられているが、植物の葉のような複雑な曲線を用いた特有のものである(画像参照)。  

 

ロココの家具(1730年)

 新古典主義の時代(18世紀末~)になると、前時代の装飾様式が退廃的であるとして蔑称的に使われたが、その後、時代一般の美術・文化の傾向を指す用語として、広く使われるようになった。

 

 ロココ様式(スタイル)、ロココ建築、ロココ趣味などと使う。

 

 豪壮・華麗なバロックに対して、優美・繊細なロココともいわれるが、両者の境界は必ずしも明確ではなく、ロココはバロックの一種と考える人もいる。  

 

 ロココの時代範囲 ポンパドゥール夫人(1721年 - 1764年)を中心とするサロン文化の最盛期にロココ様式は流行し、デュ・バリー夫人の時代まで続いたが、ルイ16世(在位1774年 - 1792年)が即位した頃から、装飾を抑え直線と均衡を重んじるルイ16世様式(広義の新古典主義様式)に次第に取って代わられた。

 

 しかし、ロココ的な美意識や雰囲気は、宮廷が実権を失う1789年のフランス革命まで継続した。  

 

 スウェーデンでは、1771年に即位したグスタフ3世の治世を「ロココの時代」と称している。スウェーデンのロココ様式の流行は1792年にグスタフ3世が暗殺されるまで続いた。

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アール・ヌーヴォーとは

2024-11-10 | ことのは

 

アール・ヌーヴォーとは

 

 アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。

「新しい芸術」を意味する。

 

 花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。

 

 分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。  

 

 第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。

 

 しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。

 

 ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に登録されている。  歴史  ヴィクトール・オルタ「タッセル邸」。

 

ブリュッセル、1893年 アール・ヌーヴォーは、フランスではスタイル・メトロ、アート・ベル・エポック、世紀末のアート、などと呼ばれることもあった。

 

 アール・ヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビングの店の名前から一般化した。

 

 この言葉で狭義にベル・エポックのフランスの装飾美術を指す場合と、広義にアーツ・アンド・クラフツ以降、世紀末美術、ガウディの建築までを含めた各国の傾向を総称する場合とがある。

 

 国によって次のようにも呼ばれているが、これらの様式の大部分にはそれほど大きな違いはない。

 

 

 フランスでは、アール・ヌーヴォーは批判者からは、特徴的なアラベスクなフォルムから「ヌイユ様式」(麺類様式)、またエクトール・ギマールにより1900年に実現されたパリ地下鉄のこの様式の出入口から「メトロ様式」などとも呼ばれた。  

 

 ドームの壺(ナンシー派、1900年頃)  ポール・コーシーのズグラッフィート。ブリュッセル、1900年 アール・ヌーヴォーの理論的先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求められる。

 

 中世のゴシック建築の構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。

 

 一連のネオ・ゴシック運動の先導者として知られていたにもかかわらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。

 

 ロックタイヤード城のフレスコ画(1859)を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。

 

  1893年にヴィクトール・オルタがブリュッセルに建設したタッセル邸がアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。

 そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。  

 

 

「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)においてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。

 この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、パリのプロヴァンス通り22番地に美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(仏: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。

 

 ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、エドヴァルド・ムンク、オーギュスト・ロダン、ルイス・カムフォート・ティファニー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。

 

 エクトール・ギマールは彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見なされている。  

 

 フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはナンシーである。

 

 1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。

 ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、ドーム兄弟、ジャック・グリューバーらがナンシー派を形成した。  

 

 1900年のパリ万国博覧会でビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートしたインスタレーション展示を行った。

 

 これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。

 

 他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなる。  

 

 マジョレル邸の玄関の金物工芸 アール・ヌーヴォーは、フォルムの再生を妨げる格式ばった歴史主義とは異なる選択肢を提案するために象牙の塔から出て、日用品の装飾を引き受け過去の様式を断ち切りつつも利用する一群の芸術家たちの営みであった。  

 この観点から、木や石のような古くからの素材が鋼やガラスのような新しい素材と組み合わされた。

 

 芸術家たちはそれぞれの素材から最良のものを引き出すべく極限まで探求を推し進めた。多層のパート・ド・ヴェール(ガラス工芸の一種)、金物工芸の組み合わせ模様を施した階段の手すり、うねりのある木の家具などは、自然界に刺激されたフォルムの革新への意志を保ちつつも、意向に応じて手頃な価格で芸術を取り入れることを可能にした。

 

 この芸術はまた数多くのパトロンを持ち、選ばれたブルジョワ階層の間で広がって行った。  

 

 花、草、樹木、昆虫、動物などのモチーフがよく用いられ、これらは住居の中に美を取り入れるのみならず自然界にある美的感覚に気付かせることを可能にした。

 

 他方で鋼の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するまでに至った。  アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのはもちろん、ヴァル=ド=マルヌやエソンヌやセーヌ=サン=ドニといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。

 

 

 錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。

 

 こうした郊外でフランスの建築家たちは、アカデミズムとは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。

 

 

  第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコである(1920-1940)。

 

 

  家具調度  ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィによるベッドと鏡台 (1899)。オルセー美術館の展示  アール・ヌーヴォーの錫の花瓶 (1900年頃) アール・ヌーヴォーの家具の概念は職人仕事を再生させた。アール・ヌーヴォーは制作者個々人によるスタイルであり、それは職人の仕事を中心に据え機械仕事からは距離を置くものであった。

 

 室内装飾の領域での大きな革新は統一性の探求にあった。

 とはいえ、アール・ヌーヴォーも伝統的な様式と無縁というわけではなく、とりわけゴシック、ロココ、バロックなどの影響を残していた。

 

 ゴシックから理論的なモデルを、ロココなどから非対称性の応用を、バロックからはフォルムの造形的な概念を引き継いでいる。

 

 日本の彩色芸術もまた、その立体感の極めて平面的な扱いによって、ギリシャ式オーダーの対称性への隷属からアール・ヌーヴォーが解放されるのに貢献した(ジャポニスム)。  

 

 木は奇妙な形となり、金属は自然の流れの交錯を模倣して曲りくねった形となった。

 

 実際に、アール・ヌーヴォーは自然の観察に大いに基づいており、それは装飾のみならず、見方によっては構造的な部分にまで及んでいた。

 

 命を持つ、官能的な波打つ線が構造部分にまで行き渡り支配していた。

 

 椅子やテーブルは素材の中で特徴的なしなやかさに形作られていた。

 それが可能なあらゆる箇所で、直線は禁じられ、構造上の分かれ目は連続した曲線と動線のために隠されていた。

 

 アール・ヌーヴォーの最も優れた作品は、その際立った線のリズムにより、18世紀の高級家具にも似た調和を見せていた。

 

  フランスでは、アール・ヌーヴォーは2つの派に分かれていた。

 一方はサミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、もう一方はエミール・ガレ(1846-1904)に率いられたナンシーのそれである。

 

 ロココとアール・ヌーヴォーの類縁性が最も説得力を持つのはナンシーの方であった。

 それほど魅惑的ではないが、当時最も名を知られていた芸術家の1人であったルイ・マジョレル(1859-1926)が間違いなくナンシーのアール・ヌーヴォーの2番目の先導者であった。

 

 ガレは植物から象徴的な文学の銘に至るまでの幅広いモチーフの象嵌細工を得意とした。

 この巨匠の作品に典型的に見られるのが構造的な要素が幹や枝から末では花となって終わる変容である。

 ナンシー派とは対照的に、パリのアール・ヌーヴォーはより軽快で洗練された簡素なものであった。

 自然から着想されたモチーフはより大まかに様式化され、場合によっては半抽象化までされており、副次的なものとなっているように見える。

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マニエリスムとは

2024-11-10 | ことのは

マニエリスムとは

 

 

マニエリスムとは

 支配階級を楽しませる作品

  →宮殿などに作品が飾られる

  →難関な寓意や構図が好まれる マニエリスムの特徴

  →引き伸ばされた人体

  →非現実的な空間構成

  →形式上の蛇状人体 ローマ略奪

  →ローマにいた芸術家たちが逃れる

  →一部はフランスやプラハへ

  →マニエリスムが各地で発展    

 

 マニエリスムの語源は 手法や様式を意味するイタリア語の マニエラからきている。

 盛期ルネサンスで活躍した ダヴィンチ、ラファエロ、ミケランジェロ を模倣しながら、 多様なバリエーションを 追求したのが特徴的。

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ルネサンス建築とは

2024-11-10 | ことのは

ルネサンス建築とは

 

ルネサンス建築 

 

 ルネサンス建築(ルネサンスけんちく)は、一義的にイタリアのフィレンツェで1420年代に始まり、17世紀初頭まで続いた建築様式を指す。

 

 古典古代を理想とするルネサンスの建築における表現といえる。

 

 人体比例と音楽調和を宇宙の基本原理とし、ローマ建築の構成を古典主義建築として理論づけた。

 

 ルネサンス建築にはじまる古典主義建築の系譜は、後のバロック建築・新古典主義建築を通じて継承され、西欧建築の主流であったが、19世紀の歴史主義において相対化し、やがて解体した。  

 

 ルネサンス建築は、本質的な意味では15-16世紀のイタリアの一部の都市にのみ成立したといえるが、フランス、イギリス、ドイツなど、西欧諸国の建築活動にも影響を与えた。

 

 当初これらの国々では、主にルネサンス建築の表層的な意匠が導入されたため、各国独自の嗜好が表れており、それぞれ特徴を持った建築になっている。  

 

 

イタリア

 ルネサンスはイタリアのフィレンツェに始まる文化的現象であり、西洋の歴史において最も光彩を放つ時代の一つとして挙げられる。

 

  14世紀半ばから15世紀初頭のフィレンツェは、周辺都市との戦争とペストの流行に悩まされており、市民社会の構成は複雑かつ流動的であったが、戦争により周辺都市を併合し、メディチ、ルチェッライ、ストロッツィ、ピッティ、アルビッツィといった都市貴族が毛織物の加工や交易、金融業を主導することで、ヨーロッパの5大都市に数えられるまでに発展していた。

 15世紀、ブルッヘ、ヘントなどのフランドルの諸都市や、ロンドンなどもフィレンツェにきわめて似た社会構造を有していたが、これらの都市がゴシック建築の伝統を維持し続けたのに対し、フィレンツェではルネサンスという新しい芸術活動を創出した。

 フィレンツェがルネサンスを生んだ理由はいくつか挙げられるが、建築に関わるものとして、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂やサンタ・マリア・ノヴェッラ聖堂、サンタ・クローチェ聖堂にみられるような現実的かつ明快なトスカーナ固有の美意識、才能のある人間への賞賛、古代ローマの芸術・文学の遺産が数多く残っていたことなどを挙げることができる。

 

 

  やがて、ルネサンス建築はトスカーナからミラーノ、ローマに伝播し、建築家ブラマンテによって完成の域に達するが、イタリアにおけるルネサンス建築の絶頂期は必ずしも長くはなく、イタリア戦争(フランスや神聖ローマ帝国によるイタリア国土の割譲)や宗教改革、ローマ教皇の権威失墜、といった動乱の時期を迎えた16世紀には、いわゆるマニエリスムと呼ばれる局面を迎える(一般にローマ略奪がその画期とされる)。

 

 建築において、どの程度までマニエリスムを当てはめることができるのか、という点については、時代においても地域においても、そして建築家の分類においても議論がある状況だが、少なくともジュリオ・ロマーノ、ミケランジェロ、そして彼の追従者の建築については盛期ルネサンスからの逸脱が見られる。マニエリスムは社会的な安定を失ったルネサンスの衰退・退廃と認識されることもあれば、この時代に進んだ古代研究と建築家の個性が結実した独創的な建築運動と説明されることもあり、評価が分かれる。

 

 

  ルネサンスは、忘れられていた古代を復興する文化運動であり、建築の面ではそれまで主流であったゴシック建築の技法を否定し、古代ローマの建築を再生した、というのが一般的な見解である。

 

 これはおおむね正しいが、ルネサンスの建築家たちは一般に思われているほど、古代ローマの建築を正確に写し取ったわけではない。

 

 むしろ、その建築活動はルネサンスの理想を投影した独創的な側面が強いが、ルネサンスの建築家は古代の人びとが考案した建築のあるべき姿を復興したと考えていた。  

 

 

 ルネサンス建築の特徴としては、建築家たちが人体の比例と音楽の調和を建築に組み合わせることが美の具現と信じ、設計において簡単な整数比(耳に心地よい和音の比例に対応)を用いたこと、建築の平面として集中形式を好んだこと、透視図法を空間表現の手段として用いたことなどが指摘される。

 

 こうした建築理論が書物によって広く普及したことも大きな特色である。

 

 従来の建築は職人の技とのみ考えられていたが、数学的に根拠付けられ体系化されることで、幾何学・音楽・天文学と並ぶ学問と認められるようになったのである。  この項では、マニエリスムとして16世紀の北イタリアの建築活動、特にアンドレーア・パッラーディオの建築を含んでいない。建築史家によっては、16世紀以降をひと括りにマニエリスムとする場合もある。

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ゴシック様式とは

2024-11-10 | ことのは

ゴシック様式とは

 

 ゴシック様式(ゴシックようしき Gothic Style)とは美術史や美術評論において、西ヨーロッパの12世紀後半から15世紀にかけての建築や美術一般を示す用語。  

 

 

概要

 最初は建築のみに使用された用語だが、次第にゴシック建築が建造された時代の装飾、彫刻、絵画などへとその適用範囲が広がった。

 

 この時代の様式(厳密にいえば、建築様式)を初めに「ゴシック」と呼んだのは、15世紀~16世紀のルネサンス期イタリアの人文主義者たちである。

 

 彼らはこの様式を、混乱や無秩序が支配する野蛮な様式だとして侮蔑の意味を込めて、「ドイツ様式(la maniera tedescha)」または「ゴート族の様式」つまり「ゴシック様式(la maniera gotico)」だと言い表した。

 

 当時は既にゴート族と称される集団は存在しなかったが、「ゴート族」という言葉はしばしばゲルマン人全体を指して用いられ、アルプス以北のドイツ語を話す人々(Tedeschi)のことを指し示して使われたからである。

 

 そして「ゴート族」と言った場合には、ローマ帝国と古典芸術を破壊した蛮族という批判的な見方が含まれていた。  

 

 しかしこの様式に対する認識は誤りである。

 

 ゴシック様式は、フランスのイル・ド・フランス地方から始まって各地へ広まった様式であり、ゴート族またはドイツ語を話す人々が創始した様式ではない。

 

 また、この様式が創始された時代の者たちは「現代様式」や「フランス様式」と言い表している。  

 

 

 ルネサンス期以後ゴシック様式は蔑まれ、一部その使用され続けたところもあるにせよ(ゴシック・サバイバル)、ほとんど採用されなくなった。

 

 しかし、18世紀後半から19世紀前半にかけてイギリスにおいてゴシック・リヴァイヴァルと呼ばれるゴシック様式再興運動が活発化する。

 

 以後ゴシック様式が再考されて再び脚光を浴びるようになり、名前が由来するところの侮蔑的な意味合いはなくなった。

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