アール・ヌーヴォーとは
アール・ヌーヴォーとは、19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。
「新しい芸術」を意味する。
花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。
分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。
第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。
しかし、1960年代のアメリカ合衆国でアール・ヌーヴォーのリバイバルが起こって以降、その豊かな装飾性、個性的な造形の再評価が進んでおり、新古典主義とモダニズムの架け橋と考えられるようになった。
ブリュッセルやリガ歴史地区のアール・ヌーヴォー建築群は世界遺産に登録されている。 歴史 ヴィクトール・オルタ「タッセル邸」。
ブリュッセル、1893年 アール・ヌーヴォーは、フランスではスタイル・メトロ、アート・ベル・エポック、世紀末のアート、などと呼ばれることもあった。
アール・ヌーヴォーという言葉はパリの美術商、サミュエル・ビングの店の名前から一般化した。
この言葉で狭義にベル・エポックのフランスの装飾美術を指す場合と、広義にアーツ・アンド・クラフツ以降、世紀末美術、ガウディの建築までを含めた各国の傾向を総称する場合とがある。
国によって次のようにも呼ばれているが、これらの様式の大部分にはそれほど大きな違いはない。
フランスでは、アール・ヌーヴォーは批判者からは、特徴的なアラベスクなフォルムから「ヌイユ様式」(麺類様式)、またエクトール・ギマールにより1900年に実現されたパリ地下鉄のこの様式の出入口から「メトロ様式」などとも呼ばれた。
ドームの壺(ナンシー派、1900年頃) ポール・コーシーのズグラッフィート。ブリュッセル、1900年 アール・ヌーヴォーの理論的先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求められる。
中世のゴシック建築の構造と同様に逆にそれに装飾的・美的な機能を与えて誇示した。
一連のネオ・ゴシック運動の先導者として知られていたにもかかわらず、ヴィオレ・ル・デュクは数々のアール・ヌーヴォーの建築家にも影響を与えた。
ロックタイヤード城のフレスコ画(1859)を含む彼の諸作品はネオ・ゴシック運動とアール・ヌーヴォーの血縁関係の完璧な例である。
1893年にヴィクトール・オルタがブリュッセルに建設したタッセル邸がアール・ヌーヴォー様式の最初の建築物であると見做されている。
そこではヴィオレ・ル・デュクの流れを完璧に酌んで、金物、モザイク、壁画、ステンドグラスといった構造的であると同時に装飾的でもある要素を取り囲む植物的な曲線が空間のなめらかな流れと響き合っている。
「アール・ヌーヴォー」という言葉は1894年にベルギーの雑誌L'Art moderne(現代美術)においてアンリ・ヴァン・デ・ヴェルデの芸術作品を形容する言葉としてエドモン・ピカールが初めて用いた。
この言葉はフランスに伝わり、1895年12月26日、パリのプロヴァンス通り22番地に美術商サミュエル・ビングの店「メゾン・ド・ラール・ヌーヴォー」(仏: Maison de l'Art Nouveau)の看板として登場した。
ここではヴァン・デ・ヴェルデの他、エドヴァルド・ムンク、オーギュスト・ロダン、ルイス・カムフォート・ティファニー、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど、多数の象徴派とアール・ヌーヴォーの勢力下の展示が行われた。
エクトール・ギマールは彼らとは別の孤独な道を行き、「ギマール様式」と呼ばれる彼独自の世界を作り出し、多作かつ隔絶した才能であったと見なされている。
フランスのアール・ヌーヴォーの最も見事な総体が構成されたのはナンシーである。
1870年のアルザスとモゼルの併合の後、ドイツの支配の下に留まることを望まなかった多数の併合ロレーヌ地方の住民は仏領ロレーヌに移住した。
ここでアール・ヌーヴォーは地方主義要求の表明手段となり、エミール・ガレ、ドーム兄弟、ジャック・グリューバーらがナンシー派を形成した。
1900年のパリ万国博覧会でビングは現代的な家具、タペストリー、芸術的オブジェなどを色とデザインの両面でコーディネートしたインスタレーション展示を行った。
これらの完全な形で再現された装飾的なディスプレイはこの様式と非常に強く結び付いていたので、結果としてビングの店の名前「アール・ヌーヴォー」が様式全体を指すようになった。
他方で彼らの真正の作品は、彼ら自身が(意図せずに)提唱者となった流行の成功によって飲み込まれ、はびこる粗製濫造の装飾品(ビングとヴァン・デ・ヴェルデの告発)はアール・ヌーヴォーの記憶を長きにわたり汚すことにもなる。
マジョレル邸の玄関の金物工芸 アール・ヌーヴォーは、フォルムの再生を妨げる格式ばった歴史主義とは異なる選択肢を提案するために象牙の塔から出て、日用品の装飾を引き受け過去の様式を断ち切りつつも利用する一群の芸術家たちの営みであった。
この観点から、木や石のような古くからの素材が鋼やガラスのような新しい素材と組み合わされた。
芸術家たちはそれぞれの素材から最良のものを引き出すべく極限まで探求を推し進めた。多層のパート・ド・ヴェール(ガラス工芸の一種)、金物工芸の組み合わせ模様を施した階段の手すり、うねりのある木の家具などは、自然界に刺激されたフォルムの革新への意志を保ちつつも、意向に応じて手頃な価格で芸術を取り入れることを可能にした。
この芸術はまた数多くのパトロンを持ち、選ばれたブルジョワ階層の間で広がって行った。
花、草、樹木、昆虫、動物などのモチーフがよく用いられ、これらは住居の中に美を取り入れるのみならず自然界にある美的感覚に気付かせることを可能にした。
他方で鋼の使用は建築物の高層化を可能にし、摩天楼を実現するまでに至った。 アール・ヌーヴォーはパリの無数の建物に影響を与えたのはもちろん、ヴァル=ド=マルヌやエソンヌやセーヌ=サン=ドニといったパリ近郊を散歩するとよく目にする、大半が20世紀初頭に建造された珪石造の数多くの古い別荘にも非常に大きな影響を与えている。
錬鉄の大胆な使用、煉瓦と陶器による装飾、切妻と時として小塔がこれらの特徴となっている。
こうした郊外でフランスの建築家たちは、アカデミズムとは対照的に総体的なものであろうとしたアール・ヌーヴォーが端緒となった新しい素材と新しい様式を実験したのである。
第一次世界大戦を境に、様式化が進みコスト高でもあったアール・ヌーヴォーのデザインは、流線型で直進的であり安価に製造できる、ラフで簡素で工業的な美意識に忠実であると考えられたモダニズム的なデザインへと変化して行った。アール・デコである(1920-1940)。
家具調度 ギュスターヴ・セリュリエ=ボヴィによるベッドと鏡台 (1899)。オルセー美術館の展示 アール・ヌーヴォーの錫の花瓶 (1900年頃) アール・ヌーヴォーの家具の概念は職人仕事を再生させた。アール・ヌーヴォーは制作者個々人によるスタイルであり、それは職人の仕事を中心に据え機械仕事からは距離を置くものであった。
室内装飾の領域での大きな革新は統一性の探求にあった。
とはいえ、アール・ヌーヴォーも伝統的な様式と無縁というわけではなく、とりわけゴシック、ロココ、バロックなどの影響を残していた。
ゴシックから理論的なモデルを、ロココなどから非対称性の応用を、バロックからはフォルムの造形的な概念を引き継いでいる。
日本の彩色芸術もまた、その立体感の極めて平面的な扱いによって、ギリシャ式オーダーの対称性への隷属からアール・ヌーヴォーが解放されるのに貢献した(ジャポニスム)。
木は奇妙な形となり、金属は自然の流れの交錯を模倣して曲りくねった形となった。
実際に、アール・ヌーヴォーは自然の観察に大いに基づいており、それは装飾のみならず、見方によっては構造的な部分にまで及んでいた。
命を持つ、官能的な波打つ線が構造部分にまで行き渡り支配していた。
椅子やテーブルは素材の中で特徴的なしなやかさに形作られていた。
それが可能なあらゆる箇所で、直線は禁じられ、構造上の分かれ目は連続した曲線と動線のために隠されていた。
アール・ヌーヴォーの最も優れた作品は、その際立った線のリズムにより、18世紀の高級家具にも似た調和を見せていた。
フランスでは、アール・ヌーヴォーは2つの派に分かれていた。
一方はサミュエル・ビングとその店を中心としたパリ、もう一方はエミール・ガレ(1846-1904)に率いられたナンシーのそれである。
ロココとアール・ヌーヴォーの類縁性が最も説得力を持つのはナンシーの方であった。
それほど魅惑的ではないが、当時最も名を知られていた芸術家の1人であったルイ・マジョレル(1859-1926)が間違いなくナンシーのアール・ヌーヴォーの2番目の先導者であった。
ガレは植物から象徴的な文学の銘に至るまでの幅広いモチーフの象嵌細工を得意とした。
この巨匠の作品に典型的に見られるのが構造的な要素が幹や枝から末では花となって終わる変容である。
ナンシー派とは対照的に、パリのアール・ヌーヴォーはより軽快で洗練された簡素なものであった。
自然から着想されたモチーフはより大まかに様式化され、場合によっては半抽象化までされており、副次的なものとなっているように見える。