「介護録」とユルユル日記

介護終了、ブログタイトルかえました。

ご挨拶

2014年12月7日をもって私の介護生活は終了しました。

介護中、このblogに毒吐きし、多くの介護仲間さんに助けられました。
過去記事を読むと穴があったら入りたい気分でもありますし、今とは考え方も違うところもあります
身勝手な独りよがりも多々ありますが、そんなあれこれも、介護中の方たちのデトックスに一役かえたらという思いから「介護録」として残しておくことにしました。

今後はユルユルと日常をつぶやきながら時に介護や認知症に対する思いを書いていこうと思います。

タティング

タティングは↓こちらに 写真をアップしていくことにしました。
お暇が出来たらのぞいてやって下さい。
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介護は続くよどこまでも

2005-03-02 | ●介護録(~2015.2月)
否定してはいけません、受け入れましょう、話は合わせて逆らわず、言うとおりにしてあげて、不安を取り除き、優しく接して……Etc.

認知症の介護は一言でいうなら「忍耐」だと私は思う。

こんなに耐えて、頑張っているのに……でも、その努力もなにも相手には通じない。
それどころか、イジワルな人にされたり、泥棒扱いされたり、報われないことこの上ない。いえ、報われないどころか、こっちの心までズタズタにされる。

認知症以外の介護ならば、家族として会話が成立し、お互いを思いやり、頑張った分報われるのでは、と私は思う。
何より、心を通わせる事が出来るのはうらやましい。
そんな状況なら、出来るだけのことをやってあげて、そして、(順番からいけば親が先だから)悔いなく最期を看取って、いい思い出を作れるかもしれない。
でも、認知症は……。

今、私には、母との嫌な思い出が蓄積されている。
報われず、苛立ち、怒り、切なく、悲しく、腹が立ち……。
そういう思いばかりだ。

それを打ち消す手段の一つとして、介護詩を作っているような状態。
考えたら、これも哀しい作業。

どうして、専門家は簡単に介護者に
「○○してあげましょう」とか「こういう対応が必要です」とか「相手の気持ちになって考え、接してあげましょう」っていうんだろ。
家族が認知症になり困惑している段階の介護者に、介護のあるべき姿、理想の介護を、いきなり突きつけるのは、何かが違う。

いつか、全て受容して、おだやかな気持ちになれる日も来るかも知れないけど、最初は無理なんだもの。
「辛くて、受け止めかねて、泣いて、わめいて、イライラしても、それが当たり前の反応。少しずつ受け入れていきましょう」って言ってくれる専門家はなかなかいない。
最初の最初は、手探りだから、そんな一言が必要だと思うんたけど……。