夫との会話から突然思い出したのは、主婦だった私が「ソシアルダンス教師」と
してスタートした日のことだった。中3からソシアルダンスを踊っていた私は
子供達の手が離れた28歳の時、夫をそそのかして家族に内緒で、毎週3回子供達
を置いて「ダンス教習所」へ通っていた。3か所目のスタジオが、新宿の甲州街道
沿いにあった「東京高等ダンス学校」だった。その結果私は教師試験を受けて資格を
取った。そして私の人生は大きく変わった。
やがて私はそのダンス学校で指導することになり、その頃には新宿南口の駅前の
ビル移転していた。私達は個人レッスンを受けていたが、「東京高等ダンス学校」は
クラスレッスンがメインだった。何か月かアシスタントとして見習い、50年前の
今頃に、今日から自分がクラスを持つと決まった日をの、私は決して忘れない。
新宿駅の階段を昇るとき、緊張のため足が震えたことを・・・
でもダンスを教えて初めて知ったのは、教えることの楽しさと、やり甲斐で、自分の内面
の資質に目を見張る思いだった。でも、ダンス教師になってすぐ、自分のセンスのなさや
その業界が私に合わないことで、「これは一生続けられる仕事ではない」と感じた。
色々アンテナを張り、ヨーガに出合い、その精神性に惹かれ、瞬時に「これは一生の
仕事にしたい」と思った。
その頃まだあまり知られていなかったヨーガだったが、経営者の先生にスカウトされ
特訓を受けて2年、ダンス教師をしながらそこで指導した。
やがて自分の「ヨーガ教室」「ダンススタジオ」を経営指導したが、ヨーガもジャズ
ダンスも空前の大ブームになった。私がしたことは幸運なことに、ほとんど時代の最先端
で、次から次へと道は拓かれていったのだ。思えば商家の妻が家を出たのは、家族との関係が
良くなく、それが直接の原因で、そのため、夫も許してくれたのだろう。
ダンス教師になったのがきっかけで、私の人生は大きく変化し、気が付いたら、指導者として
今年が満50年になったが、これもまた見えない力の導きかも知れないと感じた。
インドへ通ったのは13回、そして私のメンタリティは大きく変わり、その「見えざる大きな力」
に改めて感謝を捧げた今朝だった。