
国際法・国際政治学の観点からこれまでの憲法学者による憲法解釈を批判するという内容だが、9条の歴史的文脈はおおむねその通りとして、解釈は必ずしも歴史的文脈に縛られるものではないのではないか、9条が不戦条約の流れを汲んでいるというのはドヤ顔で語るようなことではなく常識的な理解ではないのかなど疑問を感じた。憲法が英米法ではなく大陸法の考え方で解釈されてきたという点は、むしろ日本国憲法がアメリカ的発想で新しく作られたのではなく、大日本帝国憲法の改正としてその系譜を引いていることを示しているのではないかと思うが…
読了日:08月02日 著者:篠田 英朗

明治以来の日本の憲政史は「護憲」と「解釈改憲」の歴史であったことを論じる。明治憲法下での憲政が「天皇超政」と「天皇親政」の間で揺れ動いたこと、現在の日本国憲法も「押し付け」と言われつつ昭和天皇のお墨付きを経ていること、「解釈改憲」によって天皇の元首化が事実上達成されていることを鑑みると、日本の憲法で鍵となるのは軍隊ではなく天皇の扱いではないかという気がするが…
読了日:08月07日 著者:川口 暁弘

大覚寺統・持明院統の両統迭立時に、勅撰和歌集の撰者をつとめる家柄も二条家と京極家とに分かれたという話と、応仁の乱以後勅撰和歌集の編纂ができなくなってしまってから、天皇による積極的な歌壇の運営や古今伝授といった形で伝統の保持を図ったという話が面白かった。近現代の部分は記述がやや食い足りなかった。
読了日:08月08日 著者:鈴木 健一

大伴家持の詠んだ歌とともに、一族の大伴池主、聖武天皇の皇子安積皇子、橘奈良麻呂、大原今城、中臣(大中臣)清麻呂らとの交流や、死んだ後まで浮き沈みのあった政治人生について描いている。同じく中公新書で出た『蘇我氏』とセットで読むと面白いかもしれない。
読了日:08月11日 著者:藤井 一二

第二章の『グリーン・デスティニー』に関する論評に惹かれて読んでみることに。武侠映画やカンフー映画の先行作品として引くべきものはあらかた引かれているが、「発福」な周潤発(Chow Yun-Fat)がFATであるといった言葉遊びの数々に面食らう。台湾外省人でアメリカの市民権を得た『グリーン・デスティニー』の監督アン・リーが一体どこの国の人かという問い掛けに蓮舫の二重国籍騒動を連想してしまい、日本のグローバルもgloballs(著者の造語)だと言いたくなったが…
読了日:08月14日 著者:張 小虹

ローマ帝国によるユダヤ人の「追放」の実態とはいかなるものだったのか、現代のユダヤ人は古代のヘブライ人の子孫と言えるのかなど、ユダヤ人の歴史認識がどのように形成されていったのかを辿ることで、現代のイスラエル国やシオニズムの歴史的正当性に疑問を投げかける。正しい歴史と信じるものが歴史認識でしかなかったということや、固有の民族の定義の無理性(本書ではユダヤ人の特質を遺伝学的に明らかにすることができず、ナチスもユダヤ人の定義は役所の資料に頼るしかなかったという話を引く)は、日本も含めて普遍的に通用する問題だろう。
読了日:08月20日 著者:シュロモー サンド

中世・近世の部分では、オーストリアのほかチェコ、ハンガリーなど各地を統べるハプスブルク家の王が、あたかもそれぞれの王国だけの王であるかのように振る舞わねばならないことの面倒くささが語られる。しかもチェコやハンガリーの内部も一枚岩ではなかった。近現代の部分では、ヨーロッパ統合の進展や、その挫折による国民国家の再評価といった世相によって、研究の場でハプスブルク君主国の評価が変転したという事情が面白い。ハプスブルク君主国史は「客観的」な歴史学がどの程度可能かを考える絶好の素材なのかもしれない。
読了日:08月24日 著者:岩崎 周一

北条早雲=室町幕府の申次衆で有力者層の伊勢盛時として語られる評伝。伊勢氏同族との関わりについてもちょこちょこと触れられている。「外来者」として自らを意識していた早雲が、当時の通例とは異なって家臣を通さずに直接百姓と向き合おうとしたという話が面白い。
読了日:08月26日 著者:池上 裕子

近代日本の朱子学の帰結は教育勅語しかなかったのだろうかという疑問から生まれた論考。儒教では主君への忠より親への孝を尊ぶ、中国の六諭や聖諭広訓も直接的には家族倫理を説くのみというあたりで、日本で朱子学を歪めたものがあるとすれば、万世一系を前提とする天皇の存在ということになりそうだが…
読了日:08月27日 著者:下川 玲子