『宮廷画師郎世寧』第18~最終第24話まで見ました。
いよいよ乾隆年間に突入し、郎世寧は乾隆帝后妃12名の肖像を集めた『心写治平』や『香妃図』、あるいは円明園の西洋宮殿や噴水といった代表作を次々に作り上げていきます。円明園の西洋宮殿や庭園は実物大で復元されていて一見の価値ありだと思います。で、円明園の設計を命じた当の乾隆帝は、苦心の末に出来上がった噴水などを自分に対してつれない態度を取る香妃を喜ばせ、驚かせるためのおもちゃとしか認識していないようでありますが(^^;)
円明園設計に尽力した郎世寧の同僚宣教師らは、自分達が乾隆帝の道楽や色恋の成就のために駆り出される一方で、一向に中国での布教の許可を得られないことに失望を隠せません。我らが郎世寧はと言えば、乾隆帝により心ならずも官位を授けられ(当時のカトリック教会は宣教師が現地で官位を得ることを禁じていたという説明が出て来ます)、清朝の官服を着て宮廷に出仕しており、自分でも最早中国人なんだか西洋人何だかよく分からない状態になってます。
そしてドラマは70歳を迎えた老郎世寧が乾隆帝の恩典により、故郷の曲である『サンタルチア』を演奏する楽隊(無論西洋人ではなく中国人の楽隊です)に先導されて、輿に乗って北京の街を練り歩くシーンで幕を閉じます。『サンタルチア』は郎世寧の故郷であるミラノではなくナポリの曲で、しかも郎世寧の死後の19世紀にできたものらしいのですが、この際こんなことは置いておきましょう(^^;)
で、その行列を目にした若い宣教師たちはすっかり異教の習俗に染まった郎世寧の有様に呆れ果て、「神様が彼をお許しになったとしても、教会は彼を許しはしまい」なんて台詞を吐き捨てています。この郎世寧の後輩たちが中国社会に溶け込もうとしないことで、結局は清の地でキリスト教が根付かなかったことが暗示されるわけですが、かといって郎世寧が布教に成功したかというと、そういうわけでもないんですよね……
いよいよ乾隆年間に突入し、郎世寧は乾隆帝后妃12名の肖像を集めた『心写治平』や『香妃図』、あるいは円明園の西洋宮殿や噴水といった代表作を次々に作り上げていきます。円明園の西洋宮殿や庭園は実物大で復元されていて一見の価値ありだと思います。で、円明園の設計を命じた当の乾隆帝は、苦心の末に出来上がった噴水などを自分に対してつれない態度を取る香妃を喜ばせ、驚かせるためのおもちゃとしか認識していないようでありますが(^^;)
円明園設計に尽力した郎世寧の同僚宣教師らは、自分達が乾隆帝の道楽や色恋の成就のために駆り出される一方で、一向に中国での布教の許可を得られないことに失望を隠せません。我らが郎世寧はと言えば、乾隆帝により心ならずも官位を授けられ(当時のカトリック教会は宣教師が現地で官位を得ることを禁じていたという説明が出て来ます)、清朝の官服を着て宮廷に出仕しており、自分でも最早中国人なんだか西洋人何だかよく分からない状態になってます。
そしてドラマは70歳を迎えた老郎世寧が乾隆帝の恩典により、故郷の曲である『サンタルチア』を演奏する楽隊(無論西洋人ではなく中国人の楽隊です)に先導されて、輿に乗って北京の街を練り歩くシーンで幕を閉じます。『サンタルチア』は郎世寧の故郷であるミラノではなくナポリの曲で、しかも郎世寧の死後の19世紀にできたものらしいのですが、この際こんなことは置いておきましょう(^^;)
で、その行列を目にした若い宣教師たちはすっかり異教の習俗に染まった郎世寧の有様に呆れ果て、「神様が彼をお許しになったとしても、教会は彼を許しはしまい」なんて台詞を吐き捨てています。この郎世寧の後輩たちが中国社会に溶け込もうとしないことで、結局は清の地でキリスト教が根付かなかったことが暗示されるわけですが、かといって郎世寧が布教に成功したかというと、そういうわけでもないんですよね……