博客 金烏工房

中国史に関する書籍・映画・テレビ番組の感想などをつれづれに語るブログです。

『古語と現代語のあいだ』

2013年12月28日 | 日本史書籍
白石良夫『古語と現代語のあいだ ―ミッシングリンクを紐解く』(NHK出版新書、2013年6月)

この人の前著『かなづかい入門』では、現代仮名遣を毛嫌いし、歴史的仮名遣を称揚する人々に対して強く批判していましたが、そんな人が今の日本にどの位いるものなのかと疑問に思っておりました。

今回出た本書によると、実のところ著者自身も熱烈な歴史的仮名遣の信奉者なんてごく少数という前提で(つまり「確信犯」で)書いていたとのこと。ところが『かなづかい入門』出版後に改めて調べてみると、ジャーナリズムの現場で歴史的仮名遣い復活を主張する人が意外に多いのに驚いたということです。それだけならまだしも、国会議員が自民・共産・無所属もひっくるめて超党派で「正仮名遣い復活」を唱えて連盟を組み、勉強会を開くなど、政界でも隠然たる勢力を形成しており、歴史的仮名遣いの復活が国策レベルの話になっているとのこと。……何だよそれ、一体どういうことだよ(´Д`;)

そういう声がそれなりに大きい中で、漢字・かな表記を廃止して日本語をローマ字で表記しよう!なんてうっかり言い出そうものなら一体どういうことになるのか…… 実は最近亡くなられた私の師匠の師匠は段階的に日本語のローマ字表記を進めるべきという考えの持ち主でした。その考えには賛同しかねるものの、敢えてそういうことを主張では偉かったんだなと思った次第です。

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『足利義満』

2012年08月29日 | 日本史書籍
小川剛生『足利義満 公武に君臨した室町将軍』(中公新書、2012年8月)

足利義満の生涯や、義満にまつわるあれやこれやをまとめた本ですが、内容が多岐に渡るので、例によってトピック別に気になった点をまとめていきます。

○二条良基について
二条良基は当時の北朝宮廷の有力者で、義満と深い交流のあった人物ですが、彼には一年間の日記という体裁で自らの願望や理想とする朝儀を書き連ねた『思ひのままの日記』という著作があったとのこと。……えっなにそれこわいw 本書の著者も「ひたすら妄想を語られるような寒々しさも覚える」とコメントしてますが(^^;)

そして良基がこの『思ひのままの日記』を書いたのが、興福寺による嗷訴の調停に失敗して、興福寺より藤原氏からの放氏処分を言い渡されていた時期。藤原氏の氏寺である興福寺が、五摂家の当主で藤原氏の氏の長者までつとめた良基を藤原氏から追い出したのは、著者によればイエズス会員がローマ教皇を破門すること並みにあり得ないことということですが……

そして義満が右大将に就任する際の拝賀の指導役として洞院公定が内定していたのに、「そこはワシやろ」と公定を押しのけて指導役の座を奪う良基。このあたりの話を読んでると、実は人格的に相当アレな人だったのではないかという印象を受けてしまいます。言動を見てると「室町殿はわしが育てた」とか言い出しかねないものが(^^;)

○日本人と『韻鏡』

『韻鏡』というのは漢字の音韻を図示した漢籍ですが、当時この書で年号や人名の反切を求めて吉凶を判断したという話がなかなか狂ってます……

三条西公時「次の年号は慶長で如何か?」
洞院公定「慶長の反切はキョウ、すなわち羌となる。この年号を採用すると、我が国が羌のような異民族に侵略されることになるのだよっ!」
一同「な、なんだってーーー!!」


みたいな会話がなされたのでしょうか(^^;)

そして歴代の足利将軍が改名しまくったのも、名前の反切で導き出される字の吉凶を異様に気にしたからだとか。これはある意味現代の姓名判断より悪質ではw

○皇位簒奪計画説について

本書ではいわゆる義満の皇位簒奪計画説を否定しています。義満が生前に治天の君のように振る舞い、死後に太上天皇の号を贈られたことはよく知られていますが(ただし息子の義持が尊号を辞退)、著者によると、「天皇は子であっても君主、上皇は父であっても臣下である。太上天皇の尊号とは天皇が臣下に贈る身位」ということですが、そーいうもんですか……

義満が太上天皇の尊号宣下にこだわったのは、明への国書に用いる称号として、准三后や当時から国内で批判が多かった日本国王ではなく太上天皇の号を使いたかったからとのことですが、それも事情を知らない中国人が目にしたら「あんたは天皇の父親か何かですか?」ということになるのではないのかと疑問に思うところです。まあ、准三后も中国には存在しない称号ということなので、「あんたは女性ですか?」と問われかねないと思いますが……

本書では義満の死後、五山僧の記録でしばしば「鹿苑院太上天皇」の表記が用いられ、鹿苑寺蔵の義満木像の銘に「鹿苑天皇尊像」とあるのは、禅宗の庇護者であった義満に対するリップサービスみたいなもんで、社会的に通用したものではないと評価しています。しかしそういう事情を割り引いても、これは充分異様なことではないかと思うのですが……

そう言えば義満が明国から日本国王の冊封を受けたことについて当時から批判があったとのことですが、それより以前に南朝の懐良親王が同じように冊封を受けたことはどう見られてたんだろうなあと疑問に思いました。
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『頼朝の武士団』

2012年08月22日 | 日本史書籍
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』(洋泉社歴史新書y、2012年8月)

『北条氏と鎌倉幕府』・『鎌倉幕府の滅亡』の細川重男氏の新著。今回は両作で触れられていなかった鎌倉幕府の草創期について論じています。そして『北条氏と鎌倉幕府』ではネタを重視、『鎌倉幕府の滅亡』では論考を重視していましたが、今回は『北条氏と鎌倉幕府』と同じくネタに走っています。つまり鎌倉武士=DQNということで全体を突き通しているわけですね。

本書では鎌倉の頼朝邸すなわち幕府が事実上御家人たちの溜まり場となっており、日夜宴会や双六で盛り上がっていたとありますが、要するに私が学生の時分に入り浸った××君ちみたいな空間ということですね。わかりますw このあたりの話を読んでると、鎌倉武士の生活がとても楽しそうに見えてきて困ります(^^;)

とは言っても殺しが日常生活の延長線上にあり、北条一門の重鎮北条重時が息子の長時に家訓として「時トシテ何ニ腹立事アリトモ、人ヲ殺害スベカラズ」(腹が立ったぐらいで人を殺しちゃダメよ(はあと))と言い残すような時代ですから、その溜まり場で御家人の粛清劇が繰り広げられたり、酒の場でのちょっとしたいさかいが凄惨な殺し合いに発展したりするわけですけどね…… このあたり、著者の言う「残虐とほのぼのが共存する時代」という表現がとてもしっくりきます。

以前元木泰雄の『河内源氏』を読んだ時に、「嫡流だから偉いのではなく、偉いから嫡流なのだ」という感想を抱いたものですが、本書によると、そもそも当時源氏の嫡流なんて存在しなかったとのこと。まあ、頼朝が偉かったから後の時代にその系統が嫡流と見なされるようになったと考えれば、同じことなのかもしれませんけど。
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『歌舞伎と浄瑠璃』

2012年08月18日 | 日本史書籍
田口章子『歌舞伎と浄瑠璃』(吉川弘文館歴史文化ライブラリー、2004年)

歌舞伎と、今話題の人形浄瑠璃(文楽)がお互いにどう影響しあって発展してきたかについてうまくまとめた好著です。ただ、本書で論じられている歌舞伎と浄瑠璃の「男性原理」「女性原理」については、正直なところ何を言ってるのいまひとつよく分からないのですが、スルーしちゃってかまわないのでしょうか……

本書に見る歌舞伎の歴史。

「遊女歌舞伎が大人気だお!」
→当局「いかがわしい!こんなのほとんどストリップと変わらないではないか!けしからん、禁止!」
→「じゃあ男でやるわ。若衆歌舞伎っ!」
→当局「男優に変えてもやってることは同じではないか!禁止!」
→「じゃあ芸術っぽく見えればいいんだねっ!人形浄瑠璃から台本をパクってストーリー性を持たせるよっ☆」
→当局「……」

まあ、このあとも松平定信やら水野忠邦やらにあれこれ難癖をつけられて取り締まられるわけですが……

そして浄瑠璃で人気の題材となった心中についても、心中が社会現象となっていることを苦々しく思った八代将軍吉宗は、それなりに美しい響きがある(らしい)「心中」という呼び方を嫌い、法律用語の「相対死」という呼び方を使用させることに。何かDQNネームと呼ぶかキラキラネームと呼ぶかみたいな不毛な議論ですが(^^;) そして心中物というジャンル自体も禁止の対象となってしまいます。

本書を読んでると、文化というのは流行ったら流行ったで、今の文楽みたいに流行らなかったら流行らなかったで、どっちにしろ当局にあれこれ難癖を付けられるものなのかとしみじみ……
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『喧嘩両成敗の誕生』

2012年07月18日 | 日本史書籍
清水克行『喧嘩両成敗の誕生』(講談社選書メチエ、2006年)

切腹や囲者のルーツについて言及していたりと、氏家幹人『かたき討ち』の前段にあたる内容ですが、室町人のヒャッハー!ぶりを見てると、彼らは日本人の祖先と言うより『北斗の拳』の世界の人々の祖先と言った方がしっくりくるなあとしみじみ……

本書では室町人が『北斗の拳』の世界の住人から「我々」の祖先となっていく過程を論じているのですが、こういうのを見てると、内藤湖南の今日の日本を知るには応仁の乱以後の歴史を研究すれば充分で、それ以前の歴史は外国の歴史のようなものだという言葉が思い出されます。現在とのつながりを意識させられるのが歴史の効用だとすれば、現在との断絶を意識させられるのも、これまた歴史の効用であるわけです。(ついでに言うと、私自身はつながりより断絶の方に惹かれがちなんですが……)

本書で印象に残った話。文安元年(1444年)5月のこと。京の都で山名氏の女中を乗せたお輿が行列を組んで進んで行くのを見て、子供たちが流行り歌をうたって囃し立てていたところ、行列のお伴の男が何を思ったか突然刀を振り回して8歳の子供を突き刺し、「文句があるヤツはかかってこい!」と怒鳴り散らします。

刺された子供は両親のいない孤児であったこともあり、誰も彼を助けようとしませんでしたが、その子は血まみれになりながらも通り過ぎていく行列を睨みつけ、「菖蒲で作ったおもちゃの刀でも身につけておれば、このような不覚は取らなかったものを……」と言い残して息絶えたとのこと。

この時代、子供ですら自分の身は自分で守るという「自力救済」の覚悟を持っていたという話なんですが、こういうのを見ると当時の日本がどんどん『北斗の拳』の世界に見えてくるわけですよ(´・ω・`)
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『かたき討ち』

2012年07月18日 | 日本史書籍
氏家幹人『かたき討ち』(中公新書、2007年)

江戸時代の敵討にまつわるあれやこれやをまとめた本ですが、敵討は泰平の世の到来によって戦士としてのアイデンティティを奪われつつあった江戸時代の武士にとっての、言わば「自分さがし」であるという記述に笑ってしまいました(^^;) 戦国時代の武士は却って親兄弟を殺された遺恨にこだわるだけの余裕が無かったそうな……

そして当時の合法的な敵討の手順とは。本書によると、まず討手が主君に敵討の許可を願い出る。敵が他領にいる場合は、主君が幕府に届け出をだす。→江戸町奉行がこれを帳簿に記録し、討手に許可証を発行。→で、討手が敵を発見!→現地の役人に届け出。→現地の役所が敵を捕縛し、幕府に届け出。→江戸町奉行が帳簿を確認し、敵討を許可。→現地の役所がしかるべき手配をして、敵討を実行させる。……手続きが超絶に面倒くせえEEEEEEEEE!!これはひどいw どう見てもお役所仕事www

まあ、幕府などの当局からしたら、敵討と言えども殺人は殺人なのだから、これを法的に認める限りはここまで厳密に手続きを踏ませないといけないという言い分になるんでしょうけど。昨今の大津のいじめ事件のようなことがおこると、敵討の制度の導入・復活を!という人が現れますが、例え導入されたところで制度として導入される限りは、たぶんこういう残念なことになるんだと思います(´・ω・`)

本書よりもうひとつネタ。江戸前期には屋敷に駆け込んできた敵持(敵討の対象として追われている人)を大名や旗本が囲者として匿うという風習があったとのことです。しかし江戸後期にはこの風習が廃れていきます。当時の武士の作法書『天野武大夫調進書』によると、敵持が屋敷に駆け込もうとした場合、様々な嫌がらせ……もとい手立てを尽くして、なるべく穏便に駆け込みを諦めさせるのがマナーであるとされています。

まずその家の家臣が敵持に応対し、「主人は来客中なのであなたには会えない。悪いがよそに行ってくれ」と説得。それでも諦めない場合は、相手に切腹を勧めます。相手が切腹しない場合は「そのような臆病者は匿えない。さっさとよそへ行け」とイチャモンをつけて追い出します。

では家臣自身の家に敵持が駆け込んできた場合はどうするのか。まず追手の名前を聞き出し、「追手は実は自分の知り合いだ」とか「家には病人がいるからあなたの面倒を見る余裕が無い」とか「今から主君の命で外出するところなので」と、適当な嘘をついて体よく追い出します。

……何か色々とワロタw もはや困っている人を適当にあしらって責任回避をはかるのが日本の伝統ではないかと疑われるレベルです(^^;) しかし本書は現在の日本とは異質の文化について語っているはずなのに、読めば読むほどデジャブを感じるのはなぜなのでしょうか……
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『百代の過客』

2012年04月07日 | 日本史書籍
ドナルド・キーン『百代の過客 日記に見る日本人』(講談社学術文庫、2011年10月)

以前に読んだ同じ著者の『日本人の戦争』が本書の続編にあたるということで、こちらも読んでみることに。日本では古くから日記が文学として読まれてきたと評する著者が、平安時代の円仁の『入唐求法巡礼行記』から始まって幕末の川路利謨の『下田日記』まで、『土佐日記』・『奥の細道』のような有名古典からそうで無いものまで数十編の日記を取り上げています。

特に(たぶん色々とネタにしやすいからでしょうが、)旅日記の占める割合が多く、現代の我々が海外旅行に行って取り敢えずガイドブックに載ってる観光地を写真に収めてくるのと同じような感じで、昔の旅は取り敢えず先人が詩歌に残した名跡を観光し、同じように歌や記録を残すのが流儀であったとか、色々面白い指摘をしています。個人的にはもう少し旅日記以外の通常の日記について取り上げて欲しかったような気もしますが……

以下、例によって面白かったポイントを書物別に列挙していきます。

『竹むきが記』
南北朝時代の朝廷に仕えた女性日野名子の日記。彼女とその家族も当時の貴族の例に漏れず、鎌倉幕府滅亡や南北朝の争いといった動乱に巻き込まれ、波乱の人生を送ることになるわけですが、夫の西園寺公宗が鎌倉幕府の復興画策に関わったことで囚われの身となり、彼女の目の前で名和長年に斬首されたというだけで泣ける…… (ただしこの話は『太平記』に見えるものの、この書では触れられていないということですが。)日本映画界は彼女を題材にいわゆる「スイーツ(笑)」層向けの泣ける映画を作るべきですよ!

『富士紀行』
この書は室町幕府第6代将軍足利義教が富士山見物に赴いた時に随行した公家飛鳥井雅世が残した旅日記ですが、以下はこの時に彼が義教に捧げた和歌二編。

「誰もみなひかりにあたる日本の神と君をとさぞてらすらん」
「君が代はながれもとをしさめが井のみづはくむともつきじとぞ思ふ」


義教に対して「君が代」という言葉を使ってあたりでドン引きです(^^;) キーン先生も「天皇にでも向けて書いたものかと思われようが」と評してますが、義教はどんだけ当時の人に恐れられてたのかと…… 義教の治世に対する「万人恐怖」の評は伊達ではないということでしょうか。義教の暴君と言うか専制君主っぷりはもっと一般に知られてもいいかもしれません。

『高麗日記』
これは秀吉の朝鮮出兵に従軍した鍋島直茂配下の部将田尻鑑種の従軍日記ですが、日記を付けた動機は戦争が退屈だったからとのこと。これについて太平洋戦争時の従軍経験があるキーン氏はこう述べます。「だがこれは私自身の体験とも一致していて、短期間の戦闘のあとには、普通必ず長い退屈な時間が続くものなのである。多分戦争というものは、昔からずっとこうしたものであったにちがいない。」……そういうもんなの?(´・ω・`)

『井関隆子日記』
こちらは天保年間に旗本の未亡人となった老女がつけた日記。本居宣長ら国学者の著書に感化されてナショナリストになり、天保の改革を熱烈に支持し、大塩平八郎やシーボルトに日本地図を渡したことで獄死した高橋景保をdisり、そして非業の死を遂げた渡辺崋山を「蘭学なんかに手を出すからそんなに目に遭うんだよ!ざまぁwww m9(^Д^)」とプギャるなど、色々とひどいw 井関隆子さんが今の世に生きていたら、大阪維新の会の熱烈な支持者になってたりしたんだろうなあとしみじみ……
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『日本人の戦争』

2012年02月06日 | 日本史書籍
ドナルド・キーン著、角地幸男訳『日本人の戦争 作家の日記を読む』(文春文庫、2011年12月)

日記文学はおそらく日本文学にしか無いジャンルであり、日本では平安・鎌倉の昔から文学として日記が読まれてきたと評価する著者が、太平洋戦争が始まった昭和16年(1941年)から終戦直後の昭和21年(1946年)までに書かれた作家の日記を読むことで、日本人の戦争に対する見方を追っていこうという本です。日記が取り上げられた作家は永井荷風・山田風太郎・高見順・伊藤整・渡辺一夫らです。割と雑多な内容なので、以下、例によって面白かった部分を取り上げてみます。

大本営発表が明らかにしなかった事実については、風説がその代わりを務めた。(本書47頁ほか)

(昭和20年3月の東京大空襲の直後)上野駅は、少しでも安全なところへ逃げようとする罹災民で満ちていた。前年にいた中国で目撃した光景を思い出し、高見(順)は日記の中で中国人と日本人を比較している。上野駅ほど混雑していたわけでもないのに中国人は大声でわめき立て、あたりは大変な喧騒だった。そうした喧しい中国人に比べて、おとなしく健気で、我慢強く、謙虚で沈着な日本人に、高見は深い感銘を受ける。(本書111~112頁)

半藤一利の『昭和史』を読んだ時にも同じことを思いましたが、こういうのを見ると、日本人はダメな意味で今とまったく変わっとらんのですなあと…… 正直、私には当時の上野駅よりマシな状況でわめき立てていたという中国人の方がよっぽど人間らしいと感じられるのですが(´・ω・`)

そして終戦を向かえ、その後間もなくのこと。

駅で一人の兵隊が、今までのように列の前に行って特別に切符を買おうとしたら、窓口の少女に言われたという、「兵隊さんはあとですよ。」(本書150頁)

このような人々の軍部・兵隊への感情や対応の悪化に合わせるかのように、終戦からわずか1~2週間で露骨な軍部叩きを始めるマスコミ……掌返すの速すぎワロタw

他にも永井荷風らが救貧生活を迫られる中、谷崎潤一郎だけは隠棲先の熱海で毎日白米をたらふく食べていたとか、そもそも戦時中でも全国各地から谷崎のもとにうまいものが届けられるシステムになっていたとか、色々と面白い話題が取り上げられています。

軍隊と日記との関係としては、巻末の平野啓一郎氏との対談で、日本の軍隊では毎年元旦に兵隊に日記帳が支給され、日記をつけることが奨励されるとともに検閲の対象ともなっていたことが紹介されていますが、毎日日記をつけるのが宿題になってた小学校の頃を何となく思い出してしまいました。うっかり変なことを書いたら怒られるのも同じなわけですね(^^;)

最後に本書で私が一番(´・ω・`)となった箇所を挙げておきます。

山田風太郎の日記を読んでわかったのは、それまで人は読んだ本によって自分の性格や信念を形成すると思っていたわたしの考えが間違いであるということだった。山田とわたしは、ほとんど同じ時期に同じ本を読んでいたにもかかわらず、二人の世界観は根本的に違っていた。(本書15頁)
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『靖国史観』/『国家と歴史』 

2012年01月11日 | 日本史書籍
小島毅『靖国史観 幕末維新という深淵』(ちくま新書、2007年)

今まで何となくスルーしてましたが、年末に読んだ『中国化する日本』で取り上げられていたので、読んでみることに。靖国問題がメインテーマと思いきや、靖国問題をとっかかりとして明治維新の意義について問い直すという内容で、「明治維新って、ぶっちゃけ起こらなくてもよかったんじゃね?」(大意)と、物凄い問題提起をしています(^^;)

そして薩長は幕府側に勝ったから官軍となったわけですが、その順序をねじまげて自分達が官軍(=正義)だから勝ったと解釈し、それを押し通したことが靖国問題の根源であったと説いています。すなわち靖国神社とは正義を体現する官軍(皇軍)側の犠牲者を祀る機関であり、正義が敗れるはずがないということで、靖国神社も当然皇軍が敗北するという事態を全く想定していなかった。しかし第二次世界大戦でその敗れるはずのない皇軍が敗北したことで、すべての歯車が狂ってしまったというわけです。

波田野澄雄『国家と歴史 戦後日本の歴史問題』(中公新書、2011年11月)

そしてこちらでは靖国問題を含めた歴史問題について概観。本書では割と印象的なフレーズが多かったので、以下に2~3挙げておきます。

「歴史認識の共有はほぼ不可能であるとしても、歴史資料を共有することは可能」(199頁)

たとえ違うところを見ていても、共有できるものは確かにあると。

スタンフォード大学アジア太平洋研究センターが取り組む「日中韓の教科書比較のプロジェクト」の中間報告は、日本の教科書は全般的に、戦争を賛美することに最も抑制的であるが、事実を解釈するストーリー性には欠けており、単なる年代記(クロノロジー)のようだと批評している。(273頁)

何となく日本の歴史教育は歴史用語の暗記が中心となるが、中国の歴史教育は歴史解釈の暗記が中心となるという話が思い出されます。

異質なものを絶えず同質化するというかたちでしか問題を解決できない社会は、他の問題にも同様の解決を図るであろう。(96頁)

……(´・ω・`)
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『贈与の歴史学』

2011年12月12日 | 日本史書籍
桜井英治『贈与の歴史学 儀礼と経済のあいだ』(中公新書、2011年11月)

中世の日本の贈与にまつわるあれやこれやをまとめた本ですが、人からもらった贈答品を他への贈答に流用したり、そうやって何度も流用された贈答品が回り回って自分への贈答品として戻って来たりというエピソードを読むと、自分家に届いたお歳暮をよその宅へのお歳暮に流用するような行為は昔から行われていたんだなあと得心がいくわけです(^^;)

そして本書では、現金が平気で贈答されるのは今日の日本の特殊性であると指摘しています。これはおそらく入学祝いとか結婚祝い、あるいはお年玉なんかを指して言っているのでしょうけど。で、現金の贈与に関わるものとして紹介されている中世の折紙システムが本書の最大の読み所です。これは贈答品の目録に相当するものですが、現金を人に贈る場合は、まず金額を記したこの折紙を相手に贈り、現金は後から届けるのが当時の礼儀であったとのことです。

問題は、実際に現金が相手に届けられるのが折紙が出されてから数ヵ月後、1年後、数年後になることがしばしばあり、ひどい場合には結局現金が届けられないことすらあったということです。

この折紙が今日でいう約束手形とかクレジットカードのような役割を果たしており、この折紙システムの普及によって資金の準備が無い場合でも贈与が行えるようになったということで、相応の経済力の無い人々によって折紙が濫発されたとか、毎年納入される年貢から折紙分の金額が引き落とされたとか、あるいは自分のもとに年貢を納入してくる相手に対して折紙を出した場合には、納入される年貢から折紙分の代金を控除したりとか、そういう話を延々と読んでいると、人間のやること考えることはいつの時代も変わらんなと、とても胸が熱くなってきます(^^;)

これ以外にも歴史の中の贈与というものに対して色々考えさせられる要素に満ちているので、題名にピンと来たら是非手に取ってもらいたい本です。
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