昨日投稿した記事
「台湾首脳と武侠小説」の文中でリンクを貼った『明報』2008年2月23付けの新聞記事
「馬英九幼年迷武侠 曾写小説」がなかなか面白いので、ザザッと訳しておくことにします。一部訳しきれていない所やこなれていない所もありますが、平にご容赦を……
〈以下、訳文〉
馬英九は幼い頃武侠に夢中になり、小説を書いたことがあった
馬英九は小学3年生の時には、既に武侠小説のファンであったが、それは主として父親の馬鶴凌が武侠小説のファンであったからで、知らず知らずのうちに影響を受けて、彼は幼少より武侠小説を愛読するようになった。小学5年生の時、教師がクラスの児童全員に話をさせ、馬英九は自分の読んだことのある小説の内容をクラスメートに聞かせたが、それが生き生きとして精彩に富んでおり、クラス中の児童が夢中になって聞き惚れた。後に教師は定期的に彼を指名して武侠小説の内容を話させた。
最も気に入っているのは郭靖の侠義敦厚
『少年馬英九』という本が披露するところによると、金庸の小説は当時台湾では禁書であり、通常は香港から持ち込まれ、別の書名が使われた。例えば『射英雄伝』は『大漠英雄伝』と改められた。郭清・黄蓉・小龍女・東邪・西毒・南帝・北丐といった金庸小説中の人物には各々個性があり、それぞれ馬英九は愛してやまないが、彼はかつて最も気に入っているのは郭靖大侠のような行いが篤実なキャラクターであると言っていたことがある。
学業を疎かにし、父親が筆を折らせる
武侠小説を愛好し、マニアとなった彼は、中学2年の時に、「どうして自分で当代随一の大作を書かないのか」と突然思い立った。書名までしっかりつけて『竹剣銀鉤』とし、また響きの良い「天橋小馬」というペンネームをつけた。このように考えて書き進めるうちに、彼は積み重ねて100ページあまり、数万字の原稿を書き上げ、あと一歩のところで当代随一の作が出来上がるところであった。しかし馬英九が執筆に全力投球して勉学を脇に置いていたところ、馬鶴凌は息子が学業を疎かにしているのを発見し、事態が深刻なのに驚いて、自ら「身を以て手本となって」趣味を犠牲にし、武侠小説を読むのをやめたので、馬英九も父親の教導のもとで著作をやめ、これより努力して「咪書」
(訳注1)し、その翌々年に名門の建国高校に合格した。
馬英九の小学校及び高校時代の同級生鄭宗玄は本誌の訪問を受けた時に、以下のように語った。小学校の時、馬英九を含めたいくつかの「死党」
(訳注2)があり、放課後に彼の家の庭で集まって宿題をしたり、遊んだりした。馬英九が武侠小説の物語を語り出すと、「生き生きと語るだけでなく、剣招・拳術を交えて思うままに実演することができた。」「その時既に彼の天分を見出せた。」
馬英九の「天橋小馬」というペンネームの由来については、鄭宗玄は次のように言う。馬英九は幼い時台北市の中山北路と長安東路の交差点のところに住んでおり、当時そこに「復興橋」という歩道橋
(訳注3)があった。今はもう撤去されているが、これこそが「天橋小馬」の由来なのである。
昨年、亡くなった武侠作家古龍の息子で警察官の鄭小龍は、馬英九の身辺警護のために派遣された。その時馬英九は彼に「私は君のお父さんの小説のファンなんだ」と話しかけたが、鄭小龍は信じなかった。後に鄭宗玄が馬英九の幼少時の経歴を語っているのを聞き、鄭小龍はようやく馬英九が言っていたのは「社交辞令」ではなかったのだと信じるに至った。
訳注1:原文のまま。勉学に励むの意か。
訳注2:原文のまま。馬英九をリーダーとするグループというほどの意味か。
訳注3:原文は「行人天橋」。