歴史を調べると面白い。
最近「御野村郷土史」「潼々谷餘滴」「福山志料」のコピーを入手し,読めない文と文字をもじもじと追っている。
そこには栄枯盛衰も見え隠れしている。
明治20年代村と村が自分の土地だと主張し訴訟合戦になった。
江戸時代東中条村、西中条村、下御領村が示談で「貝谷と堂々谷」を境としたらしい。
谷間だからと言う理由でもなかろうが曖昧な妥協であった。
それが後に峯尾根か谷底か、どこが境かで周辺20数か村を巻き込んだ裁判になった。当時の裁判は廣島裁判所尾道支部で審議された。
風が冷たいのに、思い立ったら吉日とカメラ持参で山登りをした。
このような人を退屈男か馬鹿男と言うらしい。
堂々川六番砂留の横に記録を碑にしてある。
そして広い土地の中でも争点の1つ、鳶が迫砂留及びその砂留が作った広場である。



その砂留は昔は池であった。上記の資料から見ると慶応2年(1866年)にこの池は決壊したとある。
参考までに今でも砂が流れ出すので平成になっても砂留は作られている。
次の写真は鳶が迫砂留の上流に作られた砂留。

裁判の結果は中条村が勝訴したが中条村は金尾村長が原告であった。
当時の金尾邸跡、

金尾銀行とも言われたお金持ちで福塩線の湯田村駅まで他人の土地を踏まないで通れたといわれている。
この訴訟事件を今研究されている人によればやはり地獄の沙汰も「金」次第の気がすると話された。
つまり今?も昔も代わらず、お金が勝利したと言う。
豪邸の50メートル上流は深水川源流の看板があり、その上流らしきところにも古い砂留がある。


少し余談の話を付け加えるとこの豪邸には男の子がいた。
その男子は音楽が好きで太平洋戦争の前、東京へ出て音楽家になったそうだ。
音楽は当時の大金持ちの風潮からすれば家風に合わないそうで勘当された。
その人の娘さんが今はどうされているか分からないが、私の時代1世を風靡した踊りと歌で超有名な人である。
名前は教えてもらえなかったが水戸黄門にでている女性と同期とか。
もう1つ追加で
皆さん自分が住んでいる所は安全と思いますか。
実は私は自分の住んでいる現住所は安全と思い込んでいたのですが
1673年5月 大原池が決壊
1863年5月 三反田池決壊
1866年5月 鳶が迫池決壊
1942年9月 長老塚池決壊
歴史を紐解くと大雨被害がでていました。
最近「御野村郷土史」「潼々谷餘滴」「福山志料」のコピーを入手し,読めない文と文字をもじもじと追っている。
そこには栄枯盛衰も見え隠れしている。
明治20年代村と村が自分の土地だと主張し訴訟合戦になった。
江戸時代東中条村、西中条村、下御領村が示談で「貝谷と堂々谷」を境としたらしい。
谷間だからと言う理由でもなかろうが曖昧な妥協であった。
それが後に峯尾根か谷底か、どこが境かで周辺20数か村を巻き込んだ裁判になった。当時の裁判は廣島裁判所尾道支部で審議された。
風が冷たいのに、思い立ったら吉日とカメラ持参で山登りをした。
このような人を退屈男か馬鹿男と言うらしい。
堂々川六番砂留の横に記録を碑にしてある。
そして広い土地の中でも争点の1つ、鳶が迫砂留及びその砂留が作った広場である。



その砂留は昔は池であった。上記の資料から見ると慶応2年(1866年)にこの池は決壊したとある。
参考までに今でも砂が流れ出すので平成になっても砂留は作られている。
次の写真は鳶が迫砂留の上流に作られた砂留。

裁判の結果は中条村が勝訴したが中条村は金尾村長が原告であった。
当時の金尾邸跡、

金尾銀行とも言われたお金持ちで福塩線の湯田村駅まで他人の土地を踏まないで通れたといわれている。
この訴訟事件を今研究されている人によればやはり地獄の沙汰も「金」次第の気がすると話された。
つまり今?も昔も代わらず、お金が勝利したと言う。
豪邸の50メートル上流は深水川源流の看板があり、その上流らしきところにも古い砂留がある。


少し余談の話を付け加えるとこの豪邸には男の子がいた。
その男子は音楽が好きで太平洋戦争の前、東京へ出て音楽家になったそうだ。
音楽は当時の大金持ちの風潮からすれば家風に合わないそうで勘当された。
その人の娘さんが今はどうされているか分からないが、私の時代1世を風靡した踊りと歌で超有名な人である。
名前は教えてもらえなかったが水戸黄門にでている女性と同期とか。
もう1つ追加で
皆さん自分が住んでいる所は安全と思いますか。
実は私は自分の住んでいる現住所は安全と思い込んでいたのですが
1673年5月 大原池が決壊
1863年5月 三反田池決壊
1866年5月 鳶が迫池決壊
1942年9月 長老塚池決壊
歴史を紐解くと大雨被害がでていました。
昨日は終日雨でしたので活動が鈍ります。
運動不足に・・・。
でも頑張っていらっしゃるのですね~。
この雨で一斉に芽が動き始めました。
堂々川の緑も濃くなりビオトープも活気が出てくるでしょうね。
植え込まれた草花もそろそろ芽吹く準備に入っている事でしょうね。楽しみです。
私は特に感覚人間で、こう言う風に歴史を紐解いて
行くと言うことが大変苦手です。
蛍の川、堂々川の歴史を紐解き、尚一層愛着が湧いた川となったことでしょう。
川も長い歴史を刻んで今があるのですね。
こんばんは~~♪
私は危機管理などもさっぱりできていないし、地元の歴史にも疎くて、なんだか恥ずかしくなってしまいます。
どちらかというと、水戸黄門の番組のほうの話題にあった「同期」の方が気になっちゃうぅ~
こちらに伺い、御地について今一度お勉強をしてみようと思い立ち、先ずは地図のどの位置に有るのか確かめたくなりました。
この記事の中身により、どうやら昨年福山市と合併した神辺町あたりになるのでしょうか、今度はその地名でネット検索して、神辺町のHPに到達できました。
そこでいつも記事に載る堂々川に近づこうとして堂々公園の項目をクリックしましたがページが開きませんでした。
今度はオンライン地図で、その周辺に近づきましたが高屋川までは表記してありますが堂々川となりますと現れて来ませんでした。
神秘のベールに包まれているとなるとますます興味がわいてきます。
地理と歴史について、どうか今後もヒントを出し続けて行ってください。
え?「結界を張った~!」な~るほど(ニコッ!)
自然を尋ねる人さんのところは、何百年の間に4度も決壊したのですね。
金沢も昔は川が何度も決壊したと聞いたことがあります。今では犀川、浅野川の堤防も高くなり、そういうことはなくなったようです。詳しく調べたことはないのですが、母から聞きました。
雪もなく暖かな景色にほっとします
もっとこんなゆとりのある授業ができればいいのに…そう思います。
先日中条公民館の方と話をしていると、中条の奥には昔、6つの城があったそうな…
その中のひとつが神辺に移り、また福山にも移っていったという昔の資料を整理されていました。
(数は自信ありません)
「へぇ~」という意外な話にしばし、聞き入ってしまいました。
堂々川にもたいへんな歴史があるんですね。
いい勉強になりました。
面白い。地元を愛し、何が出来るかを考えようとすれば、やっぱり郷土史も知らなければならない。
guuchanも郷土史の勉強しますよ。
堂々川の重みが一段と増し、まあすます堂々としてきましたね。
ちょっとサブいか?
自然さんも深みにはまりはじめられたような。
ふだんは自分の住む土地のこと、あまり深くは考えないのですが、
こうやって調べたら、どんなに興味深いことでしょう。
ちょっと刺激を受けています。
わたしも土地の表土に生えているものだけでなく、
その奥に隠れているものもみたくなりました。
郷土史は面白いでしょうね~。
砂防留めにも色々の物語が溜まっている様ですね。
掘り出して綺麗にするべしですね。
そして整理整頓して事故の起こらないように・・・。
「世が世なら私は姫」の言葉を口にする人に出合ったのは兵庫県に住んでからでした。
大勢いましたね~。
西日本に多い気持ちでしょうか・・・?
主人の亡母も・・・
歌手の方はは分かりませんね~。
明治の歴史が言葉1つ1つに宿っているように感じられました。砂留を作った積み石からうめき声が聞こえてくるようです。、
読み解く、古老から話を聞くなかなか大変な作業です。
歳と共に先を見るのでなく『振り返る事が』多くなりました。我も同じ。
江戸時代などは水利なんかで、村通しの公事が多くあったようです。
今のようにコンクリートの堤防で固められていない川は、洪水により流れが変わったからです。
人に歴史あり、郷土にも歴史あり、堂々川にも歴史あり。
歴史を勉強するといろいろなことが分かってきますね。
私も郷土史が好きです、もっと色々なことを知ったら面白いでしょうね。
昔も今も水には泣かされているようですね。
また、地名を見るとそこが昔は何であったか分かったりしますね。谷とついたり溜とついたり田とついたりで・・・。家を移る時には、昔の地名を参考にしてから移りたいと思っています。
話を読んで...お気楽も 思い出した...お気楽の 生まれた家は 丘の上でした..村の道路に出るのに
マイ道路と橋を掛けて 自動車が 今も通っています.
と 昔むかし 聞きましたよ...
今の時代 50~100坪と町ではあくせくしています...
又 遊びに 来ます.
写真と説明で、大体分かりました。
私も、こういうもの、興味あります。
意外な過去の史実を知って、楽しいですよね。
そして、今後の向けて、何か、どうすべか、考えるのも、いいものですよね。
面白い歴史もの、ありがとうございました。