自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

近世山陽道

2007-02-26 18:08:45 | Weblog
 カラスが鳴かない日はあってもコチコチ(東風、東風)と時は刻んで春は来る。
年度末が近くなると町内会やら各種団体のたらい回し人事が横行し、私にも役員になるようにとの依頼が来た。
タラ同様に緑の色の信号を出すと喜ぶ人は多いだろうがたらい回しにするようお願いした。


カラスの巣作りが始まった。上に尾が見える。


今脇を見ると緑がさらに冴えている


姲哪(アナ)の国の一部又は全部が備後国であったかはまだ定かではないが
姲哪の海だったという神辺平野の一部を大学の教授はボウリングされた。
その時、海水が存在したという根拠は見つからなかったそうだ。
山からそのあたりを眺めるが海も、姲哪も雲の中で分からない。



前回の続き、近世山陽道の1里塚や常夜灯等を見ていただく。


県境から約500mに有る1里塚





強すぎて暗殺されたという江戸時代のお相撲さんの碑



道路を挟んだ前には江戸時代初期のものが残っている








この常夜灯までが県境から約2.8kmで6基ある。
どの常夜灯も神社の入り口の近くにある。
参考までに我が家の裏の道が近代山陽道で前の道が古代山陽道である。

神辺平野

2007-02-23 11:48:03 | Weblog
 雨が上がって優しい風が吹く。
頬を触った風は露の残る花へ向っている。
もう春です。
一寸出かけてみませんか。





備後の国は弥生時代の終わりには姲娜の国と呼ばれていたようだ。
7世紀の後半に吉備の国が3つに分割されて備の後に前、中、後が付いて備前、備中(岡山県)備後(広島県)と別れていると文献には有るが日本書紀には姲娜も備後もどちらも屯倉を置いたと記載されている。もう少し調べないと嘘をつくことになるので確定ではなく?とします。
それは別にして
備後と備中の境界の印から見ていただく。
最近作られたものだが大正8年の文字が覗く。
約90年も前に高屋村も御野村もそれぞれ合併して現在の平成の大合併のように大きくなったのだろうか、今の私にとっては春の月のようにおぼろの世界である。



この境界から岡山市の中心まで約60キロ、広島市の中心まで約120キロとも書いてある。(下の写真は近郊の駅までの距離、記入は当時の長さの里である)







ここからは神辺平野の歴史と観光の標を記して行く。
自然流神辺100景の紹介となる。
今日は近世山陽道や高屋川の常夜灯を県境から紹介していく。
川の神様がお祭りしてありこの2つはどうも四国の金比羅様との関わりあいが見られる。





これから次回にわたり近世山陽道の常夜灯を紹介する。
上御領八幡神社の前にある。


今日の話じょうでしたか。夜の明りも悪くない季節になりました。
以下次回へ

新聞

2007-02-20 22:21:17 | Weblog
 東山36方向静かに眠る丑三つ時、こっそり起きて山の高さを測る。
今だから言える秘話、
新聞記事にするからと取材を受け、関係者を紹介し、山も一緒に見た。
しかし山の高さが違う。
ある役所の部署は228mと言う、私が調べたのは236m。
わずかの違いだからどっちに転んでも多分困る人はい無い。でも眠れないから!
(一寸ちょっと、夜の夜中にどんなにして測るの!寒いし、見えないのに!)
少しこだわったが、今朝の中国新聞の「芦田川」の記事に堂々川が載っている。



多分見えないと思うが右端の中央部より少し上に私がいる。
その写真はプロカメラマンのもの。
参考迄に同じ時の私のもの。さすがにプロでした。
(慰めないでください。落ち込みます)



サー元気を出して先を急ぎましょう。
写真中央が東山らしき山で236メートル。
そこを源にして水が流れる。まだ川が流れてるようには見えない。
流れるのは2つの池を通った後の堂々公園あたりからはっきりしてくる。
そしてホタルが1番多く飛ぶ場所。綺麗な親水公園にイメージチエンジした。



そしてビオトープではついに蛙の卵がオタマジャクシになり泳ぎ始めた。





そこからまた下へ川は流れる。
広島県に陳情していた川の中の木が伐採された。見通しが良い。
良く見たら木が大きくなりすぎて石崖が危ない!危機一発だった。





堂々川にかかわる住民皆が頑張って半年あまりでここまで綺麗になったし、新聞まで応援していただいた。(まだゴミは沢山残るがこれは3月4日掃除をする)
(それぞれ理由は別だが綺麗は同時に完成していく)
ホタルよ沢山飛べと今日も川は流れている。

先日質問があったその回答。
高さ228m、三角形の斜めに当る長さ1000m。
(底辺に当る部分がいくらか計算できるはず。私は計算できないのです)
かなりの角度で水が流れるから砂を含んだ水は急流となり芦田川に流れ込んだのだろう。


温暖化は

2007-02-18 12:59:46 | Weblog
 今日は旧正月と暦に書いてある。
良くもなし悪くもなし中ぐらいなりおらが春の心境である。
ブログ友が走るという、東京マラソンをテレビ観戦していると銀座4丁目は雨が降り寒そう。
この東京は今年雪が降らないまま春を迎える予想が多くあり、地球温暖化は本格的だと言う。 地球温暖化が進めば海水面が上昇する話をよく聞く。
多分北極の氷が解けるから海水面が上昇すると考え違いをした人が話したのだと思う。
 この話は余裕が出きたらの事にして先に進む。
車をチェンジしたから試乗をかねて海を見に行った。
理屈が言えるよう、海の景色も見ておきたいからの理由もあった。





かもめが船の通った跡で群れている。引き潮で海岸に黒くみえる石が顔を出している。
山の中からは少し早目と感じたウグイスの鳴き声が聞こえた。
「ホーホーホケ・・」よりも学習が進んでいる「ホーホーホケキョ」の声がした。
そこには「トンビとカラス」が餌の奪い合いを空中でしていた。
撮影したい1コマであったので素直に嬉しい!



こんなすばらしい景色を見るに付け、この景色がもしも消滅したら、
思い出さなくても良い海水面の上昇について気になるので少し述べる。
 
 氷が解けても水面はほとんど上昇しない。それよりも氷河(南極、グリーンランド、ヒマラヤ、アルプス等)が融けたら約3%海水が増える。海水温度が上がれば海の水の体積が大きくなるから海面があがるほうに気をつけないといけないらしい。
その心配もさることながら自分の住んでいる土地の海抜を先ず知らないといけない。
調べる事がおっくうな人もおられよう。以下を参考にしてもらえれば。
高屋川が昔の神辺の町にかかるところを「古市」と言うがここは福山港からは10キロも内陸に入っている。
海抜12.35mである。街を守る為に堰が造ってあった。



そこから約3kmの国分寺参道入り口には水準点が石で作られ残っている。
17mで有る。





御野小学校は19mと昭和のはじめの本には書いてあるが印は残っていない。



上と同じ本では、堂々川の大砂留と言われている六番砂留が海抜100mである。
多分看板近くのプラボックスが示す所と勝手に想像した。



ばつの悪い話になったようだが最後まで御付合いありがとうございます。





堂々川の歴史

2007-02-15 21:52:57 | Weblog
 歴史を調べると面白い。
最近「御野村郷土史」「潼々谷餘滴」「福山志料」のコピーを入手し,読めない文と文字をもじもじと追っている。
そこには栄枯盛衰も見え隠れしている。

明治20年代村と村が自分の土地だと主張し訴訟合戦になった。
江戸時代東中条村、西中条村、下御領村が示談で「貝谷と堂々谷」を境としたらしい。
谷間だからと言う理由でもなかろうが曖昧な妥協であった。
それが後に峯尾根か谷底か、どこが境かで周辺20数か村を巻き込んだ裁判になった。当時の裁判は廣島裁判所尾道支部で審議された。

風が冷たいのに、思い立ったら吉日とカメラ持参で山登りをした。
このような人を退屈男か馬鹿男と言うらしい。

堂々川六番砂留の横に記録を碑にしてある。
そして広い土地の中でも争点の1つ、鳶が迫砂留及びその砂留が作った広場である。







その砂留は昔は池であった。上記の資料から見ると慶応2年(1866年)にこの池は決壊したとある。
参考までに今でも砂が流れ出すので平成になっても砂留は作られている。
次の写真は鳶が迫砂留の上流に作られた砂留。



裁判の結果は中条村が勝訴したが中条村は金尾村長が原告であった。
当時の金尾邸跡、



金尾銀行とも言われたお金持ちで福塩線の湯田村駅まで他人の土地を踏まないで通れたといわれている。
この訴訟事件を今研究されている人によればやはり地獄の沙汰も「金」次第の気がすると話された。
つまり今?も昔も代わらず、お金が勝利したと言う。
豪邸の50メートル上流は深水川源流の看板があり、その上流らしきところにも古い砂留がある。





少し余談の話を付け加えるとこの豪邸には男の子がいた。
その男子は音楽が好きで太平洋戦争の前、東京へ出て音楽家になったそうだ。
音楽は当時の大金持ちの風潮からすれば家風に合わないそうで勘当された。
その人の娘さんが今はどうされているか分からないが、私の時代1世を風靡した踊りと歌で超有名な人である。
名前は教えてもらえなかったが水戸黄門にでている女性と同期とか。

もう1つ追加で
皆さん自分が住んでいる所は安全と思いますか。
実は私は自分の住んでいる現住所は安全と思い込んでいたのですが

1673年5月 大原池が決壊 
1863年5月 三反田池決壊
1866年5月 鳶が迫池決壊
1942年9月 長老塚池決壊

歴史を紐解くと大雨被害がでていました。



周りを見れば

2007-02-12 20:10:10 | Weblog
 今頃は1年で1番寒いはずなのに!
最近、少しボランティアが過ぎたみたい。
この3連休、我が家の周辺を見待たせば、畑は荒れ、庭木は伸び放題、キンカンもゆずも黄色の実が垂れ下がっている。
あれそうなんだ、ホタルや薬草が世の為になる仕事!堂でもいいことです。
3連休頑張りました。
 5日ほど前のことから
大量の柿の実の処分を考えていたら、
はじめはメジロが数匹、3日目ぐらいから30匹以上が食べに来ていた。
そしてその頃からヒヨドリが尋ねてくれ始めた。



その翌々日、「ピーヨ、キキキー」仲間を呼ぶ声。





50匹ぐらいが1時間後には150匹を越えた。そして一次、二次と来襲する。
3時間は過ぎただろうかごらんのようにオレンジ色は消えている。
多分最後の1羽だろうが「ありがとうさん、ピーヨ」と西へ飛んでいった。



1つ柿は自然が片付けてくれた。
2つ目、畑は管理機を持ち出してひくことにした。
その前に昨年剪定した葉っぱで堆肥を作っていたのを畑に撒きはじめた。
そうしたら沢山のカブト虫の幼虫が出てきた。





全て別の場所へ移動しておいた。
このまま育てば夏には一儲けできるかな!

畑を耕し始めたら目ざといモスがすぐそこまで来た。
近づくと、近づいただけ後へ逃げる。自分の距離を持っているようだ。
耕した後で少しでも動くものがいるとすぐに取りに来る。
動体視力もすばらしい。





他所の花はきれいに見える。
我が家の花はどんなものか一度紹介して見る。
ツバキ。皆さんに比べるとUPするのが3日遅い。
大島のツバキは「あんこツバキ」だが我が家のツバキの名前はまだ調べていない。





約束と違う話になった。
もず、もずとわびを入れるのでお許しを!

堂々川

2007-02-10 15:42:48 | Weblog
 先に「愛に恋」と女学生好みのタイトルで堂々川とそのホタルを紹介しました。
今回はその続きを紹介します。

春の小川はさらさら行くよ、・・
最近の暖かさで蛙が卵を産んでいました。
名前はまだ調べていないが全長6cmぐらいの親かえるが産んだ卵らしい!





目と眼とがあったらこのかえる石の下へそーつと隠れたのです。
カエルのはまだ早い。もう少し遊びたいと呼んでも
恥ずかしいのか、石の下で見ているような!気がする。



この近くでホタルの幼虫が動いていないか石をひっくり返してみると、
2匹も見えた。
ビオトープを作ったことは今のところ大成功。
広島県の河川改修工事もかなりホタルを考えた設計でさなぎが住む場所
そして護岸は人間が親しめる水辺公園風にしてくださり
川も昨年のままの状態を触らずにもうすぐ工事も終わるようだ。









こんな堂々川だからできるだけ多くの人に知っていただきたいのです。
この川は国の登録自然文化財の砂留が8つ存在しており観光価値も高いとブログの主は思っています。
最近、暇に任せて数えたら20基確認できたました。
下の写真は二番砂留。何故ここを?
気まぐれな性格が顔をだし、2の数字が気になって撮影したからです。



この堂々川の歴史を調べていくうちにいろいろな事件や災害がありました。
最近入手した「潼々谷除滴」と言う明治26年の裁判記録を記述した本があります。



次回はこの本の話を含めた無いようです。

備前焼

2007-02-07 23:59:14 | Weblog
 東洋のエーゲ海と呼ばれる牛窓に新窯を築かれたと聞いていた。
その窯の初窯作品が最近出来た。

本題に入る前に自然流備前焼の概要を述べる。
岡山駅から赤穂線に乗って東へ40分もコットンコットンと揺られるJR単線の旅。
綺麗な景色だが窓の外を飽きた頃「伊部駅」へ着く。
駅前に備前陶芸美術館が有り、その町が備前焼きの町である。
釉薬を使わずに松の割り木を燃やし、伊部の鉄分が多い土で練った作品を10日以上1100度以上で焼き締める、炎と土の芸術なのである。
もう少し、知ったかぶりの説明を聞いて欲しい。
備前焼では赤焼、ゴマ焼、窯変、緋、緋だすき焼、青焼、牡丹餅、伏せ焼、色備前等があるそうだ。そして現在の人間国宝には伊勢崎淳氏が最近なられた。また古い伝統を持つ焼き物で瀬戸、常滑、丹波、越前、信楽、備前を6古窯と言う。
 さて、今回約18年間御付合いのある太田先生の若宮窯の初窯作品を見せてもらった。





窯を築いて最初に焚く窯を初窯と言い大変貴重で縁起が良い。そして昔から飯茶碗には招福の縁起を担いで「馬」という字を鏡で見るように左字に書く。
馬の字が逆字になるから「うま」;「まう」=舞うになり、舞うは縁起の良いめでたい席につき物だから「左馬」は招福文字とされている。
金運、財運、成功運、健康運、愛情運、勝負運などを招き願いがかなうのである。

長めの説明は終わった。黙って作品を見て欲しい。これが備前だ。





この作品の前には人間国宝伊勢崎淳氏のメモがあったが詳しく詮索はしなかった。



干支の猪や古備前の狛犬も見えた。





この部屋の中に2000点以上の作品が置いてある。いくら見ても飽きない自然の偶然に生まれる模様が綺麗だった。



表題の写真は瀬戸大橋を西から見たものだが、東洋のエーゲ海から見ると東から見る事になる。
西から見るのと東から見るのでは逆である。こんな見方を縁起が良い見方とは誰も言わない。
誰か味方になってそうだといってくれませんか。




薬草研究 タラノメ

2007-02-05 21:38:28 | Weblog
 今日の暖かさは4月。山菜が芽を出してもおかしくない。
旬には少し早いがタラノメの薬草木研究をしたい。
そして今すでにお店で売られているタラノメの作り方も紹介する。
 昨年、花が満開時のタラノキ



このタラノキが葉を落とすと



ふかし栽培をするにはこの木を伐採し、切断する。
タラノキの発芽を促す為には寒さを十分認識させる必要が有る。
早い時期に発芽させるには冷蔵庫へ入れることも有効である。
ふかし栽培に適しているのは山野に自生しているタラノキではなく「コマミドリ」と言う品種がとげがすく無くて適している。
山野の自生しているものは自然保護の立場からも芽を取る(盗る)ことは避けたい。





切断は芽のすぐ上を切る。
そして腰水をする。容器に入れて,その全長1/3を水につける。
水は少なくても3日おきに取り替える。
容器のお勧めは備前焼が良い。
何故!水が腐敗しにくいから。(次回は備前焼の紹介をする)

ふかし栽培の開始。



タラノメを食せるようにするにはこれから約40日、
(暖かくできる部屋であれば33日ぐらいも可能)
目標は
昨年の結果だがイメージとして以下を参照してもらいたい。
(華道の花として玄関に飾るのも一興で有る)



以上、タラタラと述べてみたが面白くも無く、味気もない。
 タラは山菜の王様、山のバターと自負するほど、植物性の油やたんぱく質を含み、
苦みばしった味がして、栄養的にもすばらしい。
薬草木の研究、少し専門的になるがサポニンの1種や繊維質、ベーターシトステロールを豊富に含んでいる。
このベーター・・ウンヌンは血液中のコレステロールを低減する作用が発見されており、動脈硬化、心筋梗塞、脳梗塞、高脂血症の予防が有るといわれる。
なんと言っても糖尿病患者には最適の自然薬である。
また、胃潰瘍、慢性胃炎、トイレに行く回数の多い人にも効果がある。

薬効が有ることは理解できたが、どのようにしたらよいか、要するに食べ方、使い方がわから無いという人のために!
 天麩羅で食べると旨い、美味いの声が連発する。
タラノメをタラ飯にする、火であぶって味噌をつけて食べる、茹でて和え物にする、煎じて飲む。
糖尿病が進行をはじめた人には秋に掘り出した根の皮や幹の皮を乾燥させたもの(漢方名ソウボク)とびわの葉を乾燥させたもの、イチイの葉を乾燥させたものを混ぜて煎じて飲むと良い。量についてはその人の健康状態、病状により異なるので十分な注意や専門家の助言が必要。

こんなタラノキだがニックネームがたくさんあり、昔から庶民に親しまれる事が分かるので紹介する。
「ウドノメ、ウドモドキ、タロウウド、タロウノキ、ツノオトシ、トリトマラズ、3年ウズキ、タロウノイゲ」
人の名前の太郎がついたものが多い、またウドのようにおいいしい事からウドの名前をかぶっているものも有る。
要するに庶民的な木で、自生しているものは芽を切られると枯れやすいからとげで身を守っている。可愛い、お洒落の棘を持つ木であるが逆らえば痛い目にあう。





鳥撮り

2007-02-02 17:51:43 | Weblog
 渡り鳥が飛んできて冬が来て
楽しく遊びその後で、いなくなったら春がくる。
もうすぐ立春、今がピークの冬鳥撮り。
寒いけれどワン連れの、朝が遅めの散歩に出ると鳥たちが好きに鳴いていた。
空を見ると雲の塊がまるで穴みたい、そこをANAが通り過ぎる。少し遅れてJALがきた。じゃー今しばし、鳥たちとじゃるてみる。



メジロが十数匹柿の実と木の芽を食べにやってきた。
鳩が何を思ったのが私の仕事場を覗きに来て格子に挟まり慌てて騒ぐ。
餌取りのメジロは驚き逃げていった。





蛍の住む川の土手に行くと鳥たちが自由に歌っている。
どの鳥が渡り鳥かは知らないが秋には見なかった鳥がいる。









スーと飛んできたメジロと鉢合わせ。一瞬、私もメジロも驚いた。
 百舌が高い所からインフルエンザにかかっている鳥はいないかと見回している。





神辺から約50km先のルート313沿いの高梁で鶏が大量に死んだ。
渡り鳥からの伝染らしいと噂されている。



カラスの野郎の言うことには「俺は渡り鳥ではない」
「騒ぐなアホー」といって飛んでいった。
だからカラスは嫌われるのだ。