自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

いも掘りⅡ

2013-10-31 21:39:10 | Weblog
柳の下には2匹目の泥鰌はいないと言う。
2校目の小学生がサツマイモ掘りにやってきた。
聞けば小学低学年では校外学習で体験するカリキュラムがあるらしい。
お知り合いの校長先生に話したら何処かに行きたいと思っていた所だからと2つ返事。
1週間後には再度いも掘りが実現した。
しかも今度はびんご自然栽培研究会のメンバーは稲刈り機の修理が終わったから
手伝えないと云う事で一人で段取りをすることになった。
前日、蔓を刈り作業がしやすいように準備しておいた。
朝、現場に来てみたら準備した所は誰かが掘った後だった。
会長が別の場所の蔓や草を刈り段取りをしていた。
結果的にこちらの方が量は多かった。


1年生22人と保護者3人
先生3人が40株ほどを掘り上げる


先生も本気



ところが自然はいも掘りは上の空で、アカタテハ蝶の撮影に夢中



アカタテハのお知り合い現象か




よくよく見ればイチジクの熟しすぎが捨ててあった。


食べる方が夢中


小学生のいも掘りは道具が無いのにはかどっている。


保護者も初めてのいも掘り


この学校の子供はおとなしい



と思っていたらやんちゃも出てきた。


芋虫の幼虫見っけたよ


何、かえるを見つけた。前回は「帰る」と云って困ったがこちらは女性は捕まえた。
校長先生のしつけが厳しいのか、捨ててあったごみを袋に入れた子供がいた。
名前を聞くのはやめた。が跡継ぎが出来た。招待して良かった。
あちらで呼ぶ声に歩いて向かうと「ハート」型の芋

だまって見ていたら、沢山掘っていた。


まだまだ掘り足りないらしい


先日収穫した後を再度耕したらまだ大きな芋は数個出てきた。
これだけ収穫したのにまだ掘るの!


1時間以上掘ったので飽きたかと思ったらまだ掘るそうだ。

終わりが近づいた。
自分が掘った1番大きい芋を出して、大きさ比べをするから



6月に植えたのに想像以上の大きさになっていた。

皆さんご苦労さん。サツマイモは蒸かして食べると美味しいョ。
ところで今日掘った芋は何時食べる?
頭の良い子がいた。数人は「今でしょう」と答えたが
「芋でしょう」と面白い答えを出した1年生が居た。
将来、中条初の漫談家が現れる可能性が出てきた。

薩摩芋掘

2013-10-27 13:35:29 | Weblog
気持ちの良い日差し、秋のお日様だ。
先ほどまで先日に続く、2校目のいも掘りの準備をしていた。一人故汗をかいた。
御野小の1、2年生がびんご自然栽培研究会の招待でサツマイモ掘りを体験した。
自然栽培研究会は土地の力を強くして無農薬・無肥料で米や野菜を栽培している。
今年度2月に設立したばかりの団体であるが会員109名で多くの人が関心を持っていることが分かる。
自然様と何で関係があるかと云うと会長の家が近くで、ホタルの監事をしてもらっている。
遊びに来いと声をかけられ訪ねたのが運のつき、
この会の幹事を頼むよと云われた。かんじが悪い誘われ方だが漢字つながりで受けた。
Q.ところで幹事は何をするの!A.栽培や広報を見てもらう(指導)だけでよい!
手っ取り早い話、ボランティア幹事と云うことだ。
もうすこしわかり易く解説するとボランティアコンサルと云うことらしい。
お米の収穫時期でサツマイモの収穫まで手が回らない、何か方法はと云うことで
小学校に声を掛けさせてもらった。校長先生2つ返事ですぐに日取りが決まった。
台風襲来で雨の心配がある23日、1、2年生を2回に分ける所を1回にして開始。
小学生が来る前芋蔓を刈り取り、準備して待つ。


自然農法だから草が多い

作業はきついが準備完了


小学生がやってきた。



子供達の事だからトイレも心配
近くのライブ喫茶のトイレを借りた。


ハイダウエイ内のトイレがOK


芋掘り開始
子供たちは前日から楽しみにしていただけのことはある。


大騒ぎで土を掘る


しばらくしていたら無農薬栽培の証拠
殿さまがお出ましだ



このカエル、よりによって女の子の方へ飛んでいく。
キ―、キャーの大騒ぎ、泣きべそをかいて「帰る」と云う子も、でもすぐに機嫌は治る。

そんな騒ぎの中、いもはどんどん姿を現す。



大物が掘り出される。


おじいちゃん見て
「こら、おじさんだろう」

この子も大物を
大きい芋は食べにくいので嫌われる

終わりの大物比べコンテスト
先生にも手伝ってもらい決定


どこにもいる虫博士



隣でキチキチバッタの♀と声がする。
ハイ自然は知りませんでした。
掘り上げたサツマイモは会長さんが太っ腹なのですべて持ち帰り



小学生も喜んで持ち帰ったが
びんご自然栽培研究会の皆さんも嬉しそう。
手を振ってお別れをしている。
楽しい、楽しい2時間だった。

橋渡しをした自然も無事済んで一安心。
そして本日は中条小学校のために草刈り、芋つる刈りをした。
そこへ先日いも掘りした小学生が来て、おじさん・・・なるほどよい子だ!
この前はありがとう。おしかったよ。
一人3個に分けて家族の多い人にはおまけがあったよと報告してくれた。
嬉しい話だ。

茶臼山城跡

2013-10-23 14:18:48 | Weblog
全国に茶臼山城と名がつく山城は掃いてすてるほどある。
その名のつく山城が福山市神辺町下御領にある。
12月1日にある公民館主催の史跡巡りの資料を作る為山の中を歩いた。

おなじみの探しもの道先案内はハンミョウが先導する。


ハンミョウ


案内に従って付いていくとすぐにお知り合いにあった。


ツマグロヒョウモン♂♀


面白いので10分近く付き合った。あんたも好きねー!と云われそう。


秋桜に飛んでも離れない
花の上は楽しいだろうな!


次の蝶はテングチョウ




続いておなじみのベニシジミ



ここで案内人と別れ、備後の国分寺の裏山、唐尾山八十八ケ所
江戸時代天保12年のころ飢饉が続いたので庶民の求めで作られたらしい。
約1時間で一巡り出来るミニだが、四国八十八ケ所と同じお寺さんが祀られている。
この順路の中に茶臼山城址はある。
順路は飛び飛び、後先あるが地域の墓地のある所には貝塚、
古墳であるがここから貝殻が沢山掘りだされ、現在国分寺さんにも保管されている。




他にも古墳が城跡近くにある。


国分寺裏山古墳群の一つ


茶臼山城は戦国武将宍戸氏、設立当時大内氏の配下であったが、後に毛利氏配下となる。
すぐ麓の八幡神社では戦勝祈願がなされ、何度も毛利、杉原のお殿様から褒美を貰っている。
茶臼山城の場所は現在の接待堂を中心にこの山の一番高いところ
石鎚神社から八幡神社の東にある宮池の上方までの範囲らしい。









昔の散策も楽ではない。
途中スズメバチの巣が近くにあるようで威嚇された。
カチカチと音が聞こえたから間違いなく巣がある。
音がしたら後ろ向きに静かに立ち去ることだ。ここを歩く人は注意する必要がある。
またその場所から100mほどのところで猪と出会った。
皮膚がこげ茶、大きさが目見当で15貫(約57kg)の大物
「ブー」と一声ほえて逃げてくれたからよかったが!
逃げたものは大物に見える。フォトの証拠がないのはつらい。

10月の定例会

2013-10-21 20:21:22 | Weblog
前日からの雨
10月の定例会をやるかやめるか迷ったが結局中止
それでも、もし参加者があればと集合場所へ行く。
8時集合だから少し早めに行き、猪檻に餌を置く。



白のトウモロコシはお呼びでなかったから
人間様でも美味しい安納芋の小さいものや鍬切れを罠に入れる。
8時になると2人やってきて、準備はしていないがやるかと聞く。
今日は午前中強い雨も予想されているから中止宣言をしてお引き取りを願った。
事務局は折角来たのだからとゴミ拾い。


2番砂留の少し上


水に流されたゴミがある。


この蝶亡くなっているようだ


雨が降っている。
水が落ちているが濡れるのは同じと道から降りて道路へ掘り投げる。



ポイ捨てのゴミが5日も拾わないとあるものだ。
ほとんどがコヒ―缶とコンビニの袋(中にはお菓子の袋)
一つだけお酒の瓶、飲酒違反もいるようだ。
ものはついでが輪をかけて5番川原のヒガンバナを植えているところ、
ヒガンバナの葉が地上へ出はじめているので草刈りして集めた草の山
道路端まで紐で結えて出しておいた。



ここまでの作業は気にならなかったが強い雨



上流の黄色の花が咲いているところから下流を見ると


身体が冷えはじめているのを感じた


ついでついでが重なるが


たで

ミゾソバ


ゴミを捨てられた腹立ちが少しだけ癒されて家に帰り、朝風呂に入った。
歌でもおなじみのオハラ ショウスケさんは
朝風呂に入って家をつぶしたが我が身は今のところまだ大丈夫。
中国新聞掲載があるだけに頑張らなくては!

100号

2013-10-18 20:44:40 | Weblog
台風が大きな被害を与えて北へ去ったが被災された方心からお見舞い申し上げます。
さて台風が去った10月18日
自然は様々な姿を見せてくれる.
堂々川では盗掘されても元気に黄色のヒガンバナ(ヒョウキスイセン)が咲いている。
2個所でその数約80、1本だけオレンジが自分を自慢している。


鳶ケ迫砂留入り口


約40本の花の中に1本だけオレンジ色が咲いている。



山では三つ葉アケビが実を割る寸前
里に下りるとシジミが花を探している。
10月サクラがどんどん花びらを増やしている。







春夏冬
飽きずに8年、事務局は堂々川ホタル同好会の情報誌を書き綴り
この10月発行分で、ついに100号を発刊出来た。
毎年12~14回の発行を続けていたことになる。
事務局は忘れていたがある中国新聞社の女性記者が取材に行くよと電話してくれた。
最近、ある申請を行った時100号が近いと言った記憶がよみがえった。
この記者美人なのにそんな小さなことを覚えていたとは驚きだ。
天は2物を与えずと普通は言うがこの人は別らしい。
情報誌4年目あたりから環境をかなり意識している。
毎年情報誌の名前が変わるが環境と砂留の文字が多く出てくるようになった。


25年度夢を具体化して
目標をはっきりさせている
野球でいうと3冠王を目指すと言うことか

ホタルと砂留

講演と云う世界へ乗り出し
堂々川を日本へ世界へPRする姿勢が出始めた


私たち堂々川ホタル同好会は創立10年、設立8年目、がむしゃらに頑張ってきたが
これからはある程度スピードを緩め、多くの人と楽しみながら環境を守り
ホタルを保護し、砂留を守って行くことにします。
その楽しみの第1はヒガンバナの開花3万本が見られたこと、今後年々増え続けるだろう!
続いて11月初旬多くの人と慰労パーティーの開催を計画しています。
山の幸松茸(ただいま準備中)川の幸鮎(すでに冷凍庫で眠る)海の幸牡蠣(検討中)
そしていたづら16を捕獲した副産物も冷凍庫に眠っている。
参加者募集中。1000円程度の会費が必要。
これらを使って盛大に反省し、新たな計画を立て、新しい仲間を迎えよう。
堂々川の整備清掃作業、春夏冬こつこつ秋きないで前に進めましょう。

はね踊り

2013-10-15 20:24:21 | Weblog
今日の話は9月28日にブログ化した金山の続きだ。
多分この記事を書くために、いやハネ踊りを見るために
何人の人に無理を頼み、紹介をしてもらったか。

10月13日 旧三谷村の出来事だ。
一時期千人以上の人々が暮らした金銀銅を産出する村、今では二百人以下の谷あいの集落。
そこに明治から伝わる喧嘩おどりを改革して優雅で力のある踊りにして
約二時間多少休憩ははいるが頑張る人たちがいた。


下三谷地区の人々


そばの花が満開、地域そば皆のためにもうすぐ出発、踊りの開始。
一見若そうだが白髪が見える人もいる。


道いっぱいの行進


ダイジョウブまず車が来ることはない。


上三谷の踊り隊も来る


鬼、今日の主役はこの鬼か?
小さな女の子を取り囲んで泣かしてしまった。



母親も笑いながら泣く子を見ている。(写真を撮ってもよいか・・・OKを貰った)
昔の喧嘩踊り時代の大太鼓?地域の名前が見える。



こらこら。また泣かすのか。


子どもがトラウマにならないと良いが
心配するのは私だけか!


上、下三谷の踊り奉納隊が集合して三谷村荒神社でハネを奉納する。





わずかの休憩ですぐにハネがはじまる。お酒は皆さんいただいている。



かなり激しい踊り、リズムはいくつもあるようだ。

また鬼が小さな子にちょっかいを出す。



これは注意が必要と思ったが
この子を抱いているのはダリヤ



昔から鬼に泣かされたら無病息災、風邪もひかないと云う言い伝えがある。
今度女の子を抱いていたのはお父さんだった。

花と歴史

2013-10-12 11:47:42 | Weblog
石積砂防堰堤の砂留、江戸時代から現在まで嵩上げ、整備を続けており、
砂留として機能しているものでは規模もスタイルも日本一である。
中条小と御野小の生徒が不法投棄やポイ捨て防止のために植えてくれたヒガンバナ
今年植えた球根にしては紅白そろって沢山咲いてくれた。


西側が白、東側が赤


この場に紅白のヒガンバナを植えたのには理由がある。
これから歴史を調べたので報告をする。


潼々谷餘滴碑


この碑には3つの意味が隠れている。
一つは砂留の築造を始めた推定年代1738年?
潼々谷餘滴の文字はわかりにくいがこの文字は
明治2年に徳川幕府の土地は版籍奉還で明治政府が国有化した。
その後明治5年 太政官布告第50号で政府は私有権を認めた。
明治6年同114号により地所名称区別によって官有地・民有地の区別が明確になった。
民有地になると隣地と境界争いが起こる。


どこも山頂に村境石がある


堂々川の6番砂留上にあるこの碑が下御領村と西中條村の裁判に判決で決定した境である。
がこの結果が出たのは明治26年であるから約15年間尾道の裁判所で争われ、
その裁判記録が本になり、潼々谷餘滴の名がついている。


裁判記録の名が残る


この碑に刻まれている歌、
「安邦の海は彌砂の海になりにけり 川とは見えず埋る砂留
年々にかく埋も来て行く末は いかにやならんせくすべもなみ」
歌の作者は不詳とこの歌の出展と思える「西中條村誌」に記載されている


明治15年発刊 金尾直樹さん著


西中條村誌を読むと確かに作者不詳と書かれているが
この歌は金尾さんが作ったものと私は思っている。
例えば福山八景を歌ったものに同じ「安那の海」で頭だし歌があるが内容は似ている。
その歌は「安那の海は 島とたたえし しとみやま なみかせたたぬ 月を見るかな」

さて、碑の歌の読み方であるが
神辺図書館に問い合わせたところ振り仮名を振ったものが1件あるとのこと
「やすなのうみは いやすなのうみに なりにけり・・・」
出だしの部分が575の歌になっていない。
安那の読み方 やすな?あな?
安那・・穴・・婀娜(あな 古代の国名の名)婀娜から変化して安那になった経緯がある
海・・うみ? み?

私はこの頭の部分を 「あなのみは」と読んだ

次に彌砂の読みだが



堂々川の隣の川、深水川の中流にある谷これを中条では「いやすな」と読んでいる。
中条内でも2通りの読み方がある。「ヤダニ」「イヤダニ」

これにも色々な説があるが
この谷の近くに菖蒲城と云う山城があった。
その菖蒲城では合戦で使う矢をこの谷から採って作っていたようである。


矢に適した女竹が今でも豊富


矢を採る谷と云うことから室町・戦国時代からヤダニと読んでいた。
その説から彌谷は「やたに」と読んだ。

あなのみは やすなのうみに なりにけり

読めた。いやだにと読んだ人「いやだね」

このブログの最初にもどり、裁判の結果は下御領村―結審時御領村ーの意見は通らず


当時としては珍しい3次元の模型も作っているので
はいそ・・はいそうですとはいえない


補足をしておくと、この模型を現在でも保管している家は堂々川の1番砂留のすぐ下
迫山砂留を明治に築造する際の指揮を取られた人の子孫

アツチこっちとウロウロしたが結論
6番砂留の碑はこの地域のほとんどの村境石が山の頂上にあったが
この場だけは川の中央で決着している。
よって村境石は存在してなかったが堂々公園を昭和55年作った際に今は昔と築いたのだろうか。
最後の締め
中条小は白の彼岸花を植栽、御野小は赤の彼岸花を植栽。
昔源平合戦で源氏は白旗、平家は赤旗を掲げて戦い、源氏が天下を取った。
よってその歴史から山の上の境石があるはずの中条が裁判に勝訴したので白花、
敗訴の御野が赤花として植えたがこの歴史を子供たちに話したら
源平合戦・・・シラン
源氏に平家・・わからん
備後弁はよくできていて、おぼろなランの話で終わることが出来た。

秋のたわごと

2013-10-09 20:51:43 | Weblog
台風24号が来る前、金・銀木犀の花は少し強めの風に吹かれて
面白いように花を散らして地面の色を変えた。


金色に染める

銀色に染める


以前ほど香りはしなくなったがまだ残りの花が香っている。
後で述べる話で小学校を訪問した際子供たちにいも掘り体験をさせたらどうでしょうかと
校長先生に話をしたら是非にと云うことになったので早速芋を掘り、
何時掘るか日程を決めることになった。


備後自然栽培研究会の会長と
安納芋を試掘する


焼き芋にするには丁度良い大きさだ。
低学年の小学生がサツマイモ掘りに来ることになった。
いつの間にかこの会の役員兼コンサル兼広報まで担うようになっている。
用事を云われないうちに逃げるが勝ちと思っているが上手く逃れられるかどうか?

オリンピックが終わって、あれから半世紀、
アンタまだタダの仕事をするつもりと叱られながら遊びを探している。
相変わらず懲りない馬鹿な私です。
責任のない仕事、蝶と遊ぶのが最高だけれどいつまでも、
蝶が遊んでくれるとはかぎらない。


今日はツマグロヒョウモンの幼虫が来てくれたが!


今日のブログは昔の話が良く出るが
堂々川ホタル同好会は2006年4月発足以後から多くの人に会の中身を知ってもらうために
情報誌を会の定例会が済んだ後、実績と次の予定を書いて発行している。
2006年度の情報誌の名前「ホタル恋」はホタルよ来いと甘い期待の恋をかけてある。
この名前、あるブログ友のアドバイがあり付いた名前である。
今ではランクもトップクラスの人である。こんな人ともお付き合いが出来る幸せを感じている。



そして2年目、「ホタルン」
設立2年目と云うか1年目の3月といえば良いか
会の小学生が「ホタレンジャー活動」に応募、見事環境大臣特別賞をいただき
東京の環境省まで旅費、ホテル付きで6名参加した。
ルンルン気分が頭の中にありついた名前。



3年目、「黄色い光に魅せられて」
3年目となると堂々川でもホタルの飛翔数は多くなり、季節の6月には
多くの人が見に来てくれるようになった。
つまり、ホタルの光に会員も近郊の人も酔い始めた。
お年寄りを民生委員と共同企画で夜、招待した。
お年寄りはホタルの光になぜか郷愁を持ち「見たい行きたい」
が募っていたので良い企画になった。



同好会の会員も100人を超えた時代だった。
2009年「ホタルと花と環境と」
この年あたりから環境と云うジャンルが会を引っ張る人の中に生まれたと思える。
が残念なことに当時のコピーが出てこないので今日はここまで!
堂々川ホタル同好会の昔を思い出して新しいことを産みだそうと努力しているが
まだまだこの頃の考えは素人の域を脱していなかった。
でもヒガンバナを植え始めたのはこの年であった。
それを花で例えれば


ゲンノショウコの花


現に証拠がこの赤花と白花がすぐ近くに咲く不思議
昔からよく云われている話、
ゲンノショウコは60ヘルツ地域は赤花、50ヘルツ地域は白い花が通り相場だが
この地には赤と白が10cmほどしか離れていない。
どうも今日の話がもつれている原因が分かった。この赤白が問題だったのだ。

蝶と雨

2013-10-06 22:29:43 | Weblog
秋の夕焼けは鎌を研げ、明日は稲刈りには良い日和と昔から云われてきた。


秋の夕焼け


反対に人間は明日雨の予感がしたら夕方から野焼きを始める。


野焼きで煙りがたなびく山裾


私の経験からすると雨は降らないはずだ。
だが翌朝7時台から雨が降り出した。
降り始めの5日7時から止んだ翌日1時まで総雨量は43mm。
備後神辺の今時期の雨量としては多い


雨に濡れたザクロ


雨に濡れるのを嫌がる蝶


ひらひら舞いながら止まる場所を探す


ここからは雨が降る前の様子
金木犀に比べるとやさしい香りの銀木犀



ツマグロヒョウモンの食草スミレには幼虫が8匹確認出来た。
前回はとかげの犠牲になったようだが今回は8匹確認出来ているから蝶の孵化は間違いなさそう。



他にもアゲハの幼虫が数匹、ウイキョウの枝にいる。



このままうまく蛹、成虫と変態していけば大きな蝶の楽園になるのだが!
ところで堂々川では最後の花となる黄色のヒガンバが30本ほど満開のようだ。
黄色は思わぬ綺麗
そのせいだろうか、14株盗掘された。
綺麗には蝶がやってくる。かなり疲れていたが手を出したら手に載ってくれた。




手乗り蝶


ブログ友の中には蝶の先生がおられる。このような光景をいやと云うほど見せつけられた。
遅ればせながら手乗りの仲間入りはできたが蝶の名前や生態などは足元にも及ばない。

連携

2013-10-04 09:12:27 | Weblog
10月祭りも近いと自然が知らせる。
秋の香りといったら金木犀でしょう。



秋の花といったらコスモスでしょう。



今年堂々川では3万本もの色とりどりのヒガンバナが咲いた。
多分最後の花色だろうが黄色ががんばっていいる。



堂々川にこのヒガンバナを4月26日に植えた小学校の3年生30人強と
保護者、地域の町内会有志が寒水寺古道を登ってくる。


古道の入り口

深水町内会有志が整備した道


寒水寺古道 昭和30年代まではこの道を通って中条地域の人はお寺へやって来ていた。
しかし堂々川側から車が通れる新しい道が作られると閑古鳥が鳴きけもの道になった。
整備された道に中条小学校の3年生が約30枚の案内板を取り付けることになり3日は
最終仕上げと堂々川へ植えたヒガンバナの確認にやってきた。



学校ではこれ以外にここ2年取り組んでいる神辺が産んだ江戸時代の日本一の漢詩詩人
「菅茶山」の漢詩を菅茶山がこの古道を通って寒水寺に来たことにちなみ境内で朗読している。



歌の朗読とオリジナルで作詩作曲された歌をささげて、本堂へ



本堂脇から南の空を眺めると天気が良ければ四国も見える



連携の3番目は


堂々公園へ


終わりになったヒガンバナの咲き具合を確認し、歴史を学ぶ。



今回の講師は悩んだ。
源氏と平家の旗の色を知っている。・・・・・しらん
それなら源平合戦は       ・・・・・わからん
当然村境石の事など分かるはずがない。
子供の回答の中に「おもてなし」の言葉が出る。
子供たちの言葉は裏ばかりで表が無い。・・・この話には保護者が笑う。
締めは今はやりの言葉・・・勉強するのは何時・・・今でしょう
笑いで歴史の話を終わらせたがこれが連携になっただろうか。



今日も1日が終わらんとする夕日。太陽柱を期待したが雲が邪魔して中途半端であった。