自然を尋ねる人

自然の素晴らしさ、豊かさ、人と自然の係わり合いを求めて!自然から私たちにくれる贈り物を見つけるために今日も歩く。

ホタル1号

2014-04-05 14:02:31 | Weblog
朝7時頃から我が家に鶯がやってきて約30分
鶯の鳴きとしては幼稚なホウホウ、キェキョと飛びながら鳴いて遊んでくれた。


動きが早くて証拠写真のウグイス
モミジの木


メジロが真似て鳴いているが、こちらの方が鳴きはまともで鳥らしい。


メジロ


ウグイスもメジロも鳴く木が違う。きちがい。道理でおかしい鳴き方だ。
散歩を兼ねて山の方へ。
手が鳴ったかどうかは別にして「ウグイスカグラ」が花をつけていた。


国分寺仁王門東

翅を開いてくれないと名前がわからない蝶もいる


今年もウグイスカグラの花の咲く時期かと考えていたら
携帯が鳴り、カタクリの花が咲いたと開花招待の案内が来た。


黄色のカタクリ

うつむく花


少し強引に持ち上げて上を向かすと花の中に桜が咲いている。
桜、先日ほぼ満開と思っていたが少し肌寒い4日、桜の開花はほとんど変わらない。
時々しぐれ模様の雨がぱらつく。
桜が満開過ぎた雨の夜にホタルは光りながら上陸する。
3日の夜はかなりの雨、もしかして上陸
夜を待って堂々川水系で1番早く上陸する場所へ


昨年も見た光景


三日月の闇に目が慣れてくるとホタルの光が二つ、三つ、
カメラを向けたら運よく光りが入ってくれた。


幼虫の光


光った場所へ電池を向けたら光らなくなった。
ホタルは怒り、光らなくなったらしい。
が電池はホタルの幼虫の姿を映し出した。


水辺を幼虫が這っている


幼虫の傍に水生昆虫がいる。
多分これはヒラタカゲロウの幼虫だ。
これから雨の夜になると観察する時間が長くなる。
年は考えて行動することにするが!

ゴミと桜と暈

2014-04-03 20:42:25 | Weblog
暈ってなーに! 
ハロ又はハローと呼ぶが余計に難しくなったかな。
気象現象なのだがまずはげんじつを見て欲しい。虹とか幻日の仲間なのだ。
(余談だがまさかチリで地震が起きるとは、以前にもインドネシアで地震が起きていた)


3日14時頃に見た暈


この暈が現れたら雨が降る。昔からよく言われているお天気予知に使う現象。

堂々公園を清掃している団体の責任者から電話があり、謝りのような言葉を戴いた。
この場所では老人会がグランドゴルフをしている。
以前からこの団体?のしぐさには腹が立っていた。
我々が川で作業をしているとき上から目線で笑ったり、スコア―シートが捨てられていた。
同じ年代なのにくどいようだが腹がたっていた。それが又スコアーが捨てられていた。
それのお詫びが
「拾ったゴミを袋に入れていたがカラスがつついて袋を破りそのゴミが下方へ飛んだのだろう」
と言われてカチンと来た。すでに2回は証拠がある。
ゴミを拾って置いた所へ行くと


花見客のゴミも含めて無茶苦茶


放置すると風で飛んで下流へ、下流へ飛べば同好会が拾うはめになる。
ここで拾うのも飛んでから拾うのも同じ、選別して拾い、軽トラックへ積み込んだ。
腰はいたむし、かなり気分を害したので電話の主に怒鳴りを入れた。




『あんたら―、市から委託費を貰い拾っておろうが、わしら―ボランテアじゃ、ええかげんにせーよー』
「拾うたら市へ取りに来てもらうよう電話ぐらいしてくれよ」
誰かが言わなきゃ改善はない。町内会の重鎮に少し言葉はきついがお灸を据えた。
多分後からのしっぺ返しはあるだろう。
その時はその時、気温20℃の桜満開の日に桜を見ない手はないと桜見物。
神辺町の桜の名所を案内する。

堂々川上流四季の森、ソメイヨシノ360本ぐらい。


多分現在の神辺ではNO1
花見客は少ない


同じ四季の森だが少し下流で江戸時代に作られた砂留がある淀が池東


道路から綺麗に見える

風が無い日は水鏡が綺麗


はるかかなたに見える対岸の桜、吉野山公園、昔のNO1の地


神辺城址


神辺湯野地区山王さん公園


花見客が多い


神辺旭高校の山土手



道上地区の亀山公園


この場にも花見団体客が楽しんでいた


福山市神辺地区のソメイヨシノの綺麗な場を紹介したが
福山には他に福山城、鞆後山公園、服部の大池湖畔ほか綺麗なところは沢山ある。

ソメイヨシノは約60年の寿命と言われる。
天狗巣病にかかり易いので短命、しかも種子ができても熟さず落下する。
短命故咲いた時は短い春を謳歌する、日本人好みの桜なのである。
ちなみに私はあまのじゃくだから植えた桜は八重桜が主で
10月櫻をサブとして堂々川沿いに植えている。
すでに100本近くになっているからそんなに長くない時期に
堂々川の桜とどうどう観光地宣言が出来るはずである。
それもソメイヨシノが終わった後にそれを見過ごした人のために植えている。
誰の傘の下にも入らない独自の道を進むことにしている。