「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「長楽寺」(ちょうらくじ)

2006年08月04日 23時29分49秒 | 古都逍遥「京都篇」
 「時雨をいとうから傘の 濡れてもみじの長楽寺」(頼山陽「京の四季」)

 古来より「洛中随一の絶景の霊地」として文人墨客に、その景観を愛でられ、文に詩に歌に、古くは「今昔物語」、西行法師の「山家集」、「平家物語」など、平安時代より崇められていた当寺は東山三十六峰の中心にあり、江戸時代の文人「頼山陽」がこよなく愛したところでもあった。
 当寺を取材したくなったのは、安徳天皇の御影と御衣幡箱が宝物されていると聞いてのことだった。安徳天皇は平清盛の娘、平徳子(建礼門院)と高倉天皇との間に生まれた子で、三歳にして即位するが、壇ノ浦の合戦で祖母に抱かれ入水、わずか八年の悲運な生涯であった。御影は遊んでいるあどけない姿が描かれ、それが哀れで切ない。

 文治元年(1185)5月1日、建礼門院は当寺で剃髪し、法名・真如覚とし仏門に入る(29歳)が、その年の3月に壇ノ浦で入水したわが子・安徳天皇が今わの際まで着ていた衣を御布施とし、自ら幡を縫い菩提を弔った。この幡(旗)を収めた箱は、織田信長の弟・有楽斎の孫である長好が寄贈したものだが、平家物語にも記される建礼門院の唯一の遺宝として安置されている。また、建礼門院の御影や像も見ることができる。

「今や夢 昔や夢と まよはれて いかに思へど うつつとぞなき」(建礼門院・大原寂光院にて生涯を奉げ、平家の菩提を弔った)。

 長楽寺は延暦24年(805)桓武天皇の勅命によって伝教大師(最澄)を開基として観世音菩薩を本尊に創建。古来勅願所として歴代天皇の加護を受ける。当時は天台宗であったが、室町時代に時宗(宗祖一編上人)に改まり、明治39年に時宗の総本山格であった七条道場「金戒寺」と合併した。
往時は現在の丸山公園を含む広大な寺域を誇ったと伝えられている。
 当寺のもう一つの見所は「日本外史」で知られる頼山陽の墓所がある。その墓に寄り添うように梨影夫人やその子三樹三郎の墓がある。
 頼山陽は安政9年(1780)~天保3年(1832)大阪で生まれた江戸後期の儒学者、詩人で、号を山陽三十六峰外史と称した。歴史書「日本外史」は幕末の志士たちにも影響を与え、明治維新の思想の原動力となった。東山が好きだった山陽の遺言で当寺に葬られた。

 交通:JR京都駅より市バス206番で祇園下車、徒歩5分。京阪電鉄四条駅より徒歩15分。


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