京都で名の知れた紫陽花の名所は、第一が宇治の三室戸寺、そして伏見鳥羽の戦いで新選組が陣を置いた所に近い「藤森神社」であろう。花の頃ともなれば、紫陽花の花か人の頭か分からなくなるほど境内は人で埋め尽くされる。
藤森神社は、社伝によれば、神功皇后摂政3年(203)、この地に纛旗(とうき)を立て、塚を造り兵器を納め祀ったのが祖とされ、一説には 紀氏の祖神が祀られているとも伝えられている。
蘇我氏の権勢の強い時代、この地を本拠としていた紀朝臣家はその風下にたっていたが、新興勢力の秦氏を押さえていたようである。しかし、大化の改新で蘇我氏の勢いが失われ紀氏も衰えを見せはじめ、この一帯は秦氏の支配する所となった。
延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。
東殿は天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。
藤尾の地は今の伏見稲荷の社地であったが、永亨10年後花園天皇の勅により将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し、藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われたという。
舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝の国政に参与し養老4年(720)には日本書紀を撰し、また、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれていたことから皇室藤原一門の崇敬厚く、貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉って官幣の神事が行われた。これが深草祭(現藤森祭)の初めである。
西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座。延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第二皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力を増してきたので、親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願し、出陣しようとしたところこれを伝え聞いて畏怖、たちまち乱は平定したという。延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中死去した。
不幸にして亡くなった伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して、二柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる三柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。
天喜3年(1055)9月、隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月に再建。
建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。その後、応仁の乱に社殿が兵火にあったため、小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。
本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に下賜されたもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。
本殿東方の石垣で囲まれた高壇に巨樹の切り株に注連縄が巻かれている「旗塚」があるが、これは八幡信仰の名残である。紀氏が石清水八幡を祀っていたので、武神として取り入れたのであろう。または紀氏に使えた秦氏が持ち込んだものとの説もある。
塚の上には「いちいの木」があり、今は枯れた株となっているが、かつては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛にご利益があったようで、新選組局長の近藤勇も腰痛に悩まされて足しげく「いちの木さん」に通っていたという話も伝わっている。本殿脇に「不二の水」と名づけられた湧き水があり、戦国時代には勝運を授ける水としてご利益があるとされていた。伏見の銘酒を生む地下水でもある。
藤森祭は毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。この日、勇壮な駈馬神事が行われ、さまざまな馬上妙技が披露される。
6月15日には紫陽花祭が行なわれ、3、500株の紫陽花が咲き乱れる。
所在地:京都市伏見区深草鳥居崎町609。
交通:京阪電車「墨染駅」下車徒歩5分、JR「藤森駅」下車徒歩5分。
藤森神社は、社伝によれば、神功皇后摂政3年(203)、この地に纛旗(とうき)を立て、塚を造り兵器を納め祀ったのが祖とされ、一説には 紀氏の祖神が祀られているとも伝えられている。
蘇我氏の権勢の強い時代、この地を本拠としていた紀朝臣家はその風下にたっていたが、新興勢力の秦氏を押さえていたようである。しかし、大化の改新で蘇我氏の勢いが失われ紀氏も衰えを見せはじめ、この一帯は秦氏の支配する所となった。
延暦13年桓武天皇より弓兵政所の宝称を授け遷都奉幣の儀式が行われた。
東殿は天平宝字3年(759)藤尾の地に鎮座。永亨10年(1438)藤森に合祀。淳仁天皇天平宝字3年深草の里藤尾の地に祀られ同時に舎人親王に対して崇道盡敬天皇と追贈した。
藤尾の地は今の伏見稲荷の社地であったが、永亨10年後花園天皇の勅により将軍足利義教が山頂の稲荷の祠を藤尾の地に遷し、藤尾大神を藤森に遷座し東殿に祀られ官幣の儀式が行われたという。
舎人親王は持統、文武、元明、元正、聖武の五朝の国政に参与し養老4年(720)には日本書紀を撰し、また、弓矢蟇目の秘法を伝えられ文武両道にすぐれていたことから皇室藤原一門の崇敬厚く、貞観の年(860)清和天皇の宝祚を奉って官幣の神事が行われた。これが深草祭(現藤森祭)の初めである。
西殿は延暦19年(800)塚本の地に鎮座。延応元年(1239)深草小天皇へ遷座、文明2年(1470)藤森へ合祀。早良親王は光仁天皇の第二皇子で天応元年(781)4月1日皇太子にたたれた。当時陸奥では伊治大領皆麿が謀反して朝命に服さず勢力を増してきたので、親王は立太子と同時に征討将軍として直ちに軍勢を催し当神社に詣で戦勝を祈願し、出陣しようとしたところこれを伝え聞いて畏怖、たちまち乱は平定したという。延暦4年(785)事に座して淡路に流される途中死去した。
不幸にして亡くなった伊豫親王、井上内親王の御霊が鎮まらないので淳和天皇の天長3年(826)正月5日に勅して、二柱の御魂を塚本の宮に合祀し官幣の御儀があった。西殿に祀られる三柱の神は斯く荒御魂神であられ朝廷の崇敬も厚かった。
天喜3年(1055)9月、隣地法成寺より火を失して塚本の宮も類焼したが、白河天皇勅して大納言能信奉行して承暦元年(1077)12月に再建。
建久3年(1192)後鳥羽天皇菅原故守をして官幣の儀があり。延応元年(1239)には藤原道家が塚本の宮を深草極楽寺南の地に遷して小天皇と称し祀った。その後、応仁の乱に社殿が兵火にあったため、小天皇の宮を藤森に遷して西殿に祀った。
本殿は宮中賢所の建物を正徳2年(1712)に下賜されたもので、現存する賢所としては最古のものである。その他重要文化財八幡宮社、大将軍社等の建造物がある。
本殿東方の石垣で囲まれた高壇に巨樹の切り株に注連縄が巻かれている「旗塚」があるが、これは八幡信仰の名残である。紀氏が石清水八幡を祀っていたので、武神として取り入れたのであろう。または紀氏に使えた秦氏が持ち込んだものとの説もある。
塚の上には「いちいの木」があり、今は枯れた株となっているが、かつては「いちの木さん」と呼ばれて腰痛にご利益があったようで、新選組局長の近藤勇も腰痛に悩まされて足しげく「いちの木さん」に通っていたという話も伝わっている。本殿脇に「不二の水」と名づけられた湧き水があり、戦国時代には勝運を授ける水としてご利益があるとされていた。伏見の銘酒を生む地下水でもある。
藤森祭は毎年5月5日に行われているが、この祭は、菖蒲の節句発祥の祭として知られ、各家に飾られる武者人形には、藤森の神がやどると伝えられる。この日、勇壮な駈馬神事が行われ、さまざまな馬上妙技が披露される。
6月15日には紫陽花祭が行なわれ、3、500株の紫陽花が咲き乱れる。
所在地:京都市伏見区深草鳥居崎町609。
交通:京阪電車「墨染駅」下車徒歩5分、JR「藤森駅」下車徒歩5分。