南禅寺の南側の参道を右手に入った所に、南禅寺の塔頭の一つである天授庵がある。当庵は、南禅寺第15世の虎関師練が暦応3年(1340)光厳上皇の勅許を得て、開山第1世の無関普門(大明国師)を祀る開山塔を建立したのが開創。
明徳4年(1393)と文安4年(1447)に焼失、さらに応仁の乱で荒廃したが、その後玄圃霊三の代の慶長7年(1602)に、霊三の法嗣雲岳霊圭が細川幽斎の妻光寿院の甥にあたることから、幽斎の援助を得て再興、以降細川家菩提所となった。客殿(国宝)はこのときのもので、表門(勅旨門・国宝)も細部様式からその頃の建築と考えられる。
客殿は、六間取方丈形式の建物で、当初は仏間の背面に奥行一間の眠蔵が設けられていたものと考えられ、またつき止め溝を用いるなど、平面や細部に中世の伝統的な様式がみられる。室境の襖障子のうち、室中16面と上間及び下間各八面と細川幽斎夫妻像は長谷川等伯の筆になるもので、重要文化財に指定されている。
この客殿は、近世初頭における禅寺塔頭の典型的な客殿建築として価値は高い。また表門は、慶長再興の一貫として建築されたもので、その意匠もすぐれている。
庭園は本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分れ、東庭は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳が軸として配置されている。書院南庭は庭園構成として地割の上から見ると鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。庭園に設けられた東西大小の2池には出島が作られ、それぞれを巴形に組み合わせたうえで区切り、東池を西池より小いさくし堤を設けたもので、東池瀧組附近には暦応四年の創建当時に作庭されたとされる石組が残る。西池に蓬菜島を設け石橋を作るなど明治初年に改造を行った為に一見すると近世庭園のようにも感じられるのだが、改造が地割にまで及ばなかったため南北朝の古庭らしい雰囲気が
残されている。
新緑の頃も心を癒すにふさわしい静けさがあり、紅葉のシーズンともなれば蓬莱山を覆う楓、東西の2池を紅で綾どられ目に痛いほど輝く。
所在地:京都市左京区南禅寺福地町
交通:市バス、東6番・東9番で蹴上(けあげ)下車、京阪電鉄京神線で蹴上下車、徒歩10分。
明徳4年(1393)と文安4年(1447)に焼失、さらに応仁の乱で荒廃したが、その後玄圃霊三の代の慶長7年(1602)に、霊三の法嗣雲岳霊圭が細川幽斎の妻光寿院の甥にあたることから、幽斎の援助を得て再興、以降細川家菩提所となった。客殿(国宝)はこのときのもので、表門(勅旨門・国宝)も細部様式からその頃の建築と考えられる。
客殿は、六間取方丈形式の建物で、当初は仏間の背面に奥行一間の眠蔵が設けられていたものと考えられ、またつき止め溝を用いるなど、平面や細部に中世の伝統的な様式がみられる。室境の襖障子のうち、室中16面と上間及び下間各八面と細川幽斎夫妻像は長谷川等伯の筆になるもので、重要文化財に指定されている。
この客殿は、近世初頭における禅寺塔頭の典型的な客殿建築として価値は高い。また表門は、慶長再興の一貫として建築されたもので、その意匠もすぐれている。
庭園は本堂前庭(東庭)と書院南庭とに分れ、東庭は枯山水で正門より本堂に至る幾何学的な石畳が軸として配置されている。書院南庭は庭園構成として地割の上から見ると鎌倉末期から南北朝時代の特色を備えている。庭園に設けられた東西大小の2池には出島が作られ、それぞれを巴形に組み合わせたうえで区切り、東池を西池より小いさくし堤を設けたもので、東池瀧組附近には暦応四年の創建当時に作庭されたとされる石組が残る。西池に蓬菜島を設け石橋を作るなど明治初年に改造を行った為に一見すると近世庭園のようにも感じられるのだが、改造が地割にまで及ばなかったため南北朝の古庭らしい雰囲気が
残されている。
新緑の頃も心を癒すにふさわしい静けさがあり、紅葉のシーズンともなれば蓬莱山を覆う楓、東西の2池を紅で綾どられ目に痛いほど輝く。
所在地:京都市左京区南禅寺福地町
交通:市バス、東6番・東9番で蹴上(けあげ)下車、京阪電鉄京神線で蹴上下車、徒歩10分。