「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「東本願寺」(ひがしほんがんじ)

2006年08月23日 18時47分45秒 | 古都逍遥「京都篇」
 京都というよりも日本全国で知られている本願寺は、元々は東山の麓の大谷にあって、親鸞聖人の遺骨と御影像を六角の小堂に納め、「廟堂」(びょうどう) 「御影堂」(ごえいどう) と称していた。
 その敷地に居住して御影に給仕し、堂をまもる役は、親鸞の息女・覚信尼の子孫に委ねられ、後に親鸞の曾孫・覚如上人(1270~1351)は、「本願寺」と改め、その住持についた。
 親鸞の教えを広く庶民の信仰にまで広めた第八代・蓮如上人(れんにょう・1415~99)の頃、大谷に五間四面の御影堂と三間四面の阿弥陀堂があったが、延暦寺衆徒が襲って破却した。その後、蓮如は越前吉崎に堂舎を建て、京都山科、大坂石山と本願寺を移した。

 織田信長の死後、一向一揆の対策のため、豊臣秀吉は本願寺に京都七条堀川の地を与え、1591年、御影堂と阿弥陀堂が移築整備された。1602年、徳川家康は本願寺第12代・教如上人に現在地の東六条に寺地四町四方を寄進、ようやくここに東本願寺が誕生した。東本願寺は正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)といい、「真宗大谷派」の本山である。
 東本願寺の両堂は江戸時代、四度の火災にあい、現在の建物はすべて明治期になってから再建されたもので、御影堂は明治28年(1895)に再建された世界最大の木造建築で、親鸞聖人の御真影が安置されている。正面の長さ76㍍、側面58㍍、高さ38㍍で瓦の枚数が何と175、967枚にも及ぶ。阿弥陀堂(あみだどう)も明治28年に再建されたもので、本尊阿弥陀如来を中心に、北脇壇には親鸞聖人の御真影を安置し、南脇壇に蓮如上人の御影が掛けられている。
 この二堂の再建工事が明治13年10月に始まったが、巨大な用材を搬出する際、死傷
者が続出したり、引き綱が切れたりした。そこで信者をはじめとする多くの女性たちが黒髪を切り、それに麻を寄り合わせて編み「毛綱」を作った。この祈りが天に通じたのか、それからの工事は順調に進み見事に完成させたという。その「毛綱」(長さ110㍍、太さ40㌢、重さ1㌧)が今も保存されている。

 京都三大門の1つである御影堂門(大門)は、明治44年(1911)に再建、楼上の正面には真宗本廟の額が掲げられている。堂内には、中央に釈迦如来、左に阿難(あなん)尊者、右に弥勒菩薩の三尊像が安置されている。
 東本願寺は正式には真宗本廟(しんしゅうほんびょう)といい、「真宗大谷派」の本山で、宗祖・親鸞聖人(1173~1262)が説いた真実の教えに生きんとする真宗門徒の帰依処(きえしょ)で、道を求める人々の根本道場となっている。

 親鸞上人と真宗再興の祖といわれる蓮如上人について少し触れておこう。
 親鸞上人は、平氏一門が栄華をきわめていた承安3年(1173)、宇治にほど近い日野の地に生まれた。
 父は日野有範(ありのり)。身分の低い公家であったが、のち隠棲(いんせい)した。母は、源氏の流れをくむ吉光女(きっこうにょ)であると伝えられていますが、定かではない。
 一方、蓮如上人は応永22年(1415)、存如上人(本願寺第7代)の長男として、京都・東山大谷の地で生まれる。当時の本願寺は参詣の人も少なく、さびれた状況であった。17歳の時、青蓮院で得度。上人は親鸞聖人の著書「教行信証」などをとおして求道と勉学に励む。
 43歳の時、父・存如が亡くなり本願寺第8代を継職。その後、近畿・北陸・東海などの地域で教化活動をして、念仏者を次々と生みだしていく。寛正6年(1465)51歳の、比叡山延暦寺の衆徒らによって、大谷本願寺が破却される。蓮如上人は、近江の堅田・金森の地を転々とし、文明3年(1471)、越前吉崎に坊舎を建立。この地で、
庶民にわかりやすくつづった「御文(おふみ)」によって民衆を教化した。後に山科本願寺で真宗再興に尽くし、85歳で生涯を終える。

 所在地:京都市下京区烏丸通七条上る。
 交通:JR京都駅より徒歩5分、京阪電鉄七条駅より徒歩15分。

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