「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

京都先斗町

2022年08月06日 17時38分10秒 | 日常のこと&写真

 閉じ籠りが続いているが、ふと祇園の夏風景が頭に浮かんだ。
祇園祭山鉾巡行が3年ぶりに開催され、後の祭りも終えて静かな京都になっただろうかと思ったりしていると、やけに「先斗町」が懐かしくなった。
仕事でも、家族とも、会社の同期達とも遊んだ京都そのものの街。祇園花見小路、宮川町、木屋町通、上七軒町、そして寧々の道から二年坂、三年坂など京都らしさの街でもある。
 そういえば、昨日紹介した「保険ライブラリー」に連載した「古都逍遥」に先斗町を紹介したことを思い出した。
2005年9月に掲載していた。
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「先斗町」(ポントチョウ)
  先斗町は北は三条通の一筋南より、南は四条通まで、東は鴨川にのぞみ、西は高瀬川に沿った木屋町通の間にあって、南北五百㍍余にわたる細長い街を称する、祇園とともに京都を代表する花街の一つである。
 もともとこの地は鴨川の洲であったが、寛文10年(1670)に護岸工事をおこなって石垣を築き、洲を埋め立てて宅地とした。まもなく人家が建ちはじめたが、これらはすべて川原にのぞむ片側のみで、あたかも先ばかりであったから、先斗町と呼ばれたという。
  一説によると「先斗」は、織田信長時代ポルトガルの教会が、この辺りにあって、ポルトガル語のポント(先端)・ポントス(先端・先が長いもの)によると言う説もある。この地があたかも、川原の崎であったから、そのころ世に流行した「うんすんかるた」などによって外来語をもじったものだろうともいわれ、諸説明らかではない。この地に水茶屋が初めてもうけられたのは正徳2年(1712)の頃といわれ、次いで文化10年(1813)に芸妓渡世が認められた。以来、幾多の変遷をみたが、祇園や上七軒(北野天満宮近く)とともに今なお隆盛を極めている。
 南北につらぬく道はきわめて狭く、紅殻格子の家が両側に建ちならび、東西に五十番まで数える大小の路地がある。新村  出博士の、『先斗町袖すりあふも春の夜の 他生の縁となつかしみつゝ』なる詠歌は、この細路で舞妓・芸妓さんとすれ違う風情を詠んだのであろう。
  また『かたむけて春雨傘や先斗町』(きぬ)、『相触れて春雨傘や先斗町』(常悦)、などと幾多の句にもうたわれた。祇園新地の如く格式ばらず、昔から庶民的なところがあり、それが好まれたのだろう。幕末の頃には諸国の浪士も多くここに遊宴し、幾多のロマンスの花をさかせた。
 先斗町歌舞練場は大正14年(1925)に着工し、昭和2年(1927年)に完成。設計は大阪松竹座(大正12年)、東京劇場(昭和2年)などを手がけて劇場建築の名手といわれた大林組の技師・木村得三郎。鉄筋コンクリート造り、地上四階、地下一階で、当時では「東洋趣味を加味した近代建築」と賞賛されたようだ。
 ちなみに私が20年数年来ひいきにしているフランス料理店「ナツカ」があるのもこの先斗町である。家族的なサービスと京風味のフレンチ料理は絶品で多くの人に奨めてきた。娘たちのに入学・卒業、就職、また婚約記念もここで行った懐かしい所だ。
昨今は京情緒あふれた老舗料理店が少なくなり、若者好みの西洋料理店や中華料理店、居酒屋風の店などが目立つようになったきた。
 夏になると鴨川べりに川床が設置され、暮れ行く東山をのぞみながら、煌く残照の川面の涼風も心地好く、京料理を楽しむ光景は夏の風物ともなっている。(※フレンチ料理店「ナツカ」は店じまいした)
 所在地:京都府京都市中京区先斗町 









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