3/7(土)は、JR九州ウオーキングでわが町を歩きました。花粉症対策でマスクを着用してのウオーキングです。
8:30 JR今宿駅をウオーキング仲間十数人とスタート。 今津橋を渡ると左側にコンクリート基礎部分が見えてきます。
今では、野鳥の休息地になっていますが、これは、昭和初期、毘沙門山から石を切り出し今山に運んでいたケーブルの跡です。 ここは、夕陽撮影のビューポイントです。
橋の右側には、江戸時代、筑前五ヶ浦廻船の一つ「浜崎港」があります。現在は、レジャーボートの停泊地になっています。
橋を渡り、しばらく行くと、左側に「カブトガニ産卵地」の看板が建っています。生きた化石と呼ばれるカブトガニは、夏至ごろ産卵にやってきます。
更に先に進むと「大泉坊 誓願寺」の幟が見えてきます。そこから右折し、しばらく歩き、左折します。突き当りが「誓願寺」です。
誓願寺は、筑前怡土(ちくぜんいと)・志摩(しま)両郡の荘園であった怡土荘の豪族仲原(なかばら)氏の娘の発願で、 安元元年(1175)に、渡宋のためこの地に赴いた栄西 1141~1215を招いて創建されました。
日本の臨済宗の開祖である栄西は、比叡山で天台の教義を学び、二度の渡宋により臨済宗を伝え帰ったことで有名です。日本初の臨済宗のお寺を福岡・博多「聖福寺」に建立しました。
栄西は、二度目の渡宋の前、宋版一切経(そうはんいっさいきょう)の渡来を待って本寺に十数年間滞在し、 その間に数々の著述を行いました。なかでも「誓願寺盂蘭盆縁起(せいがんじうらぼんえんぎ)」は、 栄西筆の書として国宝に指定されています。
本寺には中国の呉越国(ごえつこく)907~978年から分与された「銭弘俶八万四千塔(せんこうしゅくはちまんよんせんとう)」、 元からもたらされた「孔雀文沈金経箱(くじゃくもんちんきんきょうばこ)」など、対外交流を裏付けるものが多数伝えられています。 これらは、いずれも国の重要文化財に指定されています。(案内板より)
国宝の「誓願寺盂蘭盆縁起」は、九州国立博物館に所蔵されていますが、このお寺には、レプリカがありました。意味は、わかりませんが、さすがに達筆です。
誓願寺には、今津の中に、子院が42もあり、町内には、今もなお、「寺小路」という地名も残っています。
誓願寺を下りてくると、右側に「登志(とし)神社」があります。昔々、今津は、「登志郷」と呼ばれていました。朝日が昇ってくる場所という意味だそうです。(多分、可也山(糸島富士)から見て)
今津という地名で呼ばれるようになったのは、平安末期頃からで、博多津に代わる新しい港、すなわち「今津」です。瑞梅寺河口に位置し、怡土荘の入口でもあります。
また、平安末期には、博多津の宋人街が襲われたりして世相不安な所もあり、今津になったという説もあります。
その「今津港」ですが、江戸時代、筑前五ヶ浦廻船の一つでしたが、今では、その面影がありません。
登志神社の横には、「元寇殲滅之處」の記念碑が建っています今津には、元寇防塁が復元されています。
博多湾岸の東西に延びる史跡元寇防塁は、建治2年(1276)時の鎌倉幕府執権北条時宗が、当時世界の大半を征服して世紀の英雄といわれた元の国王フビライの日本襲来に備えて
文永の役(文永11年・1274)直後九州の諸武将に命じて築かせた石築地(いしついじ・防塁)である。その高さは1.8メートルないし3メートル、幅1.8メートルないし2.4メートルあったといわれ、
東は箱崎地蔵松原から西は今津長浜にいたる延長20キロメートルにおよぶ大規模なもので、2度目の弘安の役(弘安4年・1281)には、この防塁が、わが国の防衛上大きな貢献をなした。
石築地は、わが国の歴史上からはもちろん世界史上からも重要な史跡である。
ここ今津は、日向、大隅の両国の担当でした。また、蒙古の兵士を供養した「蒙古塚」は、志賀島が有名ですが、ここ今津にも野の花学園の敷地内にあります。
JA福岡市今津支店では、福岡産イチゴ「あまおう」の試食がありました。今津は、砂地で昔からイチゴの栽培が盛んでした。
今津は、郷土芸能として「今津人形芝居」も有名です。今津人形芝居は、歴史が古く、弘化元年(1844年)に今津・大原で若者の中に賭博を流行するのを抑えるため農村健全娯楽として始まりました。
それからしばらく空白の時がありますが、明治24年復活しました。今でも毎年10月ごろ記念公演を行っています。
今津干潟は、満潮の為、野鳥が観察できませんでしたが、絶滅危惧種「クロツラヘラサギ」、鴨、シギ、それに時々ではありますが、北帰行の時にコウノトリが羽を休めに来ます。
また、日の出の名所でもあります。
今日のウオーキングは、1000人以上の方がわが町に来ていただきました。満足して帰られたかな?