よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

楽しいウォーク「筑前木屋瀬(こやのせ)宿と旧長崎街道を訪ねて」(福岡県直方市~北九州市八幡西区)

2024-02-15 20:48:29 | ふくおかウォーキング協会

2/7(水) ふくおかウォーキング協会楽しいウォークは、「筑前木屋瀬(木屋瀬)宿と旧長崎街道を訪ねて」でした。

集合場所は、JR筑前植木駅。今日もここに来るまでは雨模様。参加者は30名。

副理事Kさんの話では、その昔、新幹線「筑豊駅」設置の為、筑前植木駅を新幹線側に移して小倉~博多間に「筑豊駅」を作ろうという計画があったそうです。

資金面などで頓挫し現在に至っているとのこと。

 

9:30 スタート。スタートするころは、雨も止んでいました。

 

遠賀川中島橋の所が、直方市と北九州市八幡西区の市境。

 

雨は、あがりました。橋を渡ると「木屋瀬宿」です。

木屋瀬宿は、長崎街道小倉から2つ目の宿場。街道と遠賀川の水運で栄えました。今でも当時を偲ぶ町屋が残っています。

 

   

こやのせ座で休憩。

 

  

休憩後再スタート

 

鏝絵のある旧家。「象」の絵は、は江戸時代長崎街道を歩いたからか?

 

 

 

常夜灯の横の白壁に「宿場踊り」のイラストが描かれています。

木屋瀬の宿場踊りは、享保年間(1716~1736)木屋瀬の人が伊勢参りをした時、その土産にと習ってきた伊勢音頭に、大名行列の供奴のしぐさや掛け声を取り入れて作ったものであると

いう説があり、“宿場踊”と称している。踊手は道中姿を連想させる扮装で、囃子は太鼓と三味線である。踊りの種類は並手(思案橋ともいう)、次郎左(みやこともいう)、

本手(本手は座敷踊りのため通常は踊らない)の3種類である。(博多祝いめでたという歌も原曲はこの伊勢音頭です)

男性には七つの形があり、これを鼻どり(掛け声えを掛ける者)がランダムに声を掛け踊るのが最大の特徴で、男性が主になった踊りで全国的にも珍しい踊りです。
女性は一つの形を優雅に踊ります。

1,お天気・・・お天気の様子を伺う表現、2,ひめじょ・・・女性の歩く姿を真似た姿を表現、3,三番叟・・・能や歌舞伎の三番叟を真似た姿を表現、

4,やじろべい・・・その鍛冶屋が大名行列の奴の仕草を真似た姿を表現、5,水棹・・・船頭が棹を使って船を漕ぐ様子を真似た姿、6,投網・・・網を巻き魚を捕る姿を表現、

7,うしろ・・・踊りの際に観客の女性を見るためおどけて後ろを振り向く姿を表現。

毎年11月に宿場祭りが行われ、そこでこの宿場踊りが披露されます。

 

船庄屋跡(梅本家)

江戸時代、木屋瀬には年貢米の積み出し所や渡し場がありました。遠賀川では「川ひらた」と呼ばれる川船がさかんに運航していましたが、年貢米を運ぶ権利を持つ川船を管理していたのが船庄屋です。梅本家は江戸末期24艘の預かり船庄屋で、当時は油屋(ヤマシモ)と号し、酒醸造業を営んでいました。明治に入って醤油醸造業に代わり、昭和10年代まで続いた家です。

 

 

旧高崎家(伊馬春部生家)

伊馬 春部(いま はるべ)… 1908-1984

劇作家・放送作家。本名高崎英雄[たかさきひでお]。木屋瀬(現八幡西区)生まれ。
旧制鞍手中学校から國學院大學に進み、折口信夫に師事。伊馬鵜平の名で新宿「ムーラン・ルージュ」創立期の座付き作家となる。戦後、NHK連続ラジオドラマ「向う三軒両隣り」が好評を

博し脚本家として活躍、放送作家の指南番的存在となった。一方でユーモア小説も手がけ、歌人でもあった。木屋瀬の生家は「旧高崎家住宅」として一般公開。

高崎家は屋号を柏屋▢(カネタマ)といい、本家柏屋▢(カネシメ)の7代目高崎四郎八(1795年~1865年)が分家して創立した家です。本家のカネシメは詩人、歴史学者として有名な

頼山陽(らいさんよう)が立ち寄ったこともある土地の豪商です。分家の創立時期や家督相続の時期は明確ではありませんが、少なくとも天保7年(1836年)よりは遅くない時期です。

四郎八は文政8年(1825年)から町年寄役を務め、翌年には大庄屋格に任ぜられています。カネタマは嘉永(1848年~1854年)の頃には板場(絞蝋業)を経営し、明治6年(1873年)頃には

醤油醸造業を営んでいました。

 

旧高崎家では、もう「雛飾り」が公開されていました。

 

 

 

 

旧高崎家から再スタート

村庄屋跡(松尾家) 木屋瀬には村庄屋、宿庄屋、船庄屋の三庄屋が置かれ、村庄屋は村全体の統括をしました。松尾家は屋号を灰屋と称し、問屋役・人馬支配役・村庄屋などを務めました。当家には江戸時代後期から明治初期にかけての木屋瀬宿駅、郡方、村方に関する貴重な資料が多数伝えられています。
この建物は江戸時代末期の建築で、木屋瀬を代表する町屋のひとつです。妻入りの入母屋つくり、漆喰を軒裏まで塗りこめた大壁つくりで、かつて二階に鉄格子付きの窓を設け、外側に防火戸を建てていました。居室部にはすり上げ戸が残っています。

  

長崎街道道標・・・「従是右赤間道、左飯塚道」と刻まれた道標です。西構口の外、道の分岐点に建っていました。
 赤間道とは博多方面に向かう道、飯塚道とは飯塚宿を通り長崎に至る道です。旅人が間違えないようにと建てられたのでしょう。二つの街道が枝分かれする木屋瀬ならではの史跡です。

直方藩・・・元和9(1623)年8月4日、福岡藩初代藩主、黒田長政は訪れていた京都で病没しました。その際、長男の忠之が本藩を継承し、三男の長興に秋月、四男の高政に鷹取を分知する

ことを遺言しました。すでに戦国の世は去り、鷹取城は不便な山城で城下も手狭であったため、重臣達は近隣を巡検し、当時「東蓮寺村」と呼ばれていた、現在の直方市街地に支藩の中心地を置くこと決めました。令和5(2023)年は、東蓮寺藩(のちの直方藩)が成立してから、400年の記念すべき年に当たります。

直方市教育委員会では、この機会に、直方にかつて「城下町」が存在し、様々な文化の中心地であったことと、現在もその時代の文化が継承されていることを多くの方々に知っていただき、

生涯学習の糧としていただくため、関連団体とともに9月から11月にかけて、さまざまな事業を実施します。

なお、事業の実施にあたっては、同時に成立した「兄弟藩」である「秋月藩」を抱える朝倉市と協力して、相互の「城下町」を紹介し、江戸時代の「東蓮寺藩」から「筑前国」の実像に

迫ります。

  

柴田丹兵衛の墓・・・参勤交代の帰路、木屋瀬宿の一行は、折からの大雨で遠賀川を渡ることができませんでした。日が経てばそれだけ経費が嵩むので、家臣の柴田丹兵衛が

渡れる浅瀬を見つけようと下境まで行って瀬踏みをしているうち深みにはまり、遺体が感田に流れ着きました。それを悼んだ土地に人は、墓を建て「大道勇信士霊位」と刻んで

弔いました。

  

筑豊電鉄感田駅の横には「阿高神社」があります。

  

この神社の由来は、「まんが」で書かれています。

コースは、日ノ出橋を渡りゴールの直方駅の方に向かいます。

 

12:00 ゴールの直方駅へ。