9/16(水)ふくおかウォーキング協会楽しいウォークで「九州歴史資料館と周辺文化財を訪ねて」に参加しました。
生憎、今日は朝から小雨。それでも42人の参加でした。スタートはJR原田(はるだ)駅。
原田駅前には、日本全国の測量をした伊能忠敬の銅像が建てられています。ここ原田駅前は、長崎街道の一部です。
9:30 スタート。雨の為、傘をさしてのウォーキングです。10分ぐらい歩くと「五郎山公園」に着きました。
五郎山公園は、五郎山古墳を有する公園です。
五郎山古墳は、
筑紫野市原田にある装飾古墳で、昭和22年(1947年)3月、盗掘坑が陥没したことにより石室の一部が発見され、同年11月に福岡県教育委員会によって発掘調査が行われた墳丘径約32m、
高さ5.5mの筑紫野市最大級の古墳時代後期(6世紀)の円墳です。石室は前・後の二室を持った全長11.2mの横穴式で、南西に開口しています。一番奥の遺体を安置する部屋(玄室)は、
長さ約4.5m、幅約3m、高さ約4mで比較的大きな規模です。盗掘によって副葬品はほとんど残ってはいませんでしたが、金環、管玉、勾玉、刀子、須恵器が採集されています。
五郎山古墳の最大の特徴は、石室内部の壁面に黒・赤・緑の三色の顔料によって彩色された具象画が描かれていることです。その壁画は武器(弓・靫ゆぎ(矢を入れる容器)・鞆とも
(弓の弦から手を守る防具))、人物(巫女・騎馬像・力士)、動物(犬・猪)、船、旗、家、太陽などの多くの図柄で構成されています。おそらく、被葬者の生前の様子、
あるいは黄泉の世界を表現したものと考えられます。このような古墳壁画は他に類例は少なく、非常に貴重な装飾古墳であると言えます。おそらく6世紀に筑紫平野を治めた地域の
豪族首長の墳墓であると考えられます。 現在では、国指定の史跡に指定され、「五郎山古墳館」とともに、内部の見学をすることができます。
五郎山公園を下りてしばらく歩くと、右側に大きな建物があります。「善隣教本部」と書いてありますが、善隣教は、まったく知りませんでした。
福岡県小郡市に入りました。雨はまだ降り続けています。小郡市は、昭和47年(1972)福岡県が「小郡・筑紫野ニュータウン計画」を打ち出したことで市北西部の丘陵地帯で
宅地開発が進み、人口増加につながりました。現在人口約58000人。余談ですが、私の先輩のお父様が一時小郡市長を務めておられましたが、残念ながら交通事故で他界されました。
三国の鼻遺跡は、現在の宝満川浄化センターから三国ヶ丘団地に広がっていました。遺跡は、弥生時代と古墳時代を中心とする複合遺跡で、中でも注目されるのは、弥生時代後期の
環濠集落と古墳時代前期の前方後円墳です。環濠集落は全長356mの巨大な環濠と竪穴住居群で編成されています。環濠は、最大幅4,5m、深さ2,3mで34軒の竪穴住居群を守るように
取り囲んでいます。環濠や竪穴住居の内部からは大量の土器、石器が見つかっています。前方後円墳「三国の鼻1号墳」は、全長66mの市内最大の古墳で造られたのは、4世紀中頃で
「津古生掛古墳」から始まる古墳時代前期の津古古墳群の最期を飾るに相応しい巨大古墳です。(案内板より抜粋)
コースは西鉄「三国が丘駅」に着きました。この三国というのは、筑前、筑後、肥前(対州領)と接しているから三国と呼ばれています。
因みに、九州は7つの県ですが、どうして九州と呼ばれたかというと、古くは、筑紫の国、豊国、火の国、日向の国と4つに分かれていましたが、律令時代、筑前、筑後、豊前、豊後、日向、
薩摩、大隅、肥後、肥前と9つに分けられましたので九州と呼ばれています。
三国が丘駅東口から構内を渡り、西口に出ます。
西口には、「三沢(みつさわ)遺跡」があります。
九州歴史資料館の東隣の丘陵は、三沢遺跡(みつさわいせき)という福 岡県の史跡に指定された弥生時代の集落遺跡です。弥 生時代のはるか2,000年前、この地に人々が生活し、周 辺の水田を耕し、
生活を行っていた痕跡が発掘調査で 明らかとなっています。 かつて小郡の三沢の地は風光明媚な行楽地で、近く のピクニックセンターには県内から多くの行楽客が訪 れ、
周辺に数多くある池ではカモ猟が行われ、三沢遺 跡の丘は福岡県種畜場の牧草地でした。 昭和40年代はじめ、九州自動車道建設に伴い、三沢 の地が道路建設の土取り用地の
候補地として選定され ました。それを契機として昭和45年(1970)に福岡県 種蓄場跡地の分布調査が行われて遺跡が確認され、そ の翌年の確認調査で、良好に保存された弥生時代の
集 落「三沢遺跡」が発見されたのです。 当初の予定では、土取りにより消滅することとなって いましたが、遺跡の保存活動は市民の間にも広がり、新 聞各社はその重要性や活動を報じました。
その結果、 発見された弥生時代の集落は、集落構造や当時の生活 様式を考える上で、非常に重要な遺跡であり、なおかつ 保存状態も良好であるとして、昭和47年に現状保存が 決定、
さらに昭和53年に福岡県史跡に指定され、永久 に保存されることが決定したのです。 その後、遺跡の周辺は宅地開発等により大規模に開 発されましたが、遺跡は自然豊かな森として
市民の憩 い、散策の場となっています。(九州歴史資料館展示物より抜粋)
この下に2200年前の「ムラ」が眠っています。
三沢遺跡を下りた所が「九州歴史資料館」です。ここで休憩します。
九州歴史資料館は、1973年(昭和48)に大宰府に開館。開館して30年以上経ち隣接地に「九州国立博物館」が開館することから2010年(平成22)筑後小郡レクセンター跡地に
移転しました。
15分の休憩の後再スタート。
歩いているとまた、遺跡の案内板がありました。
一ノ口遺跡 南北450m、東西190mの大きな独立丘陵地に位置していました。多くの弥生時代の集落が存在する三国丘陵の中でも中心となる集落でした。
弥生時代前期後半から中期前半(約2200年前)の竪穴式住居119軒、貯蔵穴278基、建坑228基、堀立柱建物跡4棟、道状遺構4条、棚列状遺構などが見つかりました。
道状遺構の一つは全長約600mの大規模なもので途中に門が存在したことが考えられます。その南側斜面には集落の内部と外部を隔てる棚列のあとと考えられます。
柱状群が確認されそれに囲まれた2棟の堀立柱建物群は、物見櫓の可能性も確認されています。当時の地域社会が集落への出入りを監視しなければならないような緊張状態にあったことを
知ることができます。貯蔵穴からは、炭化米、栃の実、猪の骨の他、海産物のカキ、オキシジミなどが多く出土しています。これらの貝類は有明海から持ち込まれていたと考えられ、
当時の経済活動の広さをうかがわせます。弥生前期から中期にかけて村落共同体が発展し、「クニ」になる前の段階の社会を表す集落遺跡として非常に注目されています。
(平成23年11月 小郡市教育委員会)
私は、小郡にこんな大きな弥生遺跡があるとは、知りませんでした。弥生遺跡として有名なものは佐賀県吉野ヶ里遺跡ですが、この小郡から吉野ヶ里までは約25kmです。
昔は吉野ヶ里との交流もあったのではないでしょうか?
※(参考)クリックしてください 吉野ヶ里遺跡
11:48ゴールの佐賀県けやき台駅に到着。
今日は雨が降っていたので急ぎ足のウォーキングでしたが、機会があれば、もう一度この遺跡群をゆっくり廻りたいと思います。
今日のGPSです。
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