6/17(水)曇り。九州オルレ八女コースに挑戦しました。
八女(やめ)という地名は、日本書紀にある「この地方に女神あり、その名を八女津媛といい常に山中にある」の一節が八女という地名の由来と伝えられています。
このコース、パンフには、「茶のくにを感じながら、八女丘陵の古代文化に触れる」がキャッチコピーです。
八女には、何回かウォーキングで来ていますが、それも皆、八女市街地周辺です。子のオルレは、大茶園や歴史で習った「筑紫君磐井の乱」の磐井の墳墓がある「岩戸山古墳」を巡るコース
ですので楽しみです。車をゴールの岩戸山古墳に置き、西鉄バス、堀川バスを乗り継ぎスタートの上山内「山の井公園」に移動します。
山の井公園には、「中島内蔵助満幹翁之碑」があります。彼は吉田庄の庄屋の職にあり、洪水で悩まされていた住民を救おうと1651年(慶安4)山の井堰建設にあたり尽力されたそうです。
その横には水の神様「水天宮」があります。また、この地は山の井川と星野川の中州にあり、変則中学中州校がありました。
9:40 山の井公園スタート。まず童男山(とうなさん)古墳に向かいます。
童男山古墳は、直径約48メートルの大型円墳です。昭和31年に県の指定を受けました。主体部は複室の横穴式石室です。玄室には凝灰岩製の巨大な石屋形があり、中にはくり抜きの石棺が
納められています。6世紀後半〜末頃のものと思われます。地元では古来から、中国から渡来した徐福の墓という伝承により旅の安全祈願の対象になっています。
また一方で、童男山(とうなさん)という名称から耳の神様として祀られてきました。(八女市HPより)
童男山古墳から先へ進むと茶畑が見えてきます。これが八女大茶園かな?とマップを見ると大茶園はまだ先でした。
犬尾城址は、河崎城、犬尾篠山城、生駒城ともいわれました。鎌倉時代初期黒木助能の嫡男河崎三郎定宗が築いたといわれています。黒木氏は大友、龍造寺と主を替えるも
天正12年(1584)大友氏により黒木氏が滅ぼされるが、河崎氏は、島津と手を結び犬尾城に居城しました。天正15年(1587)秀吉の九州征伐で城主河崎鎮則は、秀吉に抵抗したため
改易となり犬尾城は廃城となりました。
犬尾城址から下りてきます。
スタートしてから約1時間後「八女中央大茶園」に到着しました。70haの敷地の中に一面の茶畑が広がります。
1969年(昭和44年)~1973年(昭和48年)県営パイロット事業として103haの山林を開発して作られた茶畑です。
新緑の頃来ると一面グリーンで覆われることでしょう。
展望台では、「五社神」があります。
展望台からの眺望です。天気が良ければ長崎県島原、諫早の方が見渡せるそうです。
東海道を歩いた時、日坂峠でも一面茶畑がありました。この時も感動しましたが、八女の大茶園も感動ものです。
途中、オルレ逆コースを歩いている方にお会いしました。八女コースを往復するそうです。お歳を伺うと75歳と78歳でした。久留米の方です。凄いですね。
中央大茶園を下りていきます。RP4の所に「地滑りの為迂回願います」との看板が・・・・本来は、ここから右折するのですが、迂回の為直進します。
歩いているとこの八女茶が飲みたくて少しコースアウトになりますが、中央茶園の直売所に立ち寄ります。ここでは、冷茶用の八女茶を買いました。
試飲用に出してくれたお茶が美味しかったです。
一念寺:寺の裏山に赤穂浪士の一人「寺坂吉右衛門」の墓と伝えられる碑があるそうです。寺坂吉右衛門がどうして八女に???という疑問が浮かんできます。
寺坂吉右衛門について調べると、江戸中期,赤穂事件四十七士のひとり。名は信行,通称が吉右衛門。身分は赤穂藩の足軽(3両2分2人扶持)。加東郡奉行兼足軽頭で,大石良雄の相談相手の吉田忠左衛門に属した。実直・誠実な性格で重宝がられ,事件発生後は連絡係を務めることが多かった。元禄15年12月14日(1703.1.30)の「吉良邸討入り」に参加するが,泉岳寺の前あたりで消えた。諸所へ連絡のためといわれ,あるいは逃亡したかともいわれ,良雄,忠左衛門らの「かろき者の儀」という発言もあり,四十七士・四十六士説の分かれるところである。のち江戸に帰り,自首。御構いなしとされる。延享4年,江戸麻布曹渓寺の寺男として83歳で死去。その翌年「仮名手本忠臣蔵」が作られ,上演された。 (コトバンクより)
マップを見ると江崎食品に昔懐かしいラムネがあるそうで、立ち寄ってみました。ちょうどのどが渇いていましたのでホント清涼飲料水になりました。
丸山塚古墳にやってきました。
直径約33m・高さ約5.3mを測る大型の円墳で、本来は墳丘を取り巻く周濠・周堤が存在したと思われる。北側200mの所には、善蔵塚古墳と茶臼塚古墳(共に国の史跡)がある。
埋葬施設は両袖型横穴式石室で、全長8mを測り南に開口する。乗場古墳と同様、前室と後室に分かれた複室構造で、腰石に大きな石材を用い、上部には扁平の石材を用い割石積みをし、ドーム状に積み上げている。また、奥壁や玄室・前室の袖石には赤・黄・緑の三色により三角文・円文・蕨手文が描かれている。石室は保存のため調査後に埋め戻され、現在入ることは出来ない。
丸山塚古墳が造営された時期は、石室が複室構造であることなどから広川町の弘化谷古墳よりやや後出するものと考えられ、6世紀後半頃と推定されている。(説明文より)
マップには、ここから見える飛形山と八女市内の眺めが楽しめると書いてますが、飛形山ってどこだろう?
歩いていると茶畑に寒冷紗を付けているのがありました。これは、玉露を作っているのかな??
コースも終盤になりました。
福岡県立福島高校の少し先には「乗場古墳」があります。
岩戸山古墳から東方約300mに位置する2段築成の前方後円墳で、墳丘長約70m、後円部径約30m、高さ約5m、前方部幅約35mで前方部の方がやや低い。江戸時代の久留米藩の学者である
矢野一貞が著した「筑後将士軍談」の中に「吉田村奈良山」の名で登場し、石人残欠が存在していたこと、岩戸山古墳同様に周濠・周堤があったことが記されている。
主体部は複室構造の横穴式で、後円部南側のくびれ部寄りに開口部がある。大型石材を用いた奥壁や側壁、玄室の両袖石には赤・黄・青の三色により連続三角文・同心円文・蕨手文が
描かれている。保存のため公開はされていない。岩戸山古墳近くにあることから筑紫君磐井の子「葛子」の墓といわれています。(ウィキペディアより)
国道3号線に来ました。ゴールの岩戸山古墳は、もうすぐそこです。
岩戸山古墳は、八女丘陵は、東西 10数kmに及ぶ丘陵である。この丘陵上には、11基の前方後円墳を含む約300基の古墳が造られ、八女古墳群と呼ばれている。
古墳群のほぼ中心に位置する岩戸山古墳は、九州最大の前方後円墳で東西方向に墳丘長約135m、東側の後円墳径約60m、高さ18m、西側の前方部幅約92m、高さ約17mをはかり
周濠、周堤を含めると約170mになる。墳丘は二段構造で内部主体は未発掘の為不明。古墳の東北隅には、周堤に続く一辺約43mの方形の区画(別区)が存在していた。
岩戸山古墳は、日本書紀 継体天皇(527年)の記事に現れた筑紫君磐井の墳墓で、全国的に見ても古墳の造営者と年代のわかる貴重な古墳である。
古墳の墳丘・周堤・別区からは阿蘇凝灰石で作られた多量の石製品が埴輪と共に出土している。種類も人物(武装石人、裸体石人等)、動物(馬・鶏・水鳥・猪)器材(靭(ゆぎ)、盾・刀
坩(つぼ)・蓋(きぬがさ)・翳)があり、円筒埴輪などと共に古墳に立てられていた。石製品は埴輪、埴製(土)を石製に代え、更に実物大を基本とした所に特徴がある。(説明文より)
筑紫君磐井の乱:日本書紀によると、527年(継体21)6月3日、ヤマト王権の近江毛野は6万人の兵を率いて、新羅に奪われた南加羅・喙己呑を回復するため、任那へ向かって出発した
(いずれも朝鮮半島南部の諸国)。この計画を知った新羅は、筑紫(九州地方北部)の有力者であった磐井(日本書紀では筑紫国造磐井)へ贈賄し、ヤマト王権軍の妨害を要請した。
磐井は挙兵し、火の国(肥前国・肥後国)と豊の国(豊前国・豊後国)を制圧するとともに、倭国と朝鮮半島とを結ぶ海路を封鎖して朝鮮半島諸国からの朝貢船を誘い込み、近江毛野軍の進軍を
はばんで交戦した。このとき磐井は近江毛野に「お前とは同じ釜の飯を食った仲だ。お前などの指示には従わない。」と言ったとされている。ヤマト王権では平定軍の派遣について協議し、
継体天皇が大伴金村・物部麁鹿火・巨勢男人らに将軍の人選を諮問したところ、物部麁鹿火が推挙され、同年8月1日、麁鹿火が将軍に任命された。
528年11月11日、磐井軍と麁鹿火率いるヤマト王権軍が、筑紫三井郡(現福岡県小郡市・三井郡付近)にて交戦し、激しい戦闘の結果、磐井軍は敗北した。日本書紀によると、
このとき磐井は物部麁鹿火に斬られたとされているが、『筑後国風土記』逸文には、磐井が豊前の上膳県へ逃亡し、その山中で死んだ(ただしヤマト王権軍はその跡を見失った)と
記されている。同年12月、磐井の子、筑紫葛子は連座から逃れるため、糟屋(現福岡県糟屋郡付近)の屯倉をヤマト王権へ献上し、死罪を免ぜられた。
乱後の529年3月、ヤマト王権(倭国)は再び近江毛野を任那の安羅へ派遣し、新羅との領土交渉を行わせている。
以上のほか、『筑後国風土記』逸文には交戦の様子とともに磐井の墓に関する記事が残されている。なお『古事記』では袁本杼命(継体天皇)の没年を丁未4月9日(527年5月26日?)と
しており、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わないので、天皇は物部荒甲(物部麁鹿火)と大伴金村を派遣して石井を殺害させた、と簡潔に記している。
『国造本紀』には磐井と新羅の関係を示唆する記述がある。(ウィキペディアより)
13:53 八女コースゴールしました。ゴール横の岩戸山歴史文化交流館が無料開放されていますので立ち寄ってきました。この交流館には、岩戸山古墳、筑紫君磐井を中心とした資料や
墳丘や別区から出土した石製品や埴輪が展示されています。下記の写真は岩戸山古墳から出土した石製品です。※クリックしたら拡大します。
八女コースGPS
親戚付き合いはありません。以前は吉田に花火屋もあり、その人は月星に勤めていましたので、年賀状のやり取りをしています。
八女のことはよっくんさんに聞く方が良くなりましたね。よろしくお願いします。
岩戸山古墳入口の木工所はご親戚ですか?
私の八女はもう50年以上も前の事になりますので、今浦島の感じです。
有難うございました。