よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

九州オルレ唐津コース(佐賀県唐津市)

2020-04-06 14:14:22 | 九州オルレ

4/4(土)九州オルレ3回目。今回は唐津コースを歩きました。

車をゴール地の波戸岬に置き、バスでスタート地点の道の駅「桃山天下市」まで移動します。

このコース、秀吉が文禄・慶長の役で朝鮮へ出兵した時に築かれた「名護屋城址」、周辺に全国の各大名が造った陣地を廻るもので当時は130もの陣屋があり、

そのうち23の陣跡が国の特別史跡に指定されています。城の周囲には城下町が築かれ、最盛期には人口10万人を超えるほど繁栄しました。 歴史好きの方にはたまらないと思います。

9:30スタート。

 

森を抜け、最初に着いたのが「前田利家陣跡」。豊臣五大老の一人。8000人の兵を率いて参陣しました。名護屋城大手門から陣迄500mという位置からも秀吉と親密な関係が伺えます。

 

古田織部陣跡。利休七哲の一人として茶の湯を究め、侘茶を武家風に発展させた大茶人。

長宗我部元親は、土佐国浦戸城主。子の盛親とともに渡海して戦っています。石田三成(近江国佐和山城主)文禄の役では、船奉行として渡海し戦うが、明軍との和平交渉を進めました。

慶長3年増岡長盛らとともに五奉行となり、秀吉の死去に伴い慶長の役の処理にあたりました。

 

歩いていると昨年の大会での写真が飾られていました。写真をよく見ると歩友さんが映っていました。

稲葉重通陣跡(美濃国清水城主):美濃三人衆と呼ばれた稲葉良通の長子。弟貞通と共に文禄の役に参陣。弟は渡海し戦ったが、重通は、名護屋に駐屯し秀吉の話相手を務める御伽衆として

仕えました。長谷川守知陣跡(美濃長谷川藩主):初めは織田信長の家臣でしたが、本能寺の変以降秀吉の家臣となり、文禄・慶長の役では、軍役270人で参陣しました。

陣跡は、最も高い場所に長方形状の主郭があり、北面には、石垣が築かれその他は土塁で囲まれていました。

    

堀秀治陣跡(越前国北庄次いで越前国春日山城主):祖父秀重・父秀政は織田信長、秀吉の重臣として活躍しました。そのあとを16歳で継いだ秀治は、文禄の役では、6000人の兵を率いて

名護屋に駐屯、構えた陣屋は、10haを超す広大なもの、初めて陣地全域を対象とした発掘調査を行い、御殿、能舞台、茶室など重要な遺構を発見、大名陣屋の内部構造を示す好例として

保存公開しています。

 

   

先へ進むと「串道」という表示があります。名護屋から串浦に至る道で2つあり、昭和の時代まで使われていました。

  

木村重隆陣跡:文禄の役では軍役3500人で朝鮮半島に渡海し、晋州攻めに参加しました。

片桐且元陣跡:文禄・慶長の役では軍役200人で名護屋に在陣し、渡海の記録はありません。

 

名護屋城址が近くなってきました。

   

道中見つけたお花。

  

茶苑海月は、呈茶体験ができますが、今回はパスしました。

 

海月を過ぎると池の向かい側に名護屋城址が見えてきます。ちょうど桜が満開でビュースポットです。

  

名護屋城址:文禄・慶長の役(1592~98)の基地として豊臣秀吉の命により黒田官兵衛が設計した城で、当時は大阪城に次ぐ規模を誇ったといわれています。日本百名城の一つ。

  

天守近くには、正岡子規門の青木月斗が読んだ句碑があります。「太閤が 睨みし海の 霞かな

  

 

天守台を下りてきます。麦原集落にやってきました。通りは殆どが農家で車の通行も少ないので歩きやすいです。この集落に「炎向(ひなた)窯」があります。岸岳八窯を始源窯とされ、

古くより親しまれている唐津焼。秀吉が朝鮮出兵した際、連れてこられた陶工達により発展したとされています。(パンフより)

炎向窯では、イカの箸置きが作られていました。

  

波戸岬少年自然の家に来ました。ここから見る海の景色もビューポイントです。お昼を過ぎましたので道の駅で買ってきたお握りをいただきます。この景色がおかずになります。

  

休憩後再び出発。真田昌幸陣跡:軍役500人、16番衆として家康の他、奥羽諸大名の中に編成されました。

秋田実季陣跡:脇本城主安東愛季の次男、文禄の役では、安宅船の建造などのため、秋田杉を伐採、提供するなど大きく貢献しました。

上杉景勝陣跡:軍役3000人。一年余り名護屋に在陣のあと、文禄2年6月軍勢を率いて渡海。任務は朝鮮半島南岸の熊川(現在の韓国慶尚南道鎮海市)における城郭構築でした。

  

波戸岬キャンプ場です。ここから見える玄界灘の光景もビュースポットです。

遠くに玄海原子力発電所が見えます。

 

波戸岬遊歩道の途中に島津義弘陣跡があります。文禄の役では、義弘も渡海しており軍役人数はおよそ1万人とされている。渡海時には、国元からの船が到着せず賃船で釜山に渡ったといわれ、家臣の川上忠智に「日本一の大遅陣」と報じている。到着した島津軍は、釜山から北上し江原道で転戦、戦況の転換や講和交渉の開始とともに朝鮮半島南岸部に撤退している。慶長の役も再び朝鮮半島へ渡り、全羅道や慶尚道を転戦している。慶長三年(1598)の泗川城の戦いでは、義弘が守りを固める泗川城に攻め寄せた明国提督の董一元らの大軍を破り、続く露梁海戦では、朝鮮水軍の将李舜臣を破るなど戦果をあげた。現在の陣跡には、石垣や石塁、曲輪、虎口等が残っており、近年の発掘調査によって、主郭部北側や東側の虎口の様子も明らかになってきている。(名護屋城博物館HPより)

  

波戸岬遊歩道には、柱状節理の絶壁、玄界灘が一望できるポイントがあります。

  

 

海水浴場には、済州島のトルハルバン(石製のお爺さん)があります。2014年唐津市と済州市姉妹都市締結20周年を記念して済州市から寄贈されたそうです。

 

  

14:06 ゴールのサザエつぼ焼き屋台にゴール。所要時間は4時間30分でした。

完歩のご褒美にサザエのつぼ焼きをいただきました。

 

追伸:慶長3年(1598年)8月秀吉は62歳の生涯を閉じました。それにより日本軍の士気が衰え朝鮮半島からの撤退を余儀なくされました。

朝鮮撤退後、この地は寺沢広高の治めるところとなりました。関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602)、広高は唐津城の築城を開始しました。この際に名護屋城を解体し、その遺材を使用しました。

これ以降に、二度と城が利用できないように、要となる石垣の四隅を切り崩すなどの作業が行われました。これで約400年前に突如姿を現した巨大都市名護屋は、消えていくことになりました。

 

 

 


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