よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

唐津街道を行く№9(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:16:29 | 唐津街道

2月21日晴れ 唐津街道第4日目。
9時半、前回ゴール地の筥崎宮前に到着。
この街道も福岡市内中心部に入ってきました。
歩数計の目盛をチェックし、いざスタート。

筥崎宮の前からは、昔は一帯に松が植えられ、これが「千代の松原」と呼ばれていましたが、
今は、その面影もありません。
筥崎宮から100mぐらい行った所に道標があります。
地図ではここからが旧地名で那珂郡馬出村(まいだし)。
馬出という地名は、昔、宿場町から馬を出したのでこの地名がついたそうです。
因みにこの近くの吉塚は、筑後の豪族、星野吉実のお墓があったことから
「吉塚」とついたと何かの本に書いてありました。

馬出に入ると、右側に九大病院が見えてきます。
昔は、古い建物でしたけど、今、近代的な建物になっています。
私事ですが、子供の頃、叔母がこの馬出に住んでいて、夏休みなんか、
よく泊りがけで遊びに来ていました。九大病院の塀の前で従姉妹と遊んだことなど
今でも鮮明に覚えています。この塀当時のままでした。懐かしかったです。

その先を行くと、「日蓮上人銅像道」という石碑が建っています。
日蓮上人は、鎌倉時代、元寇で外国が攻めてくると予言しました。
このあたりは、文永の役(1274)で古戦場になったところです。
ここで街道を離れ、東公園へ。
東公園は、県庁が来る前までは、広い公園で野球場もあり、若い頃は、ここで
草野球をしたことがあります。
公園の中を歩くと「松原水」がありました。その説明文によると、
松原水は、「明治時代、博多部の井戸は水質が悪く、塩分濃度が高いため
飲用には適さず、千代付近に続く松林の千代松原の砂地から汲み上げた井戸水を
博多まで運んでいたがその水も人家の汚水で利用できなくなった。そこで明治29年
(1896)市設の井戸を設置、業者を通じて1桶(18*)1銭で売った。
この松原水と箱崎のおきゅうとは、博多の風物詩だったが、大正12年(1923)
上水道の完成で姿を消した。1900年大正天皇が皇太子時代来福した際、
この水を飲料水に御使用なられている。」

また、街道に戻り、崇福寺(そうふくじ)に到着。
このお寺の山門は、福岡城の本丸表御門が使われています。
お寺の墓地には、福岡藩黒田家のお墓もあります。
黒田家の墓地には入ることができません。
この墓地には、玄洋社(注1)、頭山満のお墓もあります。

再び街道に戻り、コースは千代の交差点へ。
街道では、ここから篠栗街道と交差しています。現在は国道201号線です。

その千代の交差点の所に「刈萱(かるかや)石堂丸地蔵尊」があります。
これは、高野山の「刈萱道心」の誕生地です。
刈萱道心のことは、浄瑠璃にもなっていますのでご存知の方もいらっしゃると思います。

この地蔵尊の道路を渡ったところの川の側に悲しい伝説の「濡衣塚」があります。
「昔々、聖武天皇(724~749)の時代、筑前守に任命された佐野近世という人物が
妻と娘の春姫を伴い、博多へ。長旅の疲れか近世の妻は異郷の地で亡くなり、
娘の春姫は、博多の毎日を泣き暮らしていました。
人々の勧めもあり、近世は再婚し、春姫の下に新しい母親が来ます。
ところが、この継母にとって春姫の存在は目障りでなりません。
ある夜、継母は一人の漁師を呼んで春姫が自分の釣り衣を盗んだと近世に
譫言(せんげん)させました。信じられないという顔の近世は、
継母に問いました。継母は何食わぬ顔で「そんなことはございますまい。
姫は寝所で寝ています。後妻の私が問えば角が立ちますので、あなたが
確かめに行ってください。」と答えました。
近世は慌てて姫の寝所に行き、灯りをともして部屋を見て、驚きの声を上げる。
寝ている姫の体の上にびっしょり濡れた衣がかかっています。
この地を預かる近世としては、怒りで気が動転し、手にした刀を寝ている姫
めがけて振り下ろしていました。
一年が経ちました。
近世は寝苦しさにうつらうつらとする中、枕元に一人の少女がたっているのに
気づきました。「濡衣の袖よりつたう涙こそ永き世までの無き名なりけり」
はっと眼を覚ました近世は、春姫が夢枕に立ち自分自身の潔白を訴えていたと
悟りました。姫のいじらしさに悔恨の涙を流した近世は肥前の松浦山で苦行積み
娘の霊を弔いました。そして博多に戻り、七堂(普賢堂、石堂、里の堂、辻の堂、
かやの堂、脇堂、瓦堂)を建立したといわれています。
また、無実の罪をかぶることで「濡衣を着る」という言葉は、この話に由来します。




※写真説明
左上、道標。ここより東糟屋郡と書いてます。左下、福岡藩黒田家墓所のある
崇福寺。右上、刈萱石堂地蔵尊、右下、濡衣塚

濡衣塚を後に、再び街道へ。
旧電車道を呉服町方面へ行きます。
その後川端へ。博多宿は、地図によれば、博多リバレーンあたりと書いてあります。
然し、リバレーンあたりは、ビルばかりで何も残っていません。
ビルを一回り廻ってみると、那珂川の側に「渡唐口跡」の石碑があります。
昔は、ここが博多の海の玄関口だったんです。
そういえば、この石碑の後には「鏡天満宮」があります。
ここは、菅原道真が、博多に最初に足を踏み入れた地点です。
博多宿は、他に見るところがないので足は福岡城に向かいます。(続く)




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