(その1)からの続きです。
要川公園から国道443号線を下っていきます。北関下バス停の手前の所に「カサ地蔵」があります。これは、江戸時代後期の建立で後光がカサを被っている姿に見えることから
カサ地蔵と呼ばれています。カサ地蔵の横には、田尻因幡守種貞供養塔があります。
国道の右側には、「松風の関」の案内板があります。近くで農作業をされていた方に聞くと、松風の関は、この旧道を登ったところにあるそうです。
そこから今度行く「はなたれ小僧」には行けるかどうか聞くと、場所が違うから戻ってきた方がいいといわれ、とりあえずその松風の関に行くことにしました。
松風の関は古代からの築後の国と肥後の国を結ぶ街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。 平家物語に「寿永二年・・・菊池次郎高直は都より
平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にうちこえて、・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。
寿永二年(1183)当時既に関所として菊池氏によってまもられていたこと、七世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うことがわかってきています。
その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしましたが、戦国時代の終わりに田中吉政が筑後国三二万五千石の領主として柳河城に入ると慶長六年(1601)、
ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。
松風の関から戻って再び国道443号線を歩きます。
はなたれ小僧は、国道の左側にあります。ふと看板を見ると、「真弓廣有公墓所」と書いてます。
「真弓」というと、地元太平洋クラブライオンズに入り、その後阪神タイガースに移り、最後は阪神の監督を務められた「真弓明信さん」を思い出します。
調べてみると、弓の名手隠岐次郎左衛門廣有は、怪鳥を弓で落としたということで真に弓を射るものとして「真弓」の名をいただきました。その後後醍醐天皇の息子「懐良親王」のお供で
九州へ下り、親王が亡くなると自分の任務も終わったと山里に入り、1369年その地で一生を終えました。その山里が「山川町真弓」です。
真弓選手も生まれは、熊本県南関町、育ちが大牟田市です。先祖は弓の名手でしたが、真弓選手は、バットの名手だったのですね。
「はなたれ小僧さま」は、テレビの日本昔話にも登場しました。説明文を見ると、
真弓に正直者の老夫婦がいて、山で刈った柴を南関の町に売りに行ったのですが、全然売れなかったので水神様へお詫びして、柴を川に流したところ、川から水神様が出てきて
「柴のお礼としてこの小僧様をあげよう。この小僧様は、エビナマスしか召し上がらぬ、願い事はなんでも聞いてくださる」というと、消えてしまいました。
気が付くと目の前に可愛い小僧さんがいましたが、鼻の下に汚いふたすじの鼻汁を垂らしていました。その小僧様に祈ると、欲しいものが何でも出てきて老夫婦は、大金持ちに
なりましたが、エビナマスをとることと、鼻汁が嫌になって、この小僧様を水神様に戻すことにしました。すると、今まで建っていた屋敷も蔵一杯の米も消えてしまって、もとのような
貧乏暮らしになったといいます。
この話に登場します水神様が出てきた底なし淵は、この看板の後ろ、水神様の祠は、真弓の釈迦院内にあります。また、おじいさんが建てた屋敷が地名(屋敷谷)として残っています。
それから小僧様の石像が造られたのを契機として「民話の里まつり」が大谷区で開催されています。(説明文より)
ここで少し休憩します。
休憩後再スタート。国道443号線から少し離れて九州道の方に向かいます。
九州道のガードをくぐると大牟田市に入ります。
大牟田市四箇湯谷と南関町関外目の県境には、「湯谷柳河領境石」が二つ立っています。古い方は江戸初期に建てられたものでそれが折れたため、江戸末期に建てられました。
ここを過ぎると、熊本県玉名郡南関町です。ここからまた「豊前街道」の標識が出てきました。
南関町は、筑後国と肥後国の国境という交通の要地に位置した街道の警備の拠点であり、現在の南関町の中心部近くには、関所と南関番所が置かれた(関所は、大津山の関、
松風(まつかぜ)の関とも呼ばれていたが、関所がおかれた正確な場所は、いくつかの説があり現在もはっきりしていない。福岡県山川町と南関町の県境付近に置かれていたという説や、
北の関と南の関の二つがおかれていたという説がある)。(ウィキペディアより)
大津山城 応永2年(1395)室町幕府4代将軍・足利義持からこの地を与えられた日野資基が京より下向して、大津山城を築き、大津山氏を名乗りました。約200年にわたって大津山氏が
支配しました。「木屋塚」とは、何かわかりません。
北原白秋生誕地(石井家住宅) 石井家は、北原白秋の母「しけ」の実家です。現在の柳川市に嫁いだ「しけ」は、実家に里帰りして、1885年1月25日北原白秋を産みました。
後にこの実家を訪れた白秋は、「春霞 関の外目は玉蘭(はくれん)の 花さかりかも 母の玉名は」と詠んでいます。この石井家は、2019年国文化財に指定されています。
現在、保存整備中ですので中には入れませんでした。
さて、ここから街道が高速道建設によってわからなくなっています。地元の方に聞くと、この先は山道になっていて、高速道の上を通った方が無難といわれ、高速の方に向かいます。
国道を歩いていると右側に産直店「いきいき村」があります。ここで休憩します。店内には、南関あげや南関素麺など南関の特産物が売られていました。
「南関素麺」は、250年の歴史を持ち、肥後藩主細川氏は、参勤交代の折、お土産として徳川家にこの素麺を献上していました。「南関あげ」は、大きいものは、30cmぐらいで日本一多きな
油揚げです。天草の乱の後、人口が減り四国松山から移住された人々から伝わったそうです。
「大津山公園」は、山頂に中世の山城(大津山城)跡があります。
南関町関東の信号を右折。
左側には、南関第一小学校が見えます。この学校の校歌は、北原白秋が作詞しました。
南関番所跡は、筑後国との国境として肥後藩に出入りする人々の検閲や取り締まりを行いました。
南関御番所跡の所から旧道を歩きます。
南関町御茶屋跡 南関御茶屋(御客屋)は、嘉永3年(1850)8月に起工して、嘉永5年(1852)正月頃に完成したもので、藩主が参勤交代する時や領内巡視の際に休憩、宿泊していたものです。
古文書によると、それまでの御客屋(南関町公民館付近)が古く狭い上に間取りが悪く、藩主休泊の時に混雑するという理由でこの地に建て替えが行われました。
財源の一部には富講の売上金が充てられました。
建物は、南北に長い造りで、北から御居間、御次の間、三の間と配されており、屋根には細川家の九曜紋をあしらった鬼瓦や軒瓦が葺かれております。通常御茶屋と御客屋は別々に
存在しておりますが、南関の場合はひとつの建物を御茶屋とも御客屋とも呼んでいたようです。
大政奉還後、国の所有となった御茶屋のほとんどは、小学校や役場などの公的施設として利用されていきますが、その反面、用途に応じた増改築等で御茶屋本来の姿を消していくことになります。
南関御茶屋の場合は、明治25年(1892)に個人の所有となり、「御茶屋跡」として大事にあつかわれ、建物は民家や料亭として利用されました。昭和3年(1928)7月18日には南関町にゆかりの
ある北原白秋の歓迎会がこの御茶屋で開催されております。
平成15年8月27日に国の史跡として指定され、同年より保存修理工事に着工し、平成16年度末、往時の姿を取り戻すこととなりました。(南関町HPより)
また、御茶屋跡の近くには、官軍墓地や鷹ノ原城跡があります。今回は時間の関係上パスしました。
中町の恵比須さんは、説明文を見ると、町屋敷にあり、中町の人たちが十月二十日夷講を行い、守ってきた。木像は恵比須像、豊玉姫像、石祠は寛政7年(1795)再建。
正勝寺は、室町時代1506年の創立で由緒あるお寺です。明治10年西南戦争の際、征討総督有栖川宮殿下が大本営を置かれた場所です。
北原白秋の素麺の歌碑 「手うち素麺 戸ごと掛け並め 日ざかりや 関のおもては静けかりにし」
南関の素麺作りの最盛期明治中期には、200を超える製麺業者があり、すだれのように長く伸ばした素麺干しの光景が数多く見られました。現在は、9軒の製麺業者が昔と変わらぬ
伝統の味と製法を守り続けています。
時計を見ると14時前。南関から瀬高には、直接行く交通機関がなく、一旦バスで大牟田に出てそれからJRもしくは西鉄で瀬高や福岡に行きます。
南関~大牟田間のバスは、土日用で1時間に1本です。調べると14:03に発車するようです。急いで西鉄バス南関営業所に行き、14:03の大牟田行のバスに間に合いました。
南関から大牟田駅までは約50分かかりました。
本日のGPS
次回は南関~山鹿を歩く予定です。山鹿に車を置いてバスで南関に行こうかと思っています。
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