3/16(水)ふくおかウォーキング協会の楽しいウォークは、「春の今津干潟鑑賞と史跡探勝」でした。
このコース、私の地元でいつも散歩している所です。
「今津」という地名は、博多津(博多港)に対して新しく開かれた湊(今津)です。
平安時代の仁平3年(1153)、大宰府官人層の政治腐敗を重視し、世情不安定の為、宋(現中国)からの船が博多津(博多港)を避けて今津に入るようになりました。
今津と呼ばれる前は、「登志(とし)郷」でした。「登志」というのは、可也山から見て朝日の昇る所という意味です。
集合場所は、JR九大学研都市駅、参加者は42名。
9:30 スタート。
今津橋から「今津」の町です。橋を渡ると右側に漁港があります。今は、レジャーボートが停泊していますが、ここが江戸時代、筑前五ヶ浦廻船「浜崎浦」があった所です。
筑前五ヶ浦廻船の説明は、下記をクリックしてください。
※No.384 筑前五ヶ浦廻船展2 | アーカイブズ | 福岡市博物館 (city.fukuoka.jp)
四所神社の前が、カブトガニ産卵場です。
先の玄海サイクリングロードで休憩します。
ここは、野鳥の宝庫です。この日は、満潮でしたので絶滅危惧種「クロツラヘラサギ」は見れませんでしたが、1週間前の下見の日には、3羽いました。
筑前五ヶ浦廻船「今津浦」は、埋め立てられてはっきりとした地は、わからなくなっていますが、だいたいこのあたりだったと思われます。
三角池 ここに野鳥が集まってきます。
下記写真は、この近くで以前撮った分です。
子供の村福岡、これは親の病気や離婚、育児放棄などさまざまな社会問題を背景に、家庭的環境を失った子供たちの救済および社会的養護、自立支援を目的としたもので、
国内では初の支援事業となりました。
今津運動公園に来ました。ここで休憩します。園内では、ルピナスがたくさん咲いていました。
休憩後再スタート。松林に入ります。松林から長浜海岸へ。
博多湾
この博多湾ですが、
13世紀の初め、チンギス・ハンは、アジアからヨーロッパにまたがる「モンゴル帝国」を打ち立てました。その後五代皇帝フビライは、国名を「元」と改め、日本に使者を送り
通交を求めました。然し、鎌倉幕府はこれに応じなかったため、文永11年(1274)博多湾に攻め込み、西部に上陸して九州の御家人たちと激しい戦いを繰り広げました。(文永の役)
今津地区の石塁の構造は、底部幅3m、天端幅2m、高さ3mに石を積み上げ、内部は石や砂で充填するものです。石材には、花崗岩や玄武岩が用いられています。
今津地区の工事は、大隅藩、日向藩が行いました。
幕府は、元の再度の来襲に備えて九州各地の御家人に命じて、建治2年(1276)3月から約半年間で西は、今津から東は香椎迄博多湾の海岸沿いに約20kmにわたる石塁地(元寇防塁)を
築かせ、その場所を警備させました。防塁は、各国の分担地区によってその構造が違いますが、石材は、近くの山や海岸などから運び、全体を石で築いたり、前面だけを石で築くなどの
工法が採用されています。防塁の高さは、2,5~3,0mほどと考えられます。
この今津地区は、大隅・日向国が分担して柑子岳(こうしだけ)の麓から毘沙門山の麓まで約3kmにわたり築きました。約3mの高さまで石を台形に積み上げています。
石は、西が花崗岩、東が玄武岩、中央は二つの石材が交互に用いられています。
弘安4年(1281)元は再び日本を攻めてきましたが、この元寇防塁や武士の元船への攻撃に阻まれ、博多の地には、上陸できませんでした。(弘安の役)
昭和6年(1931)元寇防塁は、国の史跡に指定されました。
昭和43年(1968)より復元工事が行われましたが、この時私もバイトで3日間工事をお手伝いしました。
野の花学園の敷地内には、「蒙古塚(もうこづか)」があります。
野の花学園から「勝福寺」に来ました。
勝福寺より来た道を引き返します。
12:10 JR今宿駅にゴールしました。
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