5月18日(水)京街道2日目。今日は、10:00に伏見桃山駅でJR九州ウォークで知り合った北九州出身「ポンさん」と待ち合わせています。
ポンさんとお会いするのは5年ぶりぐらいかな???
キザクラカッパカントリー カッパのキャラクターでおなじみ、黄桜株式会社の複合施設。
社名の由来は、社長が黄色の桜(淡く緑色のかかった白い花を咲かせるサトザクラの一種)を好んだことから。
黄桜とカッパの関係は、1955年(昭和30)に清水崑さんのカッパをキャラクターとして採用。ほのぼのとした雰囲気の崑カッパと誰にでも親しめるおいしい日本酒=黄桜 の精神に通じる
ものを感じブランドキャラクターとしての使用を申し入れた。崑さんがお亡くなりになったあと、1974年(昭和49)小島功氏がカッパを引き継がれて現在に至ります。
私が子供の頃、ちょっと色気のあるこのCMにドキドキしていました。(笑)確か、楠としえさんが歌っていましたね。
月桂冠は、寛永14年(1637年)、初代・大倉治右衛門が京都府南部の笠置から、城下町として発展し宿場町・港町としてにぎわう伏見に出て来て創業。2017年で創業380年になりました。
屋号を「笠置屋」、酒銘を「玉の泉」として酒の製造と販売を始めました。創業から250年ほどは、主に地元の人たちや、旅人を相手に商う小さな酒屋でした。歴代当主は家業に精励し、
明治の躍進期を迎えました。
明治38年(1905年)、勝利と栄光のシンボル「月桂冠」を酒銘に採用。明治42年(1909年)に大倉酒造研究所(清酒メーカーとして初の研究所)を創設、酒造りに科学技術を導入し品質の向上を成し遂げました。樽詰全盛の時代、びん詰酒に力を入れ、防腐剤なしのびん詰を本格的に販売、明治43年(1910年)には駅販用の「コップ付き小びん」が鉄道で採用されました。
東京市場への進出、洋式簿記採用により経営を近代化するなど次々と新機軸を打ち出し、酒銘が全国に知られていきました。
昭和36年(1961年)には、日本で初めて年間を通じた酒造りを行なう四季醸造システムを備えた酒蔵を完成。その後開発・導入した新規技術の活用と共に、高品質で多彩な酒造りを行なうもとになっています。(伏見酒造組合HPより)
湊川より寺田屋に向かいます。
【寺田屋事件】慶応2年1月23日(1866年3月9日)、坂本龍馬と三吉慎蔵が伏見の寺田屋に止宿中、伏見奉行所の捕り方に踏み込まれる、寺田屋襲撃事件が起こりました。薩長同盟締結直後の出来事
でした。伏見の寺田屋は、江戸時代初めからの船宿といわれます。伏見は京と大坂を結ぶ舟運で栄え、大坂から淀川を遡ってきた過書船が伏見港で荷揚げし、荷物を高瀬船に積み替えて
京都市中へ運ぶ中継地点でした。また過書船の中で最小の三十石船は旅人専用の船で、定員28名、水夫4人が乗り込んで、伏見と大坂八軒家間を1日2回、昼と夜に運航していました。
その船着場となったのが伏見の京橋で、船宿や旅籠が39軒も建ち並んでいたといいます。中でも大きな宿が6つあり、その一つが寺田屋でした。
寺田屋は薩摩藩の指定宿でもあり、大いに繁盛しましたが、幕末に2度、大きな事件の舞台となります。一つが文久2年(1862)春の、薩摩藩国父・島津久光の率兵上京の際に起きた、薩摩藩士の
同士討ちである「寺田屋事件」です。9人の藩士がここで命を落としました。当時、寺田屋にはお登勢という名物女将がいて、亭主を失って後、一人で宿を取り仕切っていたといいます。
非常に面倒見がよく、捨て子を育てたり、志士たちを匿ったりもしていました。坂本龍馬もお登勢を「おかあ」と親しみを込めて呼んだといいます。
龍馬は元治元年(1864)8月頃、お登勢に頼んで、恋仲の娘を宿に置いてもらいました。娘の名は龍。京都の医者・楢崎将作の娘で、将作の死後、一家離散の憂き目にあっていたところ、龍馬と
知り合ったのです。義侠心に富むお登勢はこれを快諾しました。お龍は住み込みの仲居として寺田屋で働くことになり、やがて龍馬を絶体絶命の危機から救うことになります。
慶応2年(1866)1月22日、龍馬は京都で幕末史の一つのエポックとなる大仕事を成し遂げました。犬猿の仲の薩摩藩と長州藩の手を組ませる「薩長同盟」の締結です。翌23日、龍馬は伏見の寺田屋に
戻り、成功を祝って、彼の護衛役である長府藩士・三吉慎蔵やお龍らと、2階の部屋で八つ半(午前2時頃)まで酒を飲み語らっていました。
異変にまず気づいたのは、お龍です。小宴も果て、風呂に入ろうとしていたお龍が、窓の外を見ると、宿を多数の提灯が囲んでいます。即座に彼女は着物もまとわずに2階に駆け上がり、捕り方に
囲まれていることを龍馬に報せました。当時、龍馬は要注意人物として幕府方からマークされており、新選組や京都見廻組、奉行所から狙われていたのです。
ほどなく、奉行所の捕り方が寺田屋に踏み込み、龍馬らのいる2階の座敷に向かいました。灯りを消した座敷を、捕り方の龕灯提灯が照らす中、死闘が始まります。部屋に踏み込んできた捕り方に
龍馬は短銃で、三吉は手槍で応戦、龍馬は左手に負傷しました。捕り方にも死傷者が出て怯んだところ、二人は闇に紛れて脱出。目指したのは、1kmほど北にある薩摩藩伏見屋敷でした。
寺田屋の200m北西に芸州浅野屋敷があり、その西側は濠川に面しています。龍馬と三吉は川を泳いで渡り、対岸の材木小屋に身を潜めます。材木小屋にたどり着いた龍馬は、出血と疲労で身動きができなくなりました。三吉はすぐに発見されるだろうから、潔く切腹しようと言いますが、龍馬はそれを制し、一人で薩摩屋敷に向かうよう勧めます。三吉は承知し、龍馬を残して救援を求める
べく北上します。空が少し白み始めた頃、三吉がようやく薩摩屋敷に駆け込むと、薩摩屋敷にはすでに危急が伝わっており、救援の手勢が出発していました。伝えたのは、お龍です。
彼女は寺田屋の2階に駆け上がり、龍馬に急を告げると、自分の判断で外に飛び出し、薩摩屋敷に駆けていたのです。見事な機転でした。
薩摩屋敷では留守居役の大山彦八が救援態勢を整えて、2人の行方を捜しており、三吉から龍馬の居場所を聞くと、藩の旗を掲げた船を仕立てて川を下り、龍馬を救出します。ちなみに大山は
大山弥助(巌)の長兄で、西郷吉之助(隆盛)の従兄弟でした。薩摩屋敷に保護された龍馬は、数日間、お龍の手厚い看護を受けて過ごし、やがて西郷のはからいで、3人は京都の薩摩屋敷へと移ります。そしてこの事件をきっかけとして、龍馬は命の恩人のお龍を妻に娶りました。 一つ間違えば凄惨な事件になるところでしたが、龍馬とお龍を結びつけた幕末のエピソードとして、多くの人に
好まれる話です。(WEB歴史街道より)
寺田屋女将「お登勢」は、近江国大津で旅籠を経営していた大本重兵衛の次女として生まれた。18歳で、伏見南浜の船宿である寺田屋の第6代目主人寺田屋伊助の妻となり、一男二女をもうけた。
夫伊助は放蕩者で、経営を悪化させたので、お登勢が代わりに寺田屋の経営を取り仕切り、姑の面倒も見ていた。伊助は(酒を飲みすぎとも言われるが)病に倒れて35歳で若死にしたが、
お登勢はそのまま女将として家業を続けた。
寺田屋は薩摩藩の定宿であり、文久2年(1862)には寺田屋騒動が起きて薩摩藩士が斬り合いを行なった際には、お登勢もその場にいて3歳の次女を竈に隠して帳場を守った。事件後、薩摩藩からの
見舞金が入り、使用人に命じて即座に畳や襖を取り替えて、営業できるように整えたと言う。
お登勢は人の世話をすることを道楽としており、坂本龍馬をはじめとする幕府から睨まれていた尊王攘夷派の志士たちを保護した。龍馬に託されたお龍は養女として扱い、お龍の母に仕送りまでしていた。
慶応2年1月24日(1866年3月10日)、寺田屋に滞在していた龍馬と三吉慎蔵が伏見奉行によって襲撃され捕えられそうなったことがあり、薩摩藩と伏見奉行との間で軋轢が生れ、薩摩側のお登勢も幕府から目を付けられて、危険人物と見なされて牢に入れられかけたこともある。明治10年(1877年)、死去。墓所は寺田屋に程近い伏見松林院。
寺田屋の中に「三十石船」の説明文があります。ちょっと古いので書いてみます。
「三十石船とは、江戸時代に淀川を上下した客船です。乗客は先ず船宿に入り、それから乗船していました。寺田屋も有名な船宿の一つでこの付近には、多くの船宿が並んでいました。
淀川は、平安時代以来船運が盛んで、豊臣秀吉、次いで徳川家康が過書船の制度を定め、運賃や営業に対し税を課すなどの取締りを行い、伏見大手筋には過書船番所を設けていました。
船の大きさは、二十石積から三百石積で数百隻が運行し貨物や旅客を運んでいました。その内三十石船は長さ17m、幅2,5m、船頭4人定員28名の旅客専用船で、上りは一日又は一夜、
下りは半日又は半夜で伏見と大坂天満の間を運行しました。船賃は江戸中期で約五十文、途中、枚方に立ち寄ります。そこでは、船客に「くらわんか」と声をかけながら餅を売りにきました。
そうした風俗や船内の様子は落語や講談、浪曲で有名です。尚、三十石船は明治4年(1871)に廃船になりました。」
寺田屋でポンさんと別れ、街道に進みます。
この伏見は、「鳥羽・伏見の戦い」の激戦地となった所でもあります。戊辰戦争最初の内乱。王政復古後、新政府内部において、討幕派は公議政体派を抑え、前将軍徳川慶喜(よしのぶ)に
辞官納地を命じた。慶喜は大坂に退いて主導権回復を策したが、討幕派の関東での挑発、攪乱(かくらん)工作にのり、江戸薩摩藩邸を焼打ちし、1868年(慶応4)1月2日、旧幕側は、幕兵、会津・
桑名両藩兵ら1万5000人を北上させた。新政府も、薩摩・長州両藩兵ら4500人を出し、1月3日、両軍は、京都郊外の鳥羽と伏見で衝突し、数では3分の1に満たないものの、装備と士気に勝る
新政府軍が幕府軍を1日で退却させ、6日に戦いが終了し、慶喜は海路、江戸へ逃れた。この結果、新政府内での討幕派の主導権が確定し、2月9日、慶喜追討軍が東征に向かうこととなった。
和菓子「駿河屋」の横には、「電気鉄道発祥地」の碑があります。明治28年(1895)京都塩小路~伏見下油掛間を日本最初の市街電車が走りました。全長6,7kmの京都電気鉄道伏見線です。
この年の勧業博覧会へ船で淀川を経て入洛した見物客を運びました。
この碑の横には「駿河屋」です。550年以上昔の室町時代中期の創業です。紅羊羹が秀吉に取り入れました。また、紀州徳川家とも関連があります。
堺にも系列店(現在廃業)がありましたが、堺店が歌人与謝野晶子の実家です。
店内で笹結びという和菓子をいただきました。おいしかったです。
伏見土木事務所の所に「伏見長州藩邸跡」があります。
幕末の元治元(1864)7月19日未明、長州藩家老の福原越後はここ伏見長州藩邸から武装した約500名の兵とともに、京へ進軍しようとしました。
その途中、伏見街道の稲荷付近から竹田街道を守る大垣・会津・桑名・鯖江の藩兵と衝突、禁門の変が勃発しました。
福原が率いる長州勢は敗走して伏見藩邸に立ち戻り、態勢を整えて打って出ましたが、彦根藩や他の連合軍が京橋から伏見藩邸を砲撃、このため伏見長州藩邸は焼け落ちてしまいました。
三栖(みす)神社から濠川沿いに歩きます。
京阪の踏切を越えると「伏見港公園」があります。ここには、伏見港の歴史などが書かれています。
その突き当りが三栖閘門(こうもん)です。
伏見の街を水害から守るため、1922年(大正11年)、宇治川右岸の観月橋から三栖の堤防工事が始まり宇治川と伏見港が分離されました。そのことに伴い1929年(昭和4年)、三栖閘門
(みすこうもん)が建設され、宇治川と濠川との4.5メートルほどの水位差を上下させて調整し船を行き来させていました。完成当初から、旅客を乗せた蒸気船や石炭の輸送船など年間2万隻以上が
通航していたといいます。しかし昭和30年代に入って、陸上運輸の発達で貨物船による輸送が減少していき、1962年(昭和37年)、ついに淀川の舟運はなくなってしまいました。
さらに1964年(昭和39年)、宇治川上流に天ヶ瀬ダムが完成してからは水位が大幅に減少し、閘門はその役目を終えました。(月桂冠HPより)
街道は、ここから宇治川沿いに歩くようになっています。東高瀬川の所から歩道用の橋を渡るように書かれていますが、何とこの橋「通行止め」です。
他に対岸に渡る橋もないので京阪の踏切迄戻ります。
踏切を渡りしばらく歩くと下野第二公園の所に「戊辰の役戦没者の碑」があります。
碑には、「幕末の戦闘ほど世に悲しい出来事はない。それが日本人同族の争でもあり、いづれも正しいと信じたるままにそれぞれの道へと己達の誠を尽くした。然るに流れゆく一瞬の時差により
或る者は官軍となり或いは幕軍となって士道に殉じたのであります。ことに百年の歳月に関し、其の縁り有る此の地に不幸賊名に斃れたる誇り有る人々に対すし、慰霊碑の建つるを見る。
在天の魂以て宴すべし。 中村勝五郎 昭和45年(1970)春」 正にその通りですね。個人で建立されたのかな?
街道は、淀宿に入ってきました。
この辺りは、京都競馬場です。付近の有料駐車場は、日、祭の駐車料金がすごく高いです。渋滞解除の為駐車料金を高くしたのかな?
淀小橋旧址は、淀小橋は宇治川に架けられた橋で,紀伊郡納所村と城下町淀を結んでいました。京都・伏見と大坂を結ぶ街道のかなめにあった重要な橋です。
淀小橋は淀川改良工事(明治30~同44年施工)の一環として明治36年に宇治川が付け替えられると,その流路からはずれ撤去されました。この石標は淀小橋の跡を示すものです。
納所(のうそ)交差点には、「唐人雁木旧址」があります。説明文によると、「かつてこの辺りは、京都と大坂とをつなぐ重要な港であり、付近は「淀津」と呼ばれた。
納所(のうそ)の地名の由来は、皇室に納める穀類の重要な倉庫があったためで、荷揚げで港は賑わっていた。この地は軍事的にも重要な地であった。そのため、戦国時代から城が築かれ、
近世の淀城と区別するため、「淀古城」と呼ばれている。
秀吉による伏見城の構築に際しての築堤工事により、巨椋池・宇治川などの流路や街道が整備された。結果、宇治川は納所と淀の間を流れ、桂川へ合流した。また納所には、桂川沿いに続く
「大坂街道」と宇治川の流路あとの「伏見街道」も通り、水陸の分岐点となっていたといえる。
宇治川には、淀小橋が架けられ、朝鮮通信使の上陸地にもなり、近くには桟橋や雁木(がんき)(上陸用の階段)も設置され、陸路で京都へ向かった。
明治時代以降、納所を取り巻く水系が大きく変化し、木津川付け替えに続き、明治時代中期には、宇治川も現流路に変わっていった。
興杼(よど)神社は、 淀・納所・水垂・大下津の産土(うぶすな)神として鎮座しています。
祭神は、中央に豊玉姫命(トヨタマヒメノミコト)向かって右側に高皇産霊神(タカミムスビノカミ)向かって左側に速秋津姫命(ハヤアキツヒメノミコト)の三柱であります。
この神社は、僧の千観内供が応和年間(961年~963年)に肥前国(佐賀県)佐賀郡河上村に鎮座の與止日女(ヨドヒメ)神社より、淀大明神として勧請したのに始まるとある。しかし、
延喜式(901年~)第9巻「山城国乙訓郡」中に、與杼神社の名がある処からみて、応和年間より以前に鎮座していたと考えられます。
元の鎮座地は、今の宮前橋の下流、桂川右岸の川原になっているあたりで、古来よりこのあたりを「大荒木の森」と呼ばれていた。 (当時は、ここを乙訓郡水垂村といった)(興杼神社HPより)
稲葉神社:淀城主を長く務めた稲葉家の初代稲葉正成公を御祭神としている。正成は戦国時代の武将で小早川秀秋の家臣だったが、関ヶ原の戦いで家康と内通し、秀秋を東軍に寝返らさせたことで
有名。3代将軍家光の乳母で大奥を仕切った春日局(福)は正成の後添えだったが、福が家光の乳母になった時に離縁した。しかし、亡くなった前妻の産んだ嫡男ではなく福の産んだ正勝が後を継ぎ、
5代目の正知が享保8年(1723年)淀藩城主となり、以後幕末まで12代148年間稲葉家が藩主であった。
淀城跡:淀城は江戸時代に徳川秀忠の命により松平定綱が築いた城です。築城に際し、廃城となった伏見城の資材を転用、二条城の天守を移築したと伝えられています。
秀忠・家光父子が上洛の際にはこの城を宿舎としたそうです。江戸中期には春日局の子孫である稲葉正知が入城し、幕末まで稲葉氏が城主を務めました。幕末には老中である稲葉正邦も城主を
務めています。現在は淀城跡公園として整備されており、石垣や天守台が残っています。
淀駅前にある「水車のモニュメント」から京都競馬場方向に歩きます。
淀宿は、規模の大きな伏見宿と枚方宿に挟まれ、宿場町としては比較的小規模で、本陣や脇本陣はなく、旅籠が16軒あったのみとされています。この地は、宇治川、木津川、桂川の三川が
合流し淀川へと注ぎ込む三川合流の地であり、淀船の寄港地として栄えました。人口2847人、家数836軒。
街道は、三川合流の宇治川に入ります。
さくらであい館で少し休憩します。であい館では、ソフトクリームが販売されていましたのでそれを買っていただきました。生き返りました。
木津川の御幸橋を渡ると「石清水八幡宮」です。今日は、ここまでとします。
伏見は初めて行きました。時間があればじっくり廻りたかったのですが・・・
先週の週末は鳥取県倉吉を歩きました。参加者も2日間で3000人を超えました。大会もコロナ前に戻りそうです。
今日から福岡ではプロ野球対阪神戦があります。3日間とも観戦予定です。