山野颯想

山野走、山野歩、山野逍遥など、山野にかかわる事柄を中心に記載しています。

富士山(富士宮ルート)

2012年09月23日 | 山野歩

Sii415_2 

◆撮影:2012年9月16日、富士山にて

2012914日(金)~17日(月) 

『T山の会』

<富士登山>

■参加者:ABちゃん、UMさん、MOくん、MI子さん、SE子さん、YUさん

◆一日目

[富士宮口5合目]110311226合目宝永山荘]11451255[宝永山]13101350[宝永火口]→14456合目宝永山荘]

◆二日目

6合目宝永山荘]12001253[新7合目]100150[元祖7合目]2002508合目]3053509合目]40544795勺]455540[浅間大社奥宮]→[剣ヶ峰]→[浅間大社奥宮]65510286合目宝永山荘]→[富士宮口5合目]

<富士宮ルート>

入山前の天気予報からそれなりの降雨を覚悟していた。ところが、一日目に宝永火口で、そして二日目の山頂より下山し宝永山荘で談笑する昼ごろにほんの僅かに降ったのみで、本降りの降雨に遭うことはなかった。もし降っていたならば僕は富士山頂に立つことが出来なかったのだろうと思う。それぐらいに我が身体にとって辛い富士登山であった。

18時に就寝、そして21時過ぎに目覚めたときから頭痛があり、元祖7合目を過ぎるころより軽微だが気分が悪くなる。こんな筈ではないと思ったが、それ以降我が身体は疲労困憊状態に陥ってしまう。それは夜行バスと山室での睡眠不足の影響かもしれないと思ったが、灰色の岩石と砂礫の九十九折り急勾配の道を、兎に角一歩一歩足を前へ前へと運び続けたなら必ずやいつしか山頂に辿り着くのは間違いないと覚悟を決めた。上るときも下るときも、各山室前で僕がやって来るのを先行く皆が待っていてくれるのも励みとなり懸命に歩き続けた。上りは腰の鈍痛、下りは左膝痛と左脚足首外側の靴擦れに悩まされ続けた。

僕が浅間大社奥宮の鳥居をくぐってから暫くしてMI子さんがやって来た。8合目辺りで一人腰を下ろすMI子さんの姿を暗闇の中で見かけたのだが、結果的には僕と殆ど時間差無しで上って来た。そのMI子さんが皆が待つ処に来るや否や、SE子さんの胸に顔を埋めて泣く姿に僕は目頭が熱くなるのを感じた。ところで、「待つのはやめよう」と発言していたMOくんは3時間10分というタイムで浅間大社の鳥居をくぐったそうで、皆が鳥居をくぐったときには既に“お鉢めぐり”を済ませ戻って来ていたそうだ。

宝永山荘でお弁当(朝食用)を準備して戴いた。大きな海苔巻御握りが2個に唐揚げや佃煮等がはいった心のこもった品であったが、僕が食したのは下山後宝永山荘内であった。ザック中の行動食にも殆ど手をつけることができないほどに疲労していた。それゆえ、山頂からの景観が記憶中に余り無い。併しだ、懸命に上るとき、休憩した山室前から見上げた透徹した秋の気なかに拡がる満天の星と、下界に拡がる富士宮市を中心とした優美な燈火を僕はけっして忘れないだろう。また、剣ヶ峰に行こうと頂上山室の裏手へと廻ったとき、眼前至近距離に測候所を見たときに、僕の脳裏内には「あそこまでなら何とか歩くことが出来る」という明確な感情があった。そのときに皆が「お鉢めぐりに行こう」と言ったとしても、僕にはそのための心身の余裕は皆無で行くことはなかっただろう。僕は、御来光の時刻(520分ごろと聞いていた)に山頂に辿り着くことは出来なかった。また空が白み始めたころ、東の空に黒褐色の高積雲が棚引いていたのだが、聞くところによると、その雲の影響で明確な華やかな御来光を拝むことは叶わなかったそうだ。

富士山は5合目が森林限界という様子だ。宝永山荘の周辺に低木が僅かにあったくらいで、宝永火口へと進むと直ぐに樹木は無くなり乾いた火山礫原が拡がるばかりであった。その砂礫荒地中の其処彼処に勢力を伸ばしていたのはオンタデだ。そのオンタデとは別に、6合目山室付近にあった茎が少し赤みを帯びているものは同じタデ科のオヤマソバなのだろうか。しかしそのオンタデの勢力も宝永第一火口()までくらいで、それ以降植物を見ることはなかったと記憶する。オンタデに負けじと其処彼処に泰然と伸び上がっていたのはミヤマオトコヨモギで、立ち上がった茎に総状下向きに花をつけていた。黄花のアキノキリンソウを見たのは一度だけ、清爽の気溢れる白花のイワツメクサは三度僕の眼前を通り過ぎて行った。それともう一つ、宝永山荘から直ぐの処にタカネヒゴダイがあったのも忘れてはいない。また、宝永火口周辺における火山礫の色彩が殊のほか美しく、暫くの間僕の眼を虜にしたのも忘れてはいない。石塊の大きさは掌に納まるくらいのものが殆どで、灰色、褐色、茶褐色、赤褐色、褪紅色などと様々な色彩を呈していた。また、宝永山荘から眼下に拡がる緑の絨毯も壮大であったし、山荘右手に発達する入道雲の頂が我が目線と同じ高さであったことも記憶の中にある。

そして、山の仲間への感謝も忘れてはいない。交通アクセスの確認や切符の購入、山室の予約、山行計画などと、すべてにおいて僕はかかわることなく、最初で最後になるかもわからない富士登山を楽しませて戴いた。ほんとうにありがとう。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする