座敷ネズミの吉祥寺だより

吉祥寺って、ラッキーでハッピーなお寺ってこと?
中瀬の吉祥寺のあれこれをおしゃべり。

河田菜風翁碑(書き下し文 1)

2018-03-08 | 菜風さん
白文を読んで下さった方による、書き下し文です。

河田菜風翁碑(1)に当たる部分です。



菜風君 没す。

二年を越て、

嘉謀(カボウ) 行實(コウジツ)を不朽に傳へんと欲して、

諸友 及び 門人と 之を圖る。



銘は 即ち 其の友 荒木孝繁に嘱す。



孝繁 嘆じて曰く、

「君 吾より少(ワカ)きこと九歳、

 その死は 宜しく吾が後に在るべし。

 然るに 不幸にして 先に逝けり。

 即ち 後事の任は 吾れ 其れ 忍びんや。

 然れども 吾 君と 篤きこと 衆の知る所なり。

 義 辭し難し。」



遂に 之を 銘す。





嘉謀(カボウ)とは、「嘉猷(カユウ)」という語と同じように、、
よいはかりごと。 国を治めるための優れた計画のこと。
だそうですが、
今回は 人名です。

書き下し文が終わりましたら、現代語訳に移りますので、
その頃に 荒木孝繁氏と一緒に ㊟として書きます。



河田菜風翁碑(4)

2018-03-01 | 菜風さん
如此數年、會罹疾。 終不起。

人無不惋惜。時明治十三年一月三日。

得年六十。 



娶島田氏。 有三男。

即嘉謀、次嘉猷、次夭。

女一人 已嫁。



君之在也、人無不知。

而亡也、人無不惜。

惟其然矣。 顧能果然者誰歟





到哉業也 翰墨之良 翩々姿態 優入晉唐

雖隠田野 何遜大方 斯勒貞珉 永傳遺芳



明治二十三年六月   友人 天外荒木孝繁撰

           東京 伊東南堂篆額

           友人 藍香尾高惇忠書

              田野祐修鐫







歟(ヨ、か)、似たような漢字がいっぱいあって、困ります(汗)。

與、与 と同じ字だそうです。



鐫(セン、のみ、ほ(る)、え(る)) は、
金属・石材・木材などを うがつ道具の事、
また 彫りつける、うがつ などの意味があります。



ここで 田野祐修 という名前が出てきました。

祐修居士という方なら、中瀬の吉祥寺の境内墓地で
眠っていらっしゃいます。



また、伊東南堂 というのは、
向島の不動堂にある 上武大橋の「修河架橋記念碑」の
題字を書いた人のようです。

苗字は伊東さん? 

存じ上げません。





漢文は以上です。

レ点と 一二点は 面倒なので省きました(汗)。

また、句点の入れ方や 段落の分け方は 
他にもあるかもしれませんが、
句点は ご紹介いただいた読み方で、
段落は座敷ネズミの直感(!)で書きました。

ご教示いただければ幸いです。

次は書き下し文に移ります。



河田菜風翁碑(3)

2018-02-28 | 菜風さん
考老。 承家 専事。

讀書 黽勉 不倦。

旁 善詩文。 最長於書。

遂 變𦾔習 一以古法為旨。

就君学者 端楷有法。

性倹素 不好紛華。

與野人處。 客到劇談竟日。

人皆愛重焉。



或漫遊四方 訪雅人。 所至見重。



晩構一室。 多集書籍 倚几且讀且詠。

或揮翰応請。 請者日衆。





黽勉/僶俛 (ビンベン)、これはネットで出てきました、
つとめはげむこと。精を出すこと。
だそうです。

聞いた事のない言葉ですけど。



河田菜風翁碑(2)

2018-02-23 | 菜風さん
叙曰。

『中瀬村 河田氏 其先 出新田氏之族。

 帰農 為村著族。 支族蔓衍。 君 為其一。

 諱嘉豊、 字 公實、菜風 其號。

 考諱嘉氏、妣小林氏。

 考克務業家資稍豊。

 君幼就学吉祥寺 為其香花。

 地住持觀海 精於学。善書法。

 適辭職而處。開塾誨徒。君入之焉。

 岐嶷異衆。 師期其大成。

 後果如其言。

 




「考(コウ)」 は亡父、
「妣(ヒ)」は、亡母の事だそうです。

「稍(ソウ、ショウ)」は 「やや、すこし、だんだん」

「焉(エン、いずくんぞ)は 「なんぞ」という疑問、反語の意を表す。

漢和辞典を引いていると、アタマが良くなりそうな気がする~(笑)。



「岐嶷」は 今 ネットで検索したら
(イコヨカ)と読むらしいとわかったのですが、意味がわかりません、

漢和辞典で調べたら(キギョク)という読みで、
子どもの賢い事を意味するようです。

すごいです、漢和辞典。



まだまだ続きます。



河田菜風翁碑(1)

2018-02-15 | 菜風さん
過去に「菜風翁の碑」として記事にしてから
読者の方々から 少々の反応があった菜風さんについて、
「菜風さん」として 別カテゴリーを設ける事にしました。

尾高淳忠がらみで 訪れて下さる方々もいて、
もっと知っていただきたいと思ったのです。

そういう私も、ほとんど知らないんですけどね。


          





とりあえず、「漢字の羅列」で ウッとなって、
読めない、いえ、読む気にならないこの碑文を、
まずは 読んでみないと。。。。。。

と思っていたら、読んだ方がいらっしゃいました!



菜風さんとご縁のある方から、
読んで下さった先生がいらっしゃると、
そのコピーをいだたきました。

昨秋、こちらに書いて良いという快諾をいただきましたので、
これから 頑張って書いてみますね。





河田菜風翁碑



菜風君歿矣越二年、

嘉謀欲傳行實干不朽與諸友及門人圖之。

銘則嘱其友荒木孝繁。

孝繁嘆曰、

「君少吾九歳其死宣在吾後。

 然不幸先逝則後事之任吾其忍乎。

 然吾與君篤衆所知也。

 義難辭。」

遂銘之。





今日は、ここまで!(笑)

だって、大変なんですよ、読むの。と、書くの。


「矣」って、「い」と読むんですね!

今まで読めなかった事に気が付きました。

「輿(よ)」と 「與(よ)」 とは似ていて、
区別がつきにくくて困りました、年齢的に。

原文、まだまだ続きます。



また、新たに「荒木孝繁」という人物が出てきました。

存じ上げません。

近隣には荒木姓があるので、
遠くない所にお住まいの方だったでしょうか。

菜風さんよりも9歳年上の方だったでしょうか。

大事な内容は、また次回に。



雨の中日

2016-09-22 | 菜風さん
あいにくのお天気になりました。

それでも時折、お墓参りの方々がいらっしゃいます。



それから、昨日は、久しぶりに雨粒が落ちない日でした。

吉祥寺にお参りに来て、
廊下で 河田菜風さんのパンフレットをご覧になって
「これから行ってみよう」とおっしゃった方がいました。

きっと 
深谷市川本出土文化財管理センター(川本公民館南側の建物)
においでになったろうと思います。



いろいろな催し物のご案内ができる事は
私も嬉しく思っています。

これからも 可能な限り ご案内したいです。

ですから、いろいろな催しや展示がありましたら、
お教えいただけるとありがたいと思います。



中瀬きっての教育者

2016-09-19 | 菜風さん
河田菜風さんについての話の続きです。

「企画展 深谷にゆかりのある人々 5
     このひとをしっていますか?

 関流和算の大家 藤田貞資 ・ 
 門弟五百数十名 中瀬きっての教育者 河田菜風」

の、パンフレットをいただきました。

こんな事が、書いてあります。


         



門弟五百数十名 中瀬きっての教育者 【深谷市中瀬】


河田菜風

1821-1880(文政4年~明治13年) 享年60


 文政4(1821)年11月13日、榛沢郡中瀬村(現在の深谷市中瀬)、
河田十郎右衛門(じゅうろうえもん)の長男として生まれる。

諱を嘉豊(よしとよ)、字を公実(こうじつ)通称、を半内(はんない)、
号を菜風(さいふう)と称した。

菜風の由来は、生地の中瀬と、おいしい食菜の産地と、
名物の赤城颪(あかぎおろし)が吹く土地柄とを巧みに織り交ぜた雅号で、
郷里の地名や風土に因んだものとされている。



幼少の頃から その才能は 周囲の子らに比して優れており、
また、学を好み、中瀬の天台宗吉祥寺(きちじょうじ)の観海(かんかい)和尚に就いて
和漢の学を修めた。

吉祥寺は上州(群馬県)世良田長楽寺の末寺で、
観海は二十五世であった。

人格・識見共に備えた名僧で、
上州・武州に多数の門弟があった。

これらの門人中、菜風は観海が最もその将来に期待をかけていた高弟であった。

青年の頃の菜風は、筑前(福岡県)の宗像蘆屋(むなかたろおく)や
越中(富山県)の殿丘神通(とのおかじんつう)らが
諸国漫遊の途中に立ち寄ったので、
一時これら遊学の学者に就いて詩文・書画を学修した。




 天保9(1838)年、自邸を教場として塾を開き、
近隣の子弟に教授を始めた。

この時、菜風は18歳であった。

10年後の嘉永2(1849)年、28歳の菜風は
塾名を正式に「宣興塾」と名付け、
盛大な命名披露の雅会を催した。

当日は 福田半香(ふくだはんこう)、中沢雪城(なかざわせつじょう)、
桃井可堂(もものいかどう)、代五渡(だいごと)、市川市月(いちかわしげつ)、
伊丹渓斎(いたみけいさい)、渋沢誠室(しぶさわせいしつ)、
斉藤南々(さいとうなんなん)、金井烏洲(かないうじゅう)ら 
地元の著名な文人墨客が出席し、
席上それぞれ揮毫して 当日の記念とした。

この語、寺門静軒(てらかどせいけん)も菜風を訪れている。



 明治5(1872)年、学生が発布され、
翌6年2月に中瀬小学校が開設された。

菜風は これを契機に35年に及ぶ「宣興塾」を閉じ、
村の教育顧問となって 後進の育成に協力した。

菜風の薫陶を受けた門弟五百数十名には、
地元・成塚の書家、正田晴圃(しょうだせいほ)をはじめ
県会議員、町長、小学校長として名を成し、地元の枢機に参画した人々が
多数輩出した。

明治13(1880)年1月3日没。

享年60.

後に、多数の門人知友によって
「河田菜風翁碑」が 菜風ゆかりの地に建立された。






ずいぶん詳しく書かれていますね!

観海さんの名前が書かれているのを拝見する事は、
極めて稀です!

そして、中瀬の吉祥寺境内にある「河田菜風翁碑」の写真があります。



          
           これは、以前に私が撮った画像。



金井烏洲は、画家?絵師?でした。(「歴史好き」

齋藤南々は、芭蕉の句碑を立てた俳人でした。

いろんな人達と関わった方だったのですね。



10月10日までの会期の間に、ぜひ 訪れたいものです。






【展示会期・展示会場】

    2016年9月15日(木曜日)~10月10日(月曜日、祝日)
    深谷市川本出土文化財管理センター(川本公民館南側の建物)
    入場無料

【開館時間】
    午前10時~午後4時 (会期中は無休です)

【展示内容】
    藤田貞資(ふじたさだすけ)…江戸時代に活躍した関流和算の大家
    河田菜風(かわたさいふう)…門弟五百数十名を育てた教育者



河田菜風さん

2016-09-16 | 菜風さん
河田菜風さんについては、以前、
「菜風翁の碑」のところで、
ちょこっと触れました。

実際の所、座敷ネズミには、よくわかっていないのです(恥)。

それが、よくわかりそうな催しがあります。



それが、企画展「深谷市にゆかりのある人々Part5~このひとをしっていますか?~」
です。


          

《関流和算の大家「藤田貞資」、門弟五百数十名 中瀬きっての教育者「河田菜風」 》
と題して行われています。

9月15日、昨日から始まりました!

「中瀬きっての教育者」だそうですよ!

中瀬の方々、ご存知でしたか?

「河田菜風(かわたさいふう)…門弟五百数十名を育てた教育者」
とあります、教育者だったんですね!(恥、汗)



もうおひとりの藤田貞資さんは、関流和算の大家なんだそうです。

川本の方のようです。







 【展示会期・展示会場】

    2016年9月15日(木曜日)~10月10日(月曜日、祝日)
    深谷市川本出土文化財管理センター(川本公民館南側の建物)
    入場無料

 【開館時間】
    午前10時~午後4時 (会期中は無休です)

 【展示内容】
    藤田貞資(ふじたさだすけ)…江戸時代に活躍した関流和算の大家
    河田菜風(かわたさいふう)…門弟五百数十名を育てた教育者

 主催/深谷市教育委員会
 協力/藤田雄山貞資先生顕彰会、深谷市美術家協会



みなさん、入場無料、入場無料ですよ!(笑)

      


深谷市川本出土文化財管理センター(深谷市菅沼1019、川本公民館南側の建物)
へは、私は行った事はなさそうですが、
時間を見つけて ぜひ足を運んでみたいものです。



いずれ、市の広報にも掲載されるかと思いますが、
実物を目で見る事が出来たら、理解もより深まろうかと思います。

さて、菜風さん、どういう教育者だったのでしょう?



石碑の移動 その2

2014-10-06 | 菜風さん
石碑は、あんな場所に移りましたヨ。

ホラ、吉祥天の足元、芭蕉の句碑の隣の隣で、
向こうを向いています。







     



          
           河田菜風さんの供養碑です。






「菜風翁の碑」として 以前 記事にしました。



イチョウの裏手から 場所を変えて 南向きになりました。


      「藍香尾高淳忠」さんは、
     富岡製糸場世界遺産登録を受けて、今、時の人です。



「菜風翁の碑」の記事の方は、書き換えないといけませんね。



菜風翁の碑

2010-04-23 | 菜風さん
菜園すの亭主さまからのご質問の 菜風さんの碑の在り処を住職から聞き出しました。

境内のイチョウの木の西側の、塀際に並んでいる石碑のうちのどれかだ、という事です(笑)。

カメラを持って見に行きました。

一番ヘンテコ?な形のものがそれです。   








菜風翁碑、と書いてあります、多分。






     



最後の方に、確かに、「藍香尾高淳忠書」 とあります。

あ、「藍香」さんと「淳忠」さんは 親戚なんじゃなくて、同一人物だったんですね!?

これから混乱せずに済みます・・・(苦笑)。






おっと、最初の方は こんなです。 
                



菜風さんが亡くなってから建てられた石碑のようです。




   →こっちは、裏側。

明治23年6月に書かれたものです。 そして、8月に完成したのでしょう。



さすがに苔むして 読みづらくなっていますし、なんと言っても この数の漢字の羅列!!

全文を読む気になれません。。。。。  平に、ご容赦を!






吉祥寺の過去帳を見てみますと、明治13年1月3日に亡くなっています。

薫一菜風哲豊居士。

「豊」の文字は 菜風さんの俗名から採ったようです。

墓地はK地区の個人墓地にあります。

墓石の傘が石臼だそうでございますよ!

年齢は60歳だったということです。






   吉祥寺の銀杏が 新緑におおわれつつあります。

これは 石碑の後ろから撮影しました。



2016年追記:菜風さんの石碑は、別の場所に移動しました。
           「石碑の移動 その」2参照のこと。






付け足しです、 菜風さんはAさんのお宅の墓地に眠っていますが 
奇三という方がRさんの墓地に眠っています。

お戒名も、そのまま奇三居士。   

菜風さんの石碑の脇から墓地に入って行った所にR氏の墓所があり、
奇三居士の墓石が立っています。

R氏も 今は 同じ墓所に眠っています。






衣食足りて風狂を知る?

栄えた地域であったからこそ、こうした文人も大勢輩出したのでしょうね。