活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

アズレイジョはヨカね

2007-04-03 22:22:22 | 活版印刷のふるさと紀行
 ポルトガルの町を歩いていると、ビルや家、家の外壁のブルーの絵タイルが目をひきます。アベイロ駅やポルト駅でうっとり見入ったのも思い出のひとつです。
 そのアズレイジョには、こんどの紀行でも天草の河浦のコレジヨ跡でおめにかかりました(既述)。臼杵ではサーラ・デ・うすきにもありましたが、今日、臼杵で見たのはもっと本格モンでした。

 たまたま、野上弥生子文学記念館から、おいしい味噌せんべいにひかれて長居した醸造店を出て、角を曲がったら、なんと、4~5間はある白壁一面がアズレイジョで埋め尽くされておりました。
 中ほどに大友宗麟さんが鎮座ましましていますのは、土地柄、当然ですが、少年使節の肖像やヴァチカンにあるシスト五世の戴冠式に向かう少年使節が馬に乗った有名な行列図、日本からリスボンまでの彼らの旅程地図などがところ狭しと青一色のタイルで表現されているではありませんか。

 うれしかったな。嬉々として大友宗麟とツー・ショットしたのでしたが、それは部外秘、NO IMAGEとさせていただいて、ごくごく一部を掲載しておきましょう。

 このAzuleejo,アズレイジョはちょうど、天正使節がポルトガルに行っていた頃から製作されはじめたといいますから、彼らの目にも間違いなくとまったことでしょう。もっとも、そのころの絵タイルの値打ちモンは国立タイル博物館入りしているでしょうが。

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臼杵で「南蛮時代」と対面

2007-04-03 17:38:30 | 活版印刷のふるさと紀行
翌週、府内(大分)と並んで豊後でキリシタンとゆかりの深い臼杵を訪ねることにしました。ルイス・デ・アルメイダが大友宗麟に交渉をもって、ここに教会堂を建てたのは 1567年(永禄10)だったといわれております。
 宗麟は1580年になると、こんどは来日したばかりのイエズス会の巡察師ヴァリニャーノの願いをいれて臼杵にノビシャード(修練院)、府内にコレジヨの開校を許します。
 しかし、教会堂も修練院も1586年(天正14)に、島津軍に焼き払われてしまいます。もちろん、再建はされましたが、くわしい経過はわかりません。

 さて、その臼杵ですがすばらしい町です。
サーラ・デ・うすきという和風と南蛮風をつき混ぜたような建物に飛び込んで驚きました。南蛮屏風・ナウ船の模型・大砲・クルス刻印瓦などとならんでエヴォラ文書のレプリカが陳列されているではありませんか。

 16世紀の後半、臼杵のノビシャードのキリスト教講義録が南蛮屏風の裏打ちの下貼りに使われて、ポルトガルにもたらされたものだといいます。
係りの方の説明によると、屏風は京都でつくられたもの、してみると、文書は臼杵から京都、京都で下貼りに使われて、長崎へ、長崎から南蛮船でリスボン、リスボンからエヴォラという行程をたどったにちがいないと。

 ぜひ、機会があれば、サーラ・デ・うすきで「南蛮コーナー」の展示資料と映像資料を見てください。
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