活版印刷紀行

いまはほとんど姿を消した「活版印刷」ゆかりの地をゆっくり探訪したり、印刷がらみの話題を提供します。

想説/活版印刷人あれこれ22

2009-09-26 13:12:03 | 活版印刷のふるさと紀行
 ここで一つ考えられることがあります。天正遣欧使節の派遣を企画し、長崎を共に旅立ったアレサンドロ・ヴァリニャーノの存在です。彼はイエズス会東インド巡察師として1579年7月25日、島原半島口之津に第一歩を記しております。

 そのヴァリニャーノが「世界地図」を携えて来ていたことは十分考えられます。
それがマテオ・リッチの「坤輿万国全図」だったといいたいところですが、リッチの世界地図の刊行は1583年に宣教師として渡った中国、当時は明ででした。
天正遣欧使節の出発はその前年1582年の2月です。勘定が合いません。

 しかし、紛らわしいことをいって恐縮ですが、ヴァリニャーノとマテオ・リッチとはおおいなる接点があるのです。ヴァリニャーノが1570年司祭に任じられた翌年、ローマで修練士の指導にあたりましたが、そのとき、生徒の修道士の中にマテオ・リッチがいたのです。それどころか、マテオが中国布教の第一歩を印したマカオへはヴァリニャーノの招きによるともいわれております。事実、日本に来る前にマカオでいろいろ準備に当たっていた経緯があります。しかし、マテオ・リッチがマカオに着いたときにはヴァリニャーノは行き違いで日本です。

 金子レクチュアに登場したベルギー、アントワープの地図製作者アブラハム・オルテリウスは1564年の8枚組みの世界地図を皮切りに、世界最初の近代的地図『Thearum Orubis Terrarum 世界の舞台』を1570年に出版しております。
ちなみに、このオルテリウスの地図はわずか2年足らずの間にオランダ語・フランス語・ドイツ語の3版が出たといいますし、彼の死んだ1598年までに25種類の版がでたといいますからすごい売れ行きでした。


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想説/活版印刷人あれこれ21

2009-09-26 10:45:59 | 活版印刷のふるさと紀行
 神田川大曲塾の9月勉強会は18日、印刷博物館のグーテンベルクルームが会場でした。
金子栄輔講師のレクチュアは日本人やヨーロッパ人のアジア認識から、中世にヨーロッパ人が描いた地理書や地図に及んで、やがて「大航海時代」に入って行きました。

 私としては「待っていました」です。以前にコンスタンチノ・ドラードや千々石ミゲルの著作を書くときに、私は一応、当時、どのような世界地図が日本に存在していて、彼ら天正遣欧使節はどんな地図を持って行ったのかを調べてみたことがありました。 結果はノンでした。当時、まだ、世界地図が日本に入っている確証は持てませんでした。

 フィレンッェの国立文書館1585年にローマ教皇グレゴリオ13世に使節たちが贈ったと日本地図が所蔵されています。行基図を賑やかにしたような稚拙なものですが、彼らが「地図」そのものは知っていたことはこのことからわかります。
 問題は自分たちがこれから辿るであろう行程がひとめでわかる「世界地図」を彼らが持っていたであろうか、「世界」の認識はあったであろうかでした。

 そこで金子レクチュアでも多くの時間がさかれたマテオ・リッチの『坤與万国全図』の登場となります。写真はその模写図で金子講師の著作からお借りしました。

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