青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

回る回るよ 時代は回る

2012年05月03日 19時48分17秒 | 日常

(青空に腕を広げて@天竜二俣車両基地)

車庫の片隅に残る腕木式信号機が、青空の下で腕を広げております。これは既に引退してるみたいですが、いかにもローカル線らしい風景です。現役の腕木式ってのはJRでは八戸線の陸中八木駅を最後になくなったようですが、まだ福島臨海とかには残ってるんじゃないかな。


さて、おばちゃんガイドに引率されて駅裏の通路を歩き車両基地方面へ。まず現れたのがSL時代の給水塔。コアなファンなら別に説明の必要もないものだろうね。当然これも文化財なんですが、現在も隣の井戸から水を引き上げて洗車機用の水源に使ってるらしい。用途は変わっても未だ現役で使われてるってのは珍しいのかな。おばちゃんの説明にも力が入ります。

  

木造の機関区詰所。正式名称は天竜二俣運転区事務室。当然登録有形文化財。杉板を外壁に使った建物は田舎の分校を思わせる雰囲気があります。色んな場所でこのようなものを見てますけど、明治から昭和初期にかけての木造および煉瓦作りの産業設備ってのは何だか自分の琴線に触れるんですよね。かと言って江戸時代以前のものに興味があるかと言われたらそんな事はないのだが(笑)。職員用の風呂場も登録有形文化財ってのはちとやり過ぎ感もありますが、この浴場で蒸気機関車のスス汚れを流していたんだなあと在りし日を偲べば、それもアリかと思ったり。

  

そして転車台と扇形機関庫。転車台には「鉄道省 昭和十二年横河橋梁製作所東京工場製作」の銘板が入ってます。結構この時期の年代物の鉄道橋梁って横河橋梁が作ったものが多い気がするなあ。と思って調べたら鉄道院時代からの橋梁製作の指定業者だったみたいですね。天浜線のDCは両運車だけなんで転回させる必要はないのですが、扇形機関庫と言う設備の形状上、転車台を動かさないと車庫に入れられないのでSLが去っても70年近くも現役。扇形機関庫と言えばみんなで山陰に行った時に津山でも見ましたけど、あれよりは小ぶりだよね。基本的に扇形機関庫ってのは円形にする事でスペースを取らずにたくさんの蒸気機関車を収容するための設備ですから、だいたいは屋根が高くて煙抜きの窓が付いているのが特徴。現存するのは全国でも10ヵ所程度みたいですね。

「では実際に動くところをご覧にいれまーす」

おばちゃんガイドの声のトーンもひときわ高くなる。「動かしてくれるんだね!」と趣味に付き合わされているヨメもちょっとご興味。息子は何だか良く分からないが、目の前に鉄道の車両がいっぱいいるから楽しいみたいだな。と言う事で先日の長野に続いてD90の動画機能で撮影してみました。


いつもより多めに2回転。ちなみに画面の端っこで見切れているのはウチの息子ではありませんので念のため(笑)。


扇形庫の横には、当時はSLの修繕用に使われていたであろう作業場を使って小さな資料館が開かれております。入っていきなり「空襲警報發令」と言う物々しい掲示板が…元々国鉄二俣線は日本が軍事色を強めて行く昭和15年に、国防の観点から軍部の要請によって全通した路線でもあります。浜名湖に架かる橋梁が連合軍の艦砲射撃によって破壊された際の代替ルートとしてのオーダーだったらしい。さらに歴史を紐解けば、天浜線に沿って浜松から本坂峠を通って豊川に抜ける道は姫街道と言って、江戸時代には浜名湖にあった新居の関所の厳しい監視を避ける裏街道として、ワケアリの人々が使う裏道であったそうな。東海道を光とするなら、影の部分にその意味があった天浜線なのであります。

  

薄暗い作業場に、部品加工用の旋盤やテーパーに交じって置かれた国鉄二俣線時代の遺品。そして、タブレット閉塞時代の通票や鉄道電話、信号テコ、鉄道荷物用の台秤。なかなか魅力のある品々を一個一個見ていたらキリがないのだが、昔はどこでも駅にはこんな感じの設備が一通りあったんでしょう。時代が流れても、光の当たらない裏街道然とした天浜線には、まだその時代の空気が残っていると言う事なんだろうねえ。真ん中に鎮座した遠江二俣駅のジオラマ、留置されている車両は国鉄色のキハ17。


軒下に干された作業服。坪庭の向こうには、そんな整備士さんたちの洗濯場が見える。
垣根の上に並べられているのは、整備士さんたちが使っているであろう大量の軍手。
天竜浜名湖鉄道天竜二俣運転区、今なお現役。
コメント
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