青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

欧州に続いていた波止場。

2024年03月11日 17時00分00秒 | JR

(雨上がりの街を歩く@敦賀市内・気比神宮前)

敦賀駅から、市内を循環する路線バスに乗ろうと思ったのだが、駅前に出る直前に行ってしまったらしい。敦賀の駅は、街の一番南端にあるので、中心部に出るには駅から徒歩10分程度の時間がかかる。駅前にいた福鉄バスのドライバーに話を聞いたら、「神宮の前は通る」ということで、ひとまず敦賀の街の鎮守様ともいうべき気比神宮に行ってみることに。バスの中から眺める雨上がりの敦賀の街、お出かけを決めた週はどこに行ってもずーっと天気が悪い予報で雨を覚悟していたのだが、雨こそ降らねど風が強く寒い。

北陸道の総鎮守、そして越前の国の一之宮である気比神宮。正確には「氣比神宮」と書くらしい。創建は古墳時代に遡るというが、定かではない。相当歴史のある神社なんですねえ・・・その割に社殿がパリッとして見えるのは、空襲で燃えてしまって戦後に再建されたからなのだそうで。敦賀に空襲があったのは、昭和20年の7月のことで、もう少し終戦が早ければ燃えずに済んだのかなあ。「気比」と聞いて思い出すのは、気比神宮と、敦賀の街に横たう白砂青松の気比の松原・・・と言いたいところですが、圧倒的に敦賀気比高校ですよね(笑)。敦賀気比、気比神宮の近くにあるのかと思ったら意外とそうでもなかった。古くは内海哲也に東出輝裕、近年では海を渡った吉田正尚に山崎颯一郎、そして今年から加入した西川龍馬の新旧オリックス勢でしょうか。ひとまずここで、旅の無事と家内安全商売繁盛世界平和趣味隆昌をお願い(多いなw)。絵馬には時期だからか、合格祈願の絵馬がいっぱい架かってましたね。受験生に神の御加護のあらんことを。

お参りを終えて、海へ向かって歩く。日本海側の良港として、軍港舞鶴と並んで古くから栄えていた敦賀の港。海上保安庁の船が係留されている風景の中を歩くと、港の一角に何やら少しヨーロピアンな建物が見えて来て、それが「敦賀鉄道資料館」。明治5年に日本最初の鉄道が新橋~横浜間に開通した直後、政府の工部省の鉄道局長であった井上勝により強く主張されたのが、かつての首都であった京都と敦賀を結ぶ鉄道の建設でした。暫定的には、京都から大津までを鉄道、大津から琵琶湖東岸の長浜を汽船で結び、長浜から敦賀までを再度鉄道で連絡しようという試みだったそうです。新橋~横浜間に比べ、京都側では山科を抜ける逢坂山越え、長浜から敦賀へは柳ヶ瀬越えと当時としては克服に難儀する山岳トンネルの建設があり、その開通は明治15年のこと。ただし、柳ヶ瀬トンネルの部分は未開通で、その部分だけは徒歩連絡だったのだとか。

資料館の中に作られた当時の敦賀港のジオラマ。敦賀まで建設された鉄道は、それまでの物流の中心だった敦賀港まで路線を伸ばし、そこに金ヶ崎駅(敦賀港駅)を置きました。これにより、北前船によって運ばれた物資が、鉄道と琵琶湖の汽船を経由して京都・大阪の大消費地に繋がることになります。日本海側の都市で一番最初に鉄道がやって来た敦賀の街は、対岸のロシアにおいてウラジオストクからシベリア鉄道が起工されたことなどを受けて、明治35年に敦賀~ウラジオストク間に汽船が就航。日露戦争によって日本が南満州と遼東半島の権益を確保したことによりその重要性は増し、敦賀は徐々に大陸との交易とその先の欧州を見据えた「世界への鉄道ルート」へアクセスする街と変貌して行きます。東海道本線の開通により、明治後期からは新橋~金ヶ崎(敦賀港)間に欧亜連絡の国際列車の運転が開始され、金ヶ崎にソ連の領事館が置かれ、軍部の後押しを受けて大陸への船が次々に出航していた頃・・・大正年間から太平洋戦争が終わるまでが、一番敦賀の街が華やかだった時期なんでしょうかね。

戦後は、日本海縦貫線の重要拠点として、文字通り鉄道の要衝を担った敦賀の街。そして、昭和32年の田村~敦賀間の交流電化により発足した「敦賀第二機関区」に集う赤やローズピンクを基調とした交流・交直流機関車たちでしょうか。蒸気・ディーゼルを中心とした敦賀第一機関区に対し、ELによって組織された敦賀第二機関区。【敦二】の区名札も鮮烈な、文字通り赤い機関車たちが集う名門機関区としてその名を轟かせました。壁に飾られたEF70のプレートがね。ちょっと後退角が付いててカッコいい。EF70は、それこそ北陸トンネルが開通して、敦賀~福井間の交流電化が達成された時に投入されたカマだから、生粋の敦賀っ子。本来は貨物牽引のために投入された機関車で、国鉄の貨物輸送の漸減に伴って大半が余剰になってしまったんだが、一部は寝台特急牽引用に改造されて1000番台に改番。寝台特急日本海などの先頭に立ちましたよね。ちなみに敦賀第一機関区の跡地が北陸新幹線の敦賀駅だったりしますが、新駅には敦賀の機関区のモニュメントとか作られたりしてんのかな。

そんな鉄道とともに歩んできた敦賀の街の歴史。旧線の柳ヶ瀬越えから山中越え、そして北陸トンネル建設から現在までの北陸本線のルート選定の歴史と、日本海縦貫線で活躍したあまたの特急群からトワイライトエクスプレスまでを、豊富な写真たちと鉄道に関連した保存資料でゆっくりと触れることが出来る敦賀鉄道資料館。敦賀駅から少し離れた場所にあるため、「ぐるっと敦賀周遊バス」に乗って「金ヶ崎緑地バス停」が近い。土休日だったら日中30分間隔で走っているらしい。一回り見てから1階にいた観光ボランティアのガイドさんたちと少し話をしたら、やはり相当に今回の新幹線敦賀開業に対しては気合が入っているようだ。「明日テレビの取材があるんですよォ」なんて話をしていた。天気が良くないのを残念がっていたら、北陸新幹線の試乗会にも乗ってきたようで「北陸新幹線の金沢~加賀温泉間は、白山連峰の眺めが最高なんです。またぜひ天気のいい時に乗りに来てくださいね!」と重ねてのアピール。

ボランティアの皆様にお礼を申し述べて、資料館を後に。資料館から少し歩いた場所に、敦賀港駅と港らしい赤レンガ倉庫があって、そこには福知山気動車区に新製配置となったキハ28が保存されている。基本的に引退まで福知山か豊岡の気動車区に配置されていたクルマらしく、それこそ非電化時代の小浜線や宮津線を走っていたのだろう。いすみ鉄道で動態保存となって走っていたキハ282346と違って、正面窓が側面まで続いているパノラミックウインドウなところに特徴がある。個人的に、PWの前面窓ってキハ66とかの九州の気動車のイメージあるんですけどね、垢ぬけていてカッコいいですよね。ヘッドマークはもちろん、急行「わかさ」。福井・敦賀~西舞鶴・東舞鶴間の若狭湾岸の街を結んだ急行列車。わかさ、わかさって何だ。振り向かないことさ。

そして、現在は正式に廃駅となってしまった敦賀港駅。由緒正しい欧州連絡列車の発着した波止場の駅も、末期はDE10に牽引されたコンテナ列車が、一日一往復だけ出入りする寂しい臨港線の貨物駅でした。平成21年に貨物の取り扱いがなくなった後も、敦賀港のコンテナの荷揚げ場としては使われているようで、おそらくORS(オフレールステーション)扱いで南福井の貨物駅とかにトラックで持ち込んでいるのでしょうね。一時は「門司港レトロ」のように観光化の計画もあったような気がしますが、今はレールも信号も切られているので復活は難しいでしょうなあ。もう少し早く新幹線が来ていたら、活用方法も変わっていたかもしれませんが・・・

コメント
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