大神龍馬(おおがたつま)さんは、大きな人だった。
今から10年程前、(平成9年8月10日)永眠された。本業の仕事面はもちろんのこと、福祉面や文化面でも活躍された。
20年余り、いろんな形でおつきあいさせていただいた。飾らずに、良いことに対しては惜しみなく声援と支援をした。また、インド国際子ども村の提唱者である大神のりえさんは、大神さんの娘さんである。おつきあいの中で、たくさんの事を学んだ。そのエピソードを紹介したい。
(在りし日の大神さん)
生前、大神さんの印象といえば、「金婚者を寿ぐ会」である。その会は、延岡市内で金婚者を祝うための自主的な会だ。いつか「金婚式」自分が祝いの席招かれたい。
そんな想いをもとに、40年以上も前から「延岡の金婚者を寿ぐ会」の発起人となり、仲間達で開催し物心両面にわたり援助してこられ、多くの延岡在住の金婚者を祝ってこられた。招かれた金婚者は2000組以上にのぼるのと聞いている。
亡くなる数年前、大神さんご夫婦は金婚の年を迎えられ、式に招待された。生前「継続が大切だ」といつもおっしゃていたのが今も心に残っている。
地元、延岡市の夕刊誌「夕刊デイリー新聞」の紙面で大神さんを紹介されていたので転載したい。
「今や日本中のつり橋建設だけでなく普通の橋の建設にも利用されでいるPCTという工法の特許権者で、延岡市の文化、福祉面にも功労があった大神龍馬さんが亡くなった。
もの静かで、思膚深い学者タイプの人だった。それまで、深い谷など橋脚を立てられないところに橋を架けるには、両岸に鉄塔を建て、ワイヤーと張り渡し、それに橋材をつり下げて繰り出しでいき、組み立てていた。
しかし鉄塔間が長いほど、また風が強いほどつり下けでいる橋材の揺れが大きく、危険も増して作業は困難だった。このため工事期間が長く、事故死も多かった。
大神さんは鉄塔間の上部ワイヤーに加えて下部にもワイヤ―を張り、上下のワイヤー間を何本かのつり索で固定することでワイヤーが安定し、つり下げた橋材も安定することに気づいた。効果はそれだけでなく、橋材の重量は下のワイヤーにも働いて重量を負担し合うため、鉄塔などに無理がいかないし、工期も早くなりしかも安全に工事ができる。これがPCT工法として、昭和43年特許庁に認められた。
この方法で架けられた橋は、県北では北方町の城橘、つり橋では高千穂町の音の谷橋などがある。つり橋で、もし橋の下の両側にも弓なりのワイヤーあったら、それは大神さんの発明によるものだ。これでつり橋もあまり揺れず、安心して渡れるのである。
大神さんと延岡市の島野浦島に橋を架ける夢を語ったことがある。下を船が通るところで、長大橋になるからPCT工法の出番である。大神さんはPCTの模型を前にニコニコ笑いながら、静かに「思いっきり、きれいで美しい橋にしましょう。展望所も付けて・・」と話に乗ってくれた。大神さんもこの夢を持って逝かれたはずである。」 (平成9年8月12日 夕刊デイリー新聞 記者手帳より)
(大神さんからいただいた色紙)