第二 とのの帰還
暁彦と奈月が、とのから聞き出した話をこれから紹介する。なにしろとのの話は、突拍子がなかったり、つじつまが合わないところが多かったりして、彼らは整理するのにずいぶん難儀したようだ。それはともかく、とのの話はこんな感じだった。
とのとヴァロンは、海の見える町の背後から狭い沢を登り、冬の終わりの山脈に入り込んだ。雪だらけの山には、猫にとってそれほどおもしろいものはないだろうと思っていたのだが、さまざまな生き物たちの、それぞれの習性のおもむくまま、たくましく活動する姿を目の当たりにした。とにかく鹿の群れとはいたるところで出くわした。彼らは、皆一様に疲れた様子で、お腹が大きい雌たちをかばいながら餌を求めて移動していた。
「今年は雪が多くて大変だ。こういう年は、餓死する仲間が多いんだ。」
リーダー格と思われるひときわ身体の大きな雄鹿が、前足のひづめで雪をかいた。と思ったら、彼は雪の中から動物の骨格らしきものを掘り出して、「これだよ」と、とのたちに見せた。
「この雪が溶けたら、おれたちの仲間の死骸の、るいるいと横たわる光景が見られるはずだよ。」と、雄鹿は静かな口調で言った。とのとヴァロンは、足許に骨がたくさん埋もれていると思うといい気持ちはしなかったが、雄鹿の威厳が感じられる低い声の響きに圧倒され、無言で彼らの後ろ姿を見送った。
一面真っ白な山脈の中に入り込むと、頂上へのルートがさっぱりわからなくなり、人間が作った歩きやすい雪道を登っていくことにした。両側から迫る山の斜面はだんだん険しくなり、その斜面に作られた頑丈な防雪柵から、少し溶けた雪が盛り上がって、とのたちの頭の上にこぼれ落ちそうになっていた。その光景はとても怖かったが、雪はソフトクリームのように美味しそうに見えた。山奥の道路に沿って、ヘビのようにうねりながら伸びるコンクリートの橋が見えてきた。どうやって作ったのか想像できないくらい背の高い橋を見上げると、後ろにひっくり返ってしまいそうだった。橋の向こう側は、雪煙がかかったようにぼんやりとしていて、橋の長さがどれくらいあるのか見当がつかなかった。
「あの橋の上から、はるか下を流れる沢を見てみたいな。」と、とのが言うと、
「おれは行かない。アパートのベランダからすべり落ちてから、高いところは嫌いになったんだ。」と、ヴァロンがめずらしく弱気なことを言った。しかし、ここまで来て橋を渡らないのは、フレンチのメイン料理を食べないのと同じだと、とのが執拗に主張したので、ヴァロンはしぶしぶついていくことにした。
道路から橋げたの取りつけ部に足を踏み入れると、圧雪状態の路面はツルツルに凍りついていて、爪を出さないと、左右にうねる橋から滑り落ちてしまいそうになった。
「ひぇー、ジェットコースターみたいだ。」
とのは、爪を出したり引っ込めたりして、楽しそうにすいすいと路面を滑った。南国系の血統のヴァロンには、こんなところで遊ぶとのの神経が理解できなかった。
とのの後ろをよちよち歩いていたヴァロンが、十数メートル前方の下り勾配付近に、急カーブを見つけて叫んだ。
「との、気をつけろ!」
スピードに乗ったとのは、急カーブに向かってまっすぐ突っ込んでいき、舞い上がる雪煙の中に姿を消した。その橋には車止め用の丈夫な鋼鉄の欄干があり、そこに吹きつけた大量の雪がまだ残っていて、とのの身体はその雪のクッションの中にすっぽり埋もれていた。自力で脱出できず、ヴァロンに引っ張り出されたとのは、「えへへ」と照れ笑いするしかなかった。
カーブを曲がると、前方に立ちはだかった山脈の斜面にトンネルの入り口が見えた。
トンネルの穴の上には、
『TNKトンネル』(注意:とてつもなく長く暗いトンネルにつき、徒歩で入るべからず)
と、アーチ型に大きく表示されていた。入り口まで近づくと、省エネのためか、トンネルの中は灯りひとつなく真っ暗だった。
「どこに通じているんだろうね?」
二匹は互いに顔を見合わせた。
「入ってもいいのかな。」
とのが、真っ暗で何も見えないトンネルの中を、怖い物見たさにのぞき込むようにして言った。
「こんな不気味なトンネルに入る物好きはおらんだろう。」
ヴァロンは、入りたそうにしているとのに向かって、きつい口調で言った。
そのとき、真っ黒な穴の中から、二匹が吹き飛ばされそうになるくらい、強い風が吹いてきた。気温が急に下がり始め、山から低地に向かって風が吹き降りてくる時間だった。すると、穴の奥から風の音に混じって、かすかにカツカツカツという音が聞こえた。ごく小さな音だったが、二匹の耳は、その音がどれくらい離れたところから聞こえてくるか推測できた。
「十キロメートル先から、硬い靴をはいた大勢の足が走ってくるよ!」
好奇心旺盛なとのも、さすがに穴に入ろうという気にはなれなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと耳をそばだてていた二匹の頭の中は、トンネル内をこだまするごうごうという騒音ではち切れそうになっていた。
「どうしよう。すぐそこまで来ているよ。」
とのとヴァロンは、しっかりと抱き合ってその場に凍りついた。すると、ぴたっとそのごう音が止んだと思ったら、トンネルの開口部のすぐ間際から、ヒューヒューブルブルといくつもの荒い息づかいが聞こえた。得体の知れない生き物が、真っ暗な中から少しずつ近づいてきた。夕方の淡い光に照らされて見えたのは、ふさふさとしたたてがみを持つ顔の長い生き物だった。十頭ほどの馬の一群がそこから姿を現した。山のように大きな馬たちの足許には、小柄な背丈の二頭の子馬がいた。子馬たちの細長い四本の脚は、丸々と太ったとのが背中に飛び乗ったら、よろめいてしまうのではと思うくらいきゃしゃだった。
「ここで何してるの?」
互いにびっくりしてそう言った。
「わたしらは、ここの山野をねぐらにして自力で生活しているのさ。」
南の土地に住んでいた彼らの祖先は、人によって無理やり連れてこられたのだが、厳しい風土に適合し、春から秋まで人の仕事に従事し、冬になると原始の自然が残るこの深い山脈に放たれた。その後、機械の登場によって、昭和五十年代には馬たちの仕事は完全になくなった。人に使役されたことがある仲間は、今では三十才前後のほんの数頭のみになった。現在、彼らは人の手から離れ、仲間の数を減らしはしたが、年中、笹などの食べ物がある山野を駆け巡りながら、野生の生き方をする自由を得た。
「冬の自由を待ち望みながら、人のために仕事をしたころを懐かしく思い出すことがある。」
彼らは、今も、ときどき人と会って情報交換したり、牧場のサラブレッドなどを誘い出して新しい血を入れたりしていた。他の家畜化された動物や野生動物には、まねができないしなやかな生き方だ。
「ぼくらはあるものを探しに来たんだ。知っていたら教えてもらえないかな?」
二匹はおずおずと聞いた。
「わたしらが知っているものなら、教えてあげるよ。」
馬たちは思ったより気さくだった。
「この地方に、龍に似た怪物が住んでいるというのは、ほんとうなの?」
「あぁ、ここは龍高岳連峰と呼ばれているところで、このあたりを住処にしている者は、よく知っているよ。そいつは大地の奥深くにひそむ巨大な怪物で、ときどき身体を動かすことがある。すると、大地がその怪物のパワーに耐えきれなくなり、ぐにゃりとうねるのだそうだが、誰もその実物の姿がどうなっているのか見たことはないよ。」
「そうか、君たちも見たことがないのか。」
「この山脈の最も高い峰に登り、この島を見まわしてごらん。海に水没する岬の尻尾、いくつものこぶが際限なく連なる背中のような山並み、ごつごつした両翼をいっぱいに広げた半島、二つの大きなギョロッとした目みたいな浮き島、それらを見たら、君たちはなにかを感じとれるかもしれない。」
「案内してあげよう。この山脈最高峰の山へ。」
馬たちの案内で、山奥にどんどん分け入っていくと、そこは陽射しが届かない鬱蒼とした原始林の迷路だった。
「ぼくたちだけでは戻れないね。」
とのとヴァロンは身体を寄せ合って歩いた。
急な斜面を下りていくと、突然森林が切れ、周囲が見渡せるくらいの小さな沼の縁にたどり着いた。周囲一キロメートルほどだろう。その丸い水たまりには数え切れないたくさんの渓流が流れ込み、一本の川となって海に流れていく。雪解けが始まると、ごうごうと流れる水音がずっと先の海岸まで届くのだった。
以前、水量がもっとも多くなる時期に、渓流をカヌーで下ってきた冒険者が、小さな沼に沈んだまま浮かんでこなかったことがあったそうだ。
「この渓流沿いに登っていくと、この山脈最高峰のP岳の頂に行くことができる。私らは海岸で魚を捕まえているから、またあとで会おう。」
馬たちとはそこでいったん別れた。
二匹は、頂上にやっとのことで到着。北北西の方角を仰ぎ見ると、前方にだらだらとうねって続く稜線ははるかかなたの白い雲の中に消えていた。その雲の向こう、数百キロメートル先には、旭岳や黒岳といった険峻な山々を擁す大雪山系が連なっているはずだった。 後ろを振り向くと、やはり尖った稜線の長さに圧倒されたが、峰々は徐々に高度を下げていき、確かに山脈の尻尾は海の中へ吸い込まれていた。
とのとヴァロンがへばりついた稜線から広がる左右両翼の様相は全く異なっていた。左手には日を受けて魚の鱗のようにぎらぎら輝き、細かく波打つ海面が見えた。右手には低く垂れこめた厚い雲から、水蒸気のような薄い雲が切れ切れに吹き上げてくる様子が見えた。二匹はテレビで見た戦争映画の登場人物のように、凍りついた狭い尾根道を腹這いでそろそろと前進した。
そのとき、山の底の方から力づくで、ぐいっと上に持ち上げるような震動があった。縦揺れに加え、大きく波打つような横揺れが始まり、とのとヴァロンは、自分たちの身体が尾根から振り落とされるのではないかという恐怖に襲われて、急いで雪渓の狭いくぼみに飛び込んだ。体のバランスが安定すると、今度はゴォーという低い音の地鳴りが、腹這いになっている彼らの身体に伝わってきた。その大きな揺れと細かい震動の感触は、これから何か大変なことが起きる兆しのように感じられ、気持ちが悪くてたまらなかった。
「あれぇ、尻尾が動いてる!」
ヴァロンのうわずった声が聞こえた。とのが思わず後方を見ると、岬の向こうの海に、白く泡立つ波が沖の方に何百メートルも筋を引き、その筋が左右に大きく揺れ動くのが見えた。まるで海の中に潜んでいた岬の尻尾が、眠りから覚めて泳ぎだしたかのような光景だった。
「龍が何かをしようとしている。」と、とのは思った。
大きな揺れと地響きはどれくらいの時間続いただろう。収まったところを見計らって、安全が保証されるわけでもないのに、二匹は転げるように見通しのよい海側の斜面を下り、背の高いダケカンバの山林の中に逃げ込んだ。
馬たちがいる海岸に向かった。津波はだいじょうぶだろうか。切り立った海岸段丘の上に出たが、そこからは馬たちの姿は見えなかった。
岩場ばかりの海岸沿いに、木柵に囲まれた小さな展望台があり、その片隅に大きな石が置かれていた。波に洗われて角が丸くなったようにずんぐりしたその石は、近くの海岸に転がっている石の群と形がそっくりで、それらの中からひとつだけ選ばれたものであることは間違いなかった。
周囲には人が作った舗装道路と段丘をくぐり抜ける短いトンネルがあったが、集落は見あたらず、人の気配はまったくなかった。その辺りは日当たりがよく、冬の間積もったはずの雪はすっかり消えていた。展望台に上がってみると、そこに置かれた石は、人を飲み込むほど大きく、二匹の目線からは石のてっぺんが空と同じ高さに見えるくらい背が高かった。巨石の一面だけがていねいにつるつるにみがかれていて、大きな字が横書きに刻んであった。
「龍尾岬海道」
石碑があるこの場所は、岬から何十キロも離れているはずだ。この石碑は何のために建てられたんだろう?
急に、海岸の岩場にうち寄せる波の音が大きくなり、その音は、大勢の人々が一斉にはやし立てる声のように聞こえた。ふと、正面にいるヴァロンの身体のまわりに、黒い小さな紙の切れ端のようなものが何枚もふわふわと舞っていることに、とのは気がついた。それらは下に落ちてくるでもなく、強い風に吹かれて飛んでいくでもなく、辺りの景観と切り離されたまったく別の物体のように見えた。まるで海岸線の荒々しい自然のスクリーンに映る異次元の映像だった。
「気持ち悪いよ。」
ヴァロンがとのの頭上を指さして叫んだ。とのの顔の前にもそのゴミは漂ってきていた。
「とのは黒いから大丈夫だけど、そんな黒いゴミが身体についたらせっかくの男前が台無しだよ。」
ヴァロンは、自分の顔や身体や尻尾をしきりに短い手足で払った。
そのとき、遠くから、いくつもの蹄の音が聞こえてきた。さっき会った馬たちが段丘からかけ下りてきたのだ。すると、人声にそっくりな波音の喧噪がぴたっとおさまった。たった今まで激しく押し寄せていた波は、馬たちの勢いによってかき消されてしまった。ヴァロンを見ると、顔や身体の毛に張り付いたと思われた黒いゴミも、どこにもその痕跡が残っていなかった。
二匹は、周囲を気にしながら息をつめて、今見聞きしたことを馬たちに話すと、彼らは平然として言った。
「この辺りの海では、船の事故で、大勢の人が亡くなっているからね。」
でも、とのには、そのことが何かの警告を意味しているように思えて、身体の震えがなかなか止まらなかった。
とのとヴァロンは、馬たちの背中に乗せてもらった。馬たちの身体には冬毛がまだ生えていて、肉球でしっかりとつかむことができたので、振り落とされる心配はなかった。馬たちの歩みは思ったほど速くなかった。というより遅かった。振り返ると、最後尾からついてくる馬の歩みに他の馬たちが合わせていたのだ。
その馬は身体全体に張りがなく、かなり年取って見えた。足が遅いとのを置いてきぼりにするヴァロンに、馬たちのやさしさを見習ってほしかった。
「おれを馬と比べるなよ。猫は気が短いんだから。」
ヴァロンは、自分を見るとのの厳しい目つきに気がついて、先手を打った。
「やっぱりヴァロンは後ろめたく思っているんだろ。」
二匹の言い争いを、馬たちは笑って聞いていた。
「ところで、外敵に襲われそうになったときは、どうするの?」ヴァロンがとのにかまわず、馬たちに話しかけた。
「オオカミが姿を消した今、敵はどこにもいないさ。」
「銃を持った人間や熊が怖くないの?」
「狩人に遭ったときは、必ずいなないて間違って撃たれないように気をつけている。」
馬は、無差別に撃たれる鹿たちのことを思い、目を伏せながら言った。
「熊たちとは昔から気が合う仲間だよ。」
馬たちは、熊とのつき合いを話してくれた。
「私らの祖先が南方からこの土地に連れてこられたころから、熊たちは、私らには掘り出せない地中の草の根やいも類を分けてくれた。」
馬たちは、遠い過去の記憶を振り返って、懐かしそうに言った。
「新天地をめざして、いっしょに旅したこともあるよ。渡島半島を出発し、後志山や樽前山を仰ぎ見ながら勇払の湿原をわたり、この深い山脈をたどって北の大雪山系に行った者や、山脈を横切って東側の十勝平野を抜け釧路まで到達したつわものもいた。今では、森林があちこちで寸断されてしまったから、そんな大冒険はできなくなったが。」
ヴァロンはしつこく食い下がった。
「じゃあ、オオカミがまだ元気だったころ、君たちが闘った記録があるんだね?」
馬は言いにくそうだった。
「どうやって闘ったの?」とヴァロンは追い打ちをかけた。
「剣を振るって闘ったという言い伝えがあるよ。」と馬たちはおずおずと言った。
「うわぁ、龍みたいだ。龍は尻尾から剣を抜いたんだよね?」と、ヴァロンが興奮ぎみに言った。
「ちょっと違うね。」とのが話に割って入ってきた。
「父さんから聞いた話だけど、身体の中に剣をしまっていたのはヤマタノオロチといって、出雲の国の神話に出てくる大蛇だよ。」
とのは知ったかぶりの顔をして、その神話は、古代ヤマトの勢力が、そのころ日本列島唯一の出雲製鉄所を襲撃して、鉄の武器と製鉄の技術者を奪った話だと言った。続けて、そのときのヤマト軍の指揮官スサノオの作戦は、内地の人々が後年、この土地の先住民の頭領を謀殺したやり方と同じで、八頭の大蛇においしい酒をたくさん飲ませて、酔っぱらって眠ったところを襲ったという話をした。
「出雲の人たちは怒っただろうね。」
神妙な顔をして馬たちが言った。
「出雲の勢力はヤマトによって制圧されたけど、出雲のお祭りは日本全国津々浦々まで広まったんだって。」
とのが得意そうに言った。
「そうか、出雲の人たちは剣の力でなく、思想によってヤマトに立ち向かったんだ。」
馬たちは感心したように大きな息をついた。
「出雲の人たちの思想って、龍の神話となにか関係があるのかな。」とのは、ふとそう思った。
とのたちは、山に登る前に通りすぎた沼の近くまで戻ってきた。山頂で遭遇した地震のせいなのか、さっきまで穏やかだった沼は、荒々しい勢いで流れ込む渓流の水によって泡立ち、盛り上がった沼の水が一本の川めがけて押し寄せていた。このままでは、沼から流れ出している川は、まもなくあふれてしまうだろう。
「沼の下流の集落が危ない!」
馬たちの群れの中から頑丈そうな二頭が走り出した。とのとヴァロンも馬たちの背中に乗った。数キロ先の沢づたいには、農業者の住む小さな集落があり、四、五軒の民家と十棟程度のビニールハウスが散在していた。一軒の古びてはいたが、他の家の倍ほどもある民家の前庭に走り込み、馬たちは大きくいなないた。民家からすぐ人が飛び出した。
「何か大変なことがあったんだな。」
馬の体格に負けないくらい大きな身体の男が、馬たちの真正面に仁王立ちした。その男が両腕を振り上げたとき、大鷲が羽を広げたようにばさばさと大きな音がした。
「よし、わかった。みんなを避難させよう。」
大きな男は、そう言って声を張り上げた。
「村のみんな!山へ逃げろ!」
とのとヴァロンは思わず両手で耳をふさいだ。男が発したごう音は、二匹の身体を馬の背中から吹き飛ばすかと思われるほど強烈だった。
「鼓膜が破れるかと思ったよ。」
とのは、両耳に突っ込んだ肉球を恐る恐る引き抜いて、ヴァロンに言った。馬たちも、集落の人たちといっしょに高台に向かって走った。数分後、川岸からあふれ出した濁水は、低い土地に建ち並ぶビニールハウス群に襲いかかった。あらかたのビニールハウスは、水の勢いによってもみくちゃにされ、ハウスの中の大きく育ったトマトの苗もろとも、またたく間に下流に押し流された。
「住む家が残ってよかったと思うしかないなぁ。」
大男は、馬たちに向かって家に寄っていけと言いながら、馬の背中にへばりついた二匹の猫に初めて気が付いた。男は、こんなところにどうして猫が?という目をして絶句した。
とのたちは、大男に誘われるまま、その辺りでも珍しい茅葺き屋根の大きな民家の前に戻った。落ち着いてその家を見ると、こんもりとした小山のように重厚な威容に圧倒された。なんの必要があってこんなに大きな家を建てたのか不思議だった。玄関口の重い引き戸を開けて中に入ると、相撲の土俵を作れそうなだだっ広い土間があり、その奥に、高い天井に向かって太い木が幾重にも組み上げられた、洞穴のように暗い室内が見えた。そこは、昔使っていた囲炉裏の煙にいぶられて、炭を練りこんだように黒々としていた。その二十畳もありそうな囲炉裏部屋の床には、獣の毛皮が一面に敷きつめられていた。とのとヴァロンは性癖にしたがって、なめらかな光沢を放つ毛皮の匂いをしつこくかいでみたが、長い間煙にさらされ、人や動物の足に踏まれたためか、その毛皮の主を判別することはできなかった。
「この辺りは、熊の巣と言われたくらい、熊が多い土地だった。この毛皮は、ずっと昔、わしの父親が三年がかりで捕らえた熊の皮だ。六百キロもの大物だったそうだ。」
体重が六百キログラムもある動物とは、鯨、ゾウやカバなどの別格を除けば、哺乳動物たちの中でもっとも重い部類だ。
「図体だって、馬より一回り大きかったんだ。」
無精ひげを生やした年齢不詳の大男は、薄暗い部屋の真ん中にどかっと座ったまま、得意そうな顔で言った。すると、彼の身体は、にわかに黒々とした壁や調度品、そして床の毛皮の色にとけ込んで、輪郭が不鮮明になった。とのとヴァロンのこわばった顔を見た男は、にやにやしながら言った。
「怖がることはない。こんな山奥に住んでいても熊の害はほとんどない。山は人間のものではなく彼らのものだから、わしらは、必要なとき以外、むやみに山に入って彼らを驚かすようなことはしない。」
現代よりはるかに熊の数が多かった時代、内地や外国からやって来た人たちの旅行記に熊を恐れる記述がほとんどないのは、現地に昔から住むこの大男のような人々に従って行動したからにちがいない。しかし、とのたちが恐れたのは、まだ見たことがない本物の熊ではなく、目の前にいる熊のような男に対してだった。
大男はどんどん熊の皮に埋もれていった。いつのまにか身体が真っ黒な巨大な塊になり、頭に大きな耳が突き出し、黒い顔の真ん中には黒光りする大きな鼻がひくひくと動いた。
「こうして熊の皮に包まれていると、昔々なめとこ山でまたぎをしていた小十郎という男のように、熊の言葉を聞き分けられそうな気分になるよ。きっと小十郎は向こう側の世界で熊だったんだな。」
目の前の不気味な光景は、二匹の逞しい想像力のせいではなかった。実際に大男は本物のクマの姿に変身していった。とのはこの家からすぐにでも退散したかったが、その前に聞いておきたいことがあった。
「おじさんは、馬や鹿やぼくらの言葉もわかるの?」
「あぁ、耳を澄ませば、この山の生き物たちはそれぞれ固い意志を持って、なにかを伝え合っていることがよくわかる。わしもその中に入れてもらいたいよ。」
大男は、できるだけ人里離れた山奥で自給自足の生活を続けて、人の醜い怒りとか憎しみといった感情をきれいに洗い流してしまいたい、人間たちは気が狂ったと思うだろうがね、と言った。
「人と動植物との違いなんてものはもともとなかったし、そればかりか、山や川や海といった自然界の意志さえ、そこにいる生き物たちの意志と同じものだったんだ。」
男の口調は、自分自身に言い聞かせているようだった。
「それにしても暑苦しいなぁ。」
自分の顔の前に突き出した大男の両手は、曲がった鉄釘のような爪が生え、長い密集した毛が垂れ下がり、剣先スコップのように巨大だった。その両手で、自分の頭を鷲づかみにしたかと思うと、上方にそれを持ち上げ始めた。すると、ずるずるという音がして人の顔が現れた。
「びっくりしたかい? 熊の頭蓋骨をかぶってみたんだ。五十年以上も前のことになるが、この家には熊祭りの祭壇が何度も作られたんだ。」
とのは思わず身震いして、大男のすぐ後ろの暗がりから、もう一頭、熊が現れやしないかと部屋の中をくまなく見渡した。
「熊祭りを知ってるかい? 熊は、彼らが住む世界では人と同じ姿をした生き物なのだ。彼らがこの世に、肉や皮などの貴重な贈り物を持ってきてくれるので、人は最大の感謝の気持ちをこめて熊を祭り、魂を彼らの本拠地に送るのだ。熊は礼儀正しい生き物だから、彼らの世界に遊びにやってくる人を、同じ方法でもてなしているんだよ。」
大男の目は、古びた薄暗い家の境界をすり抜け、はるかかなたの宇宙を見つめる青い光を湛えた。そして、深い眠りに落ちたように、しばらく黙りこくってしまった。とのや馬たちも、大男のまどろみに引き込まれ、時間のゆっくりした流れの中でうとうとした。すると、大男は我に返って、人の世界はもう飽き飽きだが、人としての記憶がなくなる前に、話しておきたいことがある、と次のような話を始めた。
大男の両親は、先祖から受け継いだ、平地の少ない山奥のわずかばかりの土地で、細々と農業をやっていた。それだけでは暮らせないので、山に入って、炭を焼いたり、動物を獲って食い物に充てていた。世の中が経済的にどんどん豊かになっても、彼らだけは違う国に住んでいるかのように、生活の改善するきざしはまったくなかった。
大男は、両親に対し、なんのためにこの土地に執着して農業を続けているのか、何度か議論をふっかけたことがあった。その度に、両親はここにこだわる理由について言葉を濁した。その曖昧さに男はイライラを募らせ、両親を大声で責め立てた。高校を卒業したらすぐにでも、家を飛び出そうと考えていた。
その矢先、父親が山へ入ったきり姿を消してしまった。行方不明になって半年ほど経ってから、山脈の奥へ入り込んだ登山者によって、偶然、白骨死体が発見された。DNA鑑定の結果、その骨は父親であることが確定した。死亡原因の調査のため、警察が辺りを探ってみると、もうひとつ、人の三倍もある白骨が転がっていた。専門家に見せると熊の骨だとすぐわかった。熊を撃ちそこなって逆襲を受け、相討ちしたのではないかと推理する者もいたが、父親の銃には発砲の痕跡がなく、二体の骨に争った傷が付いていたわけでもなかった。両方の骨の配置を見るとなんだか並んで寝ていたようにも感じられた。真相はわからずじまいだった。
残された母親と大男は生活の術を失って途方に暮れた。大男は体が大きいだけで、斜面だらけの農地を耕すことも、山に入ることも、ほとんど経験がなかった。この地を飛び出したいと思っていたのに、母親を置き去りにして、自分だけ逃げ出すことはできなかった。自立することとは、父親がいるからできることであって、今となっては、どうして子どもの甘えから脱したらいいのだろうと悩んだ。
大男は、近所の人たちのアドバイスを受け、見よう見まねで農業を始めたのだが、次第に農地も山も荒れていき、生活の困窮も深まっていった。そのころ、農業政策の変化に伴い、周囲の集落からも離農者が相次ぐようになった。彼らに代わり、大資本や農家集団による経営が導入され、跡地は広大な牧場と数え切れない牛と馬の群によって占領された。山々の木々はぼろぼろに切り刻まれた。しかし、男は相変わらず、山裾にへばりついたわずかな農地を耕し貧乏していた。ほどなく母親が亡くなった。母親が死の床で苦しい息をしながら振り絞るように語った言葉が、男の記憶にいつまでも残った。母が話したのは、生前の父の言葉だった。父親はこう言ったという。
「ここ一帯は、はるか昔の人々が俺たちに預けていった土地なのだ。自分のものと思って処分することはまかりならない。」
一人取り残された大男は、定住する覚悟をしたわけではなかったが、当面、土地から離れられなくなり、自給的な農業を続けた。あるとき、所有地内で河川や道路の改修工事の計画が持ち上がった。
土地の人たちの多くは、災害から土地を守り、交通の便が良くなる工事を歓迎した。一方、大男は、自然豊かな環境と地域の資源を守りたいという気持ちから、公共工事に対し許しがたい暴挙だと抗議した。このため、工事は無理な計画変更を余儀なくされたり、中止に追い込まれたりした。大男は、始めから地域の人たちを怒らせようと思ったのではなかったが、古いムラ社会では、意見が食い違うと人間関係自体がぎくしゃくし、ついには険悪になった。大男と世間とのつき合いはほぼ皆無になった。
その土地の数十キロメートル南には海が広がっていた。秋になるとはるか南方からわき上がる低気圧が海岸付近をかすめていくことがあった。その年は例年になく、低気圧が北上して、大男の農地の裏山を激しく襲ったため、斜面の数ヶ所で土砂崩れが起こった。その崩れた斜面の中でも酷くやられた現場で、奇妙な木柵の一部を発見した。相当古いものだったが、ずいぶん頑丈に作られていて、柵そのものにはそれほど被害はなかった。好奇心をかき立てられた男は、数枚の板を切り取って、そこから柵の内側にもぐり込んでみた。真っ暗闇の中に、懐中電灯の光に照らされて浮かび上がったのは、二十畳ほどの広さの空間だった。数歩足を進めたとき、長靴が地面を突き破り、膝までめり込んでしまった。足を抜こうとして伸ばした手が、重みのある固い板のようなものに触れた。それを拾い上げ、電灯のまばゆい光を泥だらけの板状のものに当てたとき、大男は驚きのあまりその場にしゃがみこんでしまった。泥の流れた部分が明らかに金色に輝いていたのだ。この日から、父親が崖っぷちの奥に金塊が埋まっていることを知っていたのだろうか、という疑念が頭から離れなかった。
その後の生活は、以前にも増して、ほとんど周囲とつき合いのない孤立したものになった。たった一人で、百年ほど前の先住の人たちの生活を習って、山や川からの恵みと小さな畑で採れるわずかな作物だけの不自由な生活を自分に課した。その生活に慣れてきた彼にとって、それは困難なことではなかったが、世間の人々には到底受け入れられる試みではなかった。
「人の寿命なんて、おおかたの動物とそれほど変わらないのだ。彼らのように自分の基礎代謝に見合う分だけの食料と、人に危害を加える生き物が侵入できないくらいの住居を持ち、たまに遊びに来てくれるやさしい動物たちがいれば、それ以上望むべきではない。人は孤独の中で死ぬことはあっても、孤立した生活に耐えられないわけがない。」
彼が本気で言っているのかどうか誰にもわからなかった。
「この熊の装束を着て山野をうろつくうちに、自分が人だか熊だかわからなくなる。そんなとき、猟師にズドンと殺られるのも悪くはないな。」
彼は、人社会からなんと言われようと、今の生活を貫こうと考えていた。
「誰一人知る者はないが、この土地は世にもまれな黄金郷なのだ。」
そのとき、戸外に地面を踏みつける大きな音が響き、何者かが引き戸を壊れるような音を立てて開けた。「大変だ! 子どもたちが人間にさらわれた。」
まだ若々しい一頭の雄馬が、大きな息を吐きながら叫んだ。彼の慌てた話の中から理解できた内容とは次のようなものだった。
木立の陰に馬たちがたたずんでいたら、鉄砲の発射音がすぐ近くで聞こえた。数人の鹿撃ちの人間たちが、自分たちをねらっている気配がしたので、数頭が一斉にいなないて獲物でないことを知らせた。慎重に近づいてきた人間たちは、馬たちが逃げないのを見て、なにやら相談すると、群の中に押し入り、生まれたばかりの無抵抗の二頭の子馬を無理やり抱きかかえ、連れて行ってしまった。男たちの口から、カネ、カネという言葉が何度も発せられた。不意をつかれたこともあったが、人間と争いを起こすことが嫌いな馬たちは、そのまま見送るしかなかったという。
「どこへ連れて行ったんだ!」と、とのたちを乗せてくれた二頭の馬は、怒りに震える声で言った。
「この辺に狩りに来る人間たちの居場所は、きっと西の沢の上流にある山小屋のはずだ。」
大男が確信ありげに言った。
馬たちが駆け出そうとしたとき、大男は両腕を上げて押しとどめた。
「わしもいっしょに行くぞ。野生の馬を捕獲するやつらを許してはおけない。」
二匹の猫と男は、三頭の馬の背につかまり、一斉にかけだした。
とのたちを乗せた馬は、テレビなどで見慣れたサラブレッドに比べ、背丈は多少低いが横幅は倍くらいあって、熊のように大きな男さえ、馬の背中ではこぢんまり見えた。その馬たちが道らしきもののない山中を自在に早足でかけていくと、細めの灌木などは、馬たちの頭や盛り上がった両肩にぶつかってたちまちはじけ飛んだ。その残骸が、とのたちの頭上に紙吹雪のようにバラバラと降ってくるのでちょっと閉口した。馬たちは目的地の方向をどうやって確かめているのかわからなかったが、まるで連れ去られた子馬の声が聞こえるように、歩みに逡巡するところはまったくなかった。
「野生の感覚を持った生き物は、自然の中で迷うことなんかないんだ。」
大男が得意げに言い放った。
「自然界の意志がわかるということなんだろうか?」
ヴァロンが恐る恐る尋ねた。
「あぁ、意志を共有しているというか、互いに共感しているというか、なにしろ、もともと同じものなんだから、わかり合って当然なんだよ。」と男が言ったが、とのには理解できなかった。
「焦ることはない。そのへっぴり腰がしゃんとするころには、なにかじわっとくるものがあるさ。」と大男はとのとヴァロンの乗馬の姿勢を見て笑った。
「ぼくら猫族は、弱い動物をいたぶるのが大好きで、おまけに仲間同士で群れない性質の動物なんだよ。だから、周囲の自然は、ぼくらを警戒して話しかけてくれることはないと思う。」とヴァロンが真面目な顔をして言った。
「群を作る動物だって、雄は必ず自分の生まれ育った群を出て、長い年月一人さまよい、運のいい者だけが別の群に受け入れてもらえる。彼らはたとえ野たれ死にしようと、元の群には絶対戻らないのだ。」と男は神妙に言った。
「彼らは何を考えながら一人っきりでさまようんだろう?」とヴァロンが独り言のように尋ねると、とのがちょっとうわずった声で恥ずかしそうに言った。
「ぼくはいつも父さんと母さんのことを考えているよ。」
小一時間後には、西の沢の上流の高台に出た。その高台から、傾きかけた狩猟者用の山小屋を見下ろすことができた。山小屋の前には、ロープにつながれた二頭の子馬がいた。怪我などはしていない様子だ。そこには小型トラックが止まっており、小屋の中に明らかに人の気配があった。馬たちははやる気持ちを抑え、息を殺して様子を見守った。とのとヴァロンは、彼らの張りつめた気持ちに圧倒されて、身じろぎひとつできなかった。
そのとき、小屋から数人の人間が出てきた。三頭の馬たちは、どの馬が声をかけるでもなく、一斉に急斜面を駆け下った。下界の人間たちは何が起きたのかしばらく理解できず、猛烈な勢いで迫ってくる黒い固まりを恐れおののいた表情で見つめて凍りついた。その物体が間近に迫ってから、彼らはやっと正気に戻ったようだった。馬の蹄に蹴散らされないため、小屋の中にあわてふためいて逃げ込むのがせいいっぱいだった。
馬たちが子馬のロープを丈夫な歯で食いちぎると、申し合わせたように、馬上の大男が子馬を両腋に抱え上げた。三頭の馬はその場をあっという間に立ち去った。
彼らは仲間の馬たちと合流し、とのたちと初めて出会ったトンネルの入り口まで一目散に走った。
「なんと感謝していいか、とても言葉では言い表せない。」
馬たちはそう言って、とのとヴァロンと大男に向かって何度もお辞儀をした。このトンネルを抜け、北か東の方の土地に移動して、しばらくここには戻らない、と彼らは言い残し、黒い蓋をしたようなトンネルの中に次々と消えて行った。
トンネルからの帰り道、大男は幾度となく熊祭りという言葉を口にした。熊祭りはすっかり絶えてしまったが、仮に今、祭りを実行しても、実生活から切り離された形ばかりの祭りに、あのころの魂が宿ることはない。今の世で、祭りから神話を読みとれるのは、わしらのような自然人や猫や馬たちだけになってしまった。
彼はそのようなことをぶつぶつとしゃべり続け、別れの時、身体にかけていた大きな熊皮をスピーカーのように広げ、大音声を発した。耳を覆うばかりのその声は、雪深い山々の斜面を大風になって吹き抜け、黒々とした針葉樹の尖った葉々と枯れ木のような広葉樹の枝先を振るわせて、さらに音量を増幅し、とのとヴァロンの方に向かってはね返ってきた。
「わしは熊になるぞ!」
その響きは、先ほどの地震の再来のようにも聞こえ、とのとヴァロンは震え上がった。
とのとヴァロンは、帰り道の途中、海岸段丘の上から断崖の下を見つめる数頭の鹿たちに出会った。断崖の急な斜面は、淡い陽射しを受けて解けかかった雪と、雪の下からわずかに見える枯れ草によって一面覆われていた。鹿たちの足許から数メートル下の斜面の途中には、四つの足を折って腹這いになった一頭の小柄な鹿がいた。雪原に半分埋もれた小さな鹿は首をうなだれたままで、斜面を登ることはとうていできる様子ではなかった。
そのとき、見下ろしていた鹿たちが一斉に踵を返したので、すぐ後ろにいたとのとヴァロンは鹿たちと目を合わせてしまった。すると、いちばん背の高い一頭がとのたち目がけて、大きな角を数回振るった。明らかに、「何を見ているんだ、あっちへ行け。」と、二匹を威嚇する行為だった。二匹はびっくりして飛び退いたが、鹿たちはそれ以上なにもせず、その場から黙ったまま走り去った。鹿たちが威嚇したのは、本能的に狩猟動物を嫌うからなのだろうか。それとも子どもの鹿を置き去りにする姿を見られたくなかったからそうしたのだろうか。
とのたちは家路をたどりながら、互いに顔を見合わせることもなく、うつむいたまま一目散に駆けた。二匹は同じ想像をしていた。あの小さな鹿はほどなく肉食の動物たちに身体を引き裂かれ、ついばまれるだろう。しかし、それは仕方がないことであり、誰にも止められないのだ。猫だって危害を加える側の動物であり、自分より力がない動物を見ると、狩猟本能がくすぐられ、恨みも怒りもないまま、つい飛びかかってしまう。
育児に参加することがない雄猫はとくに冷酷だ。函館にいた「ヒゲ」は、発情期が来たとき、母猫にまだ甘えてくっついていた子猫をかみ殺したという。理由は明快だ。子孫繁栄を邪魔する親離れできない者を、自然の掟は容赦しないのだ。
「そんなことないよ。」突然ヴァロンが独り言を言った。
確かに例外があった。ヴァロンは、自分の家の三匹の雌猫にとのを加え、四匹の子猫の世話をかいがいしく焼いて、雄猫にも育児能力があることを証明した。
我に返った二匹は、急に胸につかえていたことを話し出した。
「鹿たちは冷酷な気持ちで子鹿を置き去りにしたんじゃないよね?」「胸が張り裂けそうだったかもしれないよね?」「ぼくたちにはどうすることもできないけど、ひょっとしたら助けてくれる人がいるかもしれないよね?」(第2 とのの帰還 了)
暁彦と奈月が、とのから聞き出した話をこれから紹介する。なにしろとのの話は、突拍子がなかったり、つじつまが合わないところが多かったりして、彼らは整理するのにずいぶん難儀したようだ。それはともかく、とのの話はこんな感じだった。
とのとヴァロンは、海の見える町の背後から狭い沢を登り、冬の終わりの山脈に入り込んだ。雪だらけの山には、猫にとってそれほどおもしろいものはないだろうと思っていたのだが、さまざまな生き物たちの、それぞれの習性のおもむくまま、たくましく活動する姿を目の当たりにした。とにかく鹿の群れとはいたるところで出くわした。彼らは、皆一様に疲れた様子で、お腹が大きい雌たちをかばいながら餌を求めて移動していた。
「今年は雪が多くて大変だ。こういう年は、餓死する仲間が多いんだ。」
リーダー格と思われるひときわ身体の大きな雄鹿が、前足のひづめで雪をかいた。と思ったら、彼は雪の中から動物の骨格らしきものを掘り出して、「これだよ」と、とのたちに見せた。
「この雪が溶けたら、おれたちの仲間の死骸の、るいるいと横たわる光景が見られるはずだよ。」と、雄鹿は静かな口調で言った。とのとヴァロンは、足許に骨がたくさん埋もれていると思うといい気持ちはしなかったが、雄鹿の威厳が感じられる低い声の響きに圧倒され、無言で彼らの後ろ姿を見送った。
一面真っ白な山脈の中に入り込むと、頂上へのルートがさっぱりわからなくなり、人間が作った歩きやすい雪道を登っていくことにした。両側から迫る山の斜面はだんだん険しくなり、その斜面に作られた頑丈な防雪柵から、少し溶けた雪が盛り上がって、とのたちの頭の上にこぼれ落ちそうになっていた。その光景はとても怖かったが、雪はソフトクリームのように美味しそうに見えた。山奥の道路に沿って、ヘビのようにうねりながら伸びるコンクリートの橋が見えてきた。どうやって作ったのか想像できないくらい背の高い橋を見上げると、後ろにひっくり返ってしまいそうだった。橋の向こう側は、雪煙がかかったようにぼんやりとしていて、橋の長さがどれくらいあるのか見当がつかなかった。
「あの橋の上から、はるか下を流れる沢を見てみたいな。」と、とのが言うと、
「おれは行かない。アパートのベランダからすべり落ちてから、高いところは嫌いになったんだ。」と、ヴァロンがめずらしく弱気なことを言った。しかし、ここまで来て橋を渡らないのは、フレンチのメイン料理を食べないのと同じだと、とのが執拗に主張したので、ヴァロンはしぶしぶついていくことにした。
道路から橋げたの取りつけ部に足を踏み入れると、圧雪状態の路面はツルツルに凍りついていて、爪を出さないと、左右にうねる橋から滑り落ちてしまいそうになった。
「ひぇー、ジェットコースターみたいだ。」
とのは、爪を出したり引っ込めたりして、楽しそうにすいすいと路面を滑った。南国系の血統のヴァロンには、こんなところで遊ぶとのの神経が理解できなかった。
とのの後ろをよちよち歩いていたヴァロンが、十数メートル前方の下り勾配付近に、急カーブを見つけて叫んだ。
「との、気をつけろ!」
スピードに乗ったとのは、急カーブに向かってまっすぐ突っ込んでいき、舞い上がる雪煙の中に姿を消した。その橋には車止め用の丈夫な鋼鉄の欄干があり、そこに吹きつけた大量の雪がまだ残っていて、とのの身体はその雪のクッションの中にすっぽり埋もれていた。自力で脱出できず、ヴァロンに引っ張り出されたとのは、「えへへ」と照れ笑いするしかなかった。
カーブを曲がると、前方に立ちはだかった山脈の斜面にトンネルの入り口が見えた。
トンネルの穴の上には、
『TNKトンネル』(注意:とてつもなく長く暗いトンネルにつき、徒歩で入るべからず)
と、アーチ型に大きく表示されていた。入り口まで近づくと、省エネのためか、トンネルの中は灯りひとつなく真っ暗だった。
「どこに通じているんだろうね?」
二匹は互いに顔を見合わせた。
「入ってもいいのかな。」
とのが、真っ暗で何も見えないトンネルの中を、怖い物見たさにのぞき込むようにして言った。
「こんな不気味なトンネルに入る物好きはおらんだろう。」
ヴァロンは、入りたそうにしているとのに向かって、きつい口調で言った。
そのとき、真っ黒な穴の中から、二匹が吹き飛ばされそうになるくらい、強い風が吹いてきた。気温が急に下がり始め、山から低地に向かって風が吹き降りてくる時間だった。すると、穴の奥から風の音に混じって、かすかにカツカツカツという音が聞こえた。ごく小さな音だったが、二匹の耳は、その音がどれくらい離れたところから聞こえてくるか推測できた。
「十キロメートル先から、硬い靴をはいた大勢の足が走ってくるよ!」
好奇心旺盛なとのも、さすがに穴に入ろうという気にはなれなかった。どれくらいの時間が経っただろうか。ずっと耳をそばだてていた二匹の頭の中は、トンネル内をこだまするごうごうという騒音ではち切れそうになっていた。
「どうしよう。すぐそこまで来ているよ。」
とのとヴァロンは、しっかりと抱き合ってその場に凍りついた。すると、ぴたっとそのごう音が止んだと思ったら、トンネルの開口部のすぐ間際から、ヒューヒューブルブルといくつもの荒い息づかいが聞こえた。得体の知れない生き物が、真っ暗な中から少しずつ近づいてきた。夕方の淡い光に照らされて見えたのは、ふさふさとしたたてがみを持つ顔の長い生き物だった。十頭ほどの馬の一群がそこから姿を現した。山のように大きな馬たちの足許には、小柄な背丈の二頭の子馬がいた。子馬たちの細長い四本の脚は、丸々と太ったとのが背中に飛び乗ったら、よろめいてしまうのではと思うくらいきゃしゃだった。
「ここで何してるの?」
互いにびっくりしてそう言った。
「わたしらは、ここの山野をねぐらにして自力で生活しているのさ。」
南の土地に住んでいた彼らの祖先は、人によって無理やり連れてこられたのだが、厳しい風土に適合し、春から秋まで人の仕事に従事し、冬になると原始の自然が残るこの深い山脈に放たれた。その後、機械の登場によって、昭和五十年代には馬たちの仕事は完全になくなった。人に使役されたことがある仲間は、今では三十才前後のほんの数頭のみになった。現在、彼らは人の手から離れ、仲間の数を減らしはしたが、年中、笹などの食べ物がある山野を駆け巡りながら、野生の生き方をする自由を得た。
「冬の自由を待ち望みながら、人のために仕事をしたころを懐かしく思い出すことがある。」
彼らは、今も、ときどき人と会って情報交換したり、牧場のサラブレッドなどを誘い出して新しい血を入れたりしていた。他の家畜化された動物や野生動物には、まねができないしなやかな生き方だ。
「ぼくらはあるものを探しに来たんだ。知っていたら教えてもらえないかな?」
二匹はおずおずと聞いた。
「わたしらが知っているものなら、教えてあげるよ。」
馬たちは思ったより気さくだった。
「この地方に、龍に似た怪物が住んでいるというのは、ほんとうなの?」
「あぁ、ここは龍高岳連峰と呼ばれているところで、このあたりを住処にしている者は、よく知っているよ。そいつは大地の奥深くにひそむ巨大な怪物で、ときどき身体を動かすことがある。すると、大地がその怪物のパワーに耐えきれなくなり、ぐにゃりとうねるのだそうだが、誰もその実物の姿がどうなっているのか見たことはないよ。」
「そうか、君たちも見たことがないのか。」
「この山脈の最も高い峰に登り、この島を見まわしてごらん。海に水没する岬の尻尾、いくつものこぶが際限なく連なる背中のような山並み、ごつごつした両翼をいっぱいに広げた半島、二つの大きなギョロッとした目みたいな浮き島、それらを見たら、君たちはなにかを感じとれるかもしれない。」
「案内してあげよう。この山脈最高峰の山へ。」
馬たちの案内で、山奥にどんどん分け入っていくと、そこは陽射しが届かない鬱蒼とした原始林の迷路だった。
「ぼくたちだけでは戻れないね。」
とのとヴァロンは身体を寄せ合って歩いた。
急な斜面を下りていくと、突然森林が切れ、周囲が見渡せるくらいの小さな沼の縁にたどり着いた。周囲一キロメートルほどだろう。その丸い水たまりには数え切れないたくさんの渓流が流れ込み、一本の川となって海に流れていく。雪解けが始まると、ごうごうと流れる水音がずっと先の海岸まで届くのだった。
以前、水量がもっとも多くなる時期に、渓流をカヌーで下ってきた冒険者が、小さな沼に沈んだまま浮かんでこなかったことがあったそうだ。
「この渓流沿いに登っていくと、この山脈最高峰のP岳の頂に行くことができる。私らは海岸で魚を捕まえているから、またあとで会おう。」
馬たちとはそこでいったん別れた。
二匹は、頂上にやっとのことで到着。北北西の方角を仰ぎ見ると、前方にだらだらとうねって続く稜線ははるかかなたの白い雲の中に消えていた。その雲の向こう、数百キロメートル先には、旭岳や黒岳といった険峻な山々を擁す大雪山系が連なっているはずだった。 後ろを振り向くと、やはり尖った稜線の長さに圧倒されたが、峰々は徐々に高度を下げていき、確かに山脈の尻尾は海の中へ吸い込まれていた。
とのとヴァロンがへばりついた稜線から広がる左右両翼の様相は全く異なっていた。左手には日を受けて魚の鱗のようにぎらぎら輝き、細かく波打つ海面が見えた。右手には低く垂れこめた厚い雲から、水蒸気のような薄い雲が切れ切れに吹き上げてくる様子が見えた。二匹はテレビで見た戦争映画の登場人物のように、凍りついた狭い尾根道を腹這いでそろそろと前進した。
そのとき、山の底の方から力づくで、ぐいっと上に持ち上げるような震動があった。縦揺れに加え、大きく波打つような横揺れが始まり、とのとヴァロンは、自分たちの身体が尾根から振り落とされるのではないかという恐怖に襲われて、急いで雪渓の狭いくぼみに飛び込んだ。体のバランスが安定すると、今度はゴォーという低い音の地鳴りが、腹這いになっている彼らの身体に伝わってきた。その大きな揺れと細かい震動の感触は、これから何か大変なことが起きる兆しのように感じられ、気持ちが悪くてたまらなかった。
「あれぇ、尻尾が動いてる!」
ヴァロンのうわずった声が聞こえた。とのが思わず後方を見ると、岬の向こうの海に、白く泡立つ波が沖の方に何百メートルも筋を引き、その筋が左右に大きく揺れ動くのが見えた。まるで海の中に潜んでいた岬の尻尾が、眠りから覚めて泳ぎだしたかのような光景だった。
「龍が何かをしようとしている。」と、とのは思った。
大きな揺れと地響きはどれくらいの時間続いただろう。収まったところを見計らって、安全が保証されるわけでもないのに、二匹は転げるように見通しのよい海側の斜面を下り、背の高いダケカンバの山林の中に逃げ込んだ。
馬たちがいる海岸に向かった。津波はだいじょうぶだろうか。切り立った海岸段丘の上に出たが、そこからは馬たちの姿は見えなかった。
岩場ばかりの海岸沿いに、木柵に囲まれた小さな展望台があり、その片隅に大きな石が置かれていた。波に洗われて角が丸くなったようにずんぐりしたその石は、近くの海岸に転がっている石の群と形がそっくりで、それらの中からひとつだけ選ばれたものであることは間違いなかった。
周囲には人が作った舗装道路と段丘をくぐり抜ける短いトンネルがあったが、集落は見あたらず、人の気配はまったくなかった。その辺りは日当たりがよく、冬の間積もったはずの雪はすっかり消えていた。展望台に上がってみると、そこに置かれた石は、人を飲み込むほど大きく、二匹の目線からは石のてっぺんが空と同じ高さに見えるくらい背が高かった。巨石の一面だけがていねいにつるつるにみがかれていて、大きな字が横書きに刻んであった。
「龍尾岬海道」
石碑があるこの場所は、岬から何十キロも離れているはずだ。この石碑は何のために建てられたんだろう?
急に、海岸の岩場にうち寄せる波の音が大きくなり、その音は、大勢の人々が一斉にはやし立てる声のように聞こえた。ふと、正面にいるヴァロンの身体のまわりに、黒い小さな紙の切れ端のようなものが何枚もふわふわと舞っていることに、とのは気がついた。それらは下に落ちてくるでもなく、強い風に吹かれて飛んでいくでもなく、辺りの景観と切り離されたまったく別の物体のように見えた。まるで海岸線の荒々しい自然のスクリーンに映る異次元の映像だった。
「気持ち悪いよ。」
ヴァロンがとのの頭上を指さして叫んだ。とのの顔の前にもそのゴミは漂ってきていた。
「とのは黒いから大丈夫だけど、そんな黒いゴミが身体についたらせっかくの男前が台無しだよ。」
ヴァロンは、自分の顔や身体や尻尾をしきりに短い手足で払った。
そのとき、遠くから、いくつもの蹄の音が聞こえてきた。さっき会った馬たちが段丘からかけ下りてきたのだ。すると、人声にそっくりな波音の喧噪がぴたっとおさまった。たった今まで激しく押し寄せていた波は、馬たちの勢いによってかき消されてしまった。ヴァロンを見ると、顔や身体の毛に張り付いたと思われた黒いゴミも、どこにもその痕跡が残っていなかった。
二匹は、周囲を気にしながら息をつめて、今見聞きしたことを馬たちに話すと、彼らは平然として言った。
「この辺りの海では、船の事故で、大勢の人が亡くなっているからね。」
でも、とのには、そのことが何かの警告を意味しているように思えて、身体の震えがなかなか止まらなかった。
とのとヴァロンは、馬たちの背中に乗せてもらった。馬たちの身体には冬毛がまだ生えていて、肉球でしっかりとつかむことができたので、振り落とされる心配はなかった。馬たちの歩みは思ったほど速くなかった。というより遅かった。振り返ると、最後尾からついてくる馬の歩みに他の馬たちが合わせていたのだ。
その馬は身体全体に張りがなく、かなり年取って見えた。足が遅いとのを置いてきぼりにするヴァロンに、馬たちのやさしさを見習ってほしかった。
「おれを馬と比べるなよ。猫は気が短いんだから。」
ヴァロンは、自分を見るとのの厳しい目つきに気がついて、先手を打った。
「やっぱりヴァロンは後ろめたく思っているんだろ。」
二匹の言い争いを、馬たちは笑って聞いていた。
「ところで、外敵に襲われそうになったときは、どうするの?」ヴァロンがとのにかまわず、馬たちに話しかけた。
「オオカミが姿を消した今、敵はどこにもいないさ。」
「銃を持った人間や熊が怖くないの?」
「狩人に遭ったときは、必ずいなないて間違って撃たれないように気をつけている。」
馬は、無差別に撃たれる鹿たちのことを思い、目を伏せながら言った。
「熊たちとは昔から気が合う仲間だよ。」
馬たちは、熊とのつき合いを話してくれた。
「私らの祖先が南方からこの土地に連れてこられたころから、熊たちは、私らには掘り出せない地中の草の根やいも類を分けてくれた。」
馬たちは、遠い過去の記憶を振り返って、懐かしそうに言った。
「新天地をめざして、いっしょに旅したこともあるよ。渡島半島を出発し、後志山や樽前山を仰ぎ見ながら勇払の湿原をわたり、この深い山脈をたどって北の大雪山系に行った者や、山脈を横切って東側の十勝平野を抜け釧路まで到達したつわものもいた。今では、森林があちこちで寸断されてしまったから、そんな大冒険はできなくなったが。」
ヴァロンはしつこく食い下がった。
「じゃあ、オオカミがまだ元気だったころ、君たちが闘った記録があるんだね?」
馬は言いにくそうだった。
「どうやって闘ったの?」とヴァロンは追い打ちをかけた。
「剣を振るって闘ったという言い伝えがあるよ。」と馬たちはおずおずと言った。
「うわぁ、龍みたいだ。龍は尻尾から剣を抜いたんだよね?」と、ヴァロンが興奮ぎみに言った。
「ちょっと違うね。」とのが話に割って入ってきた。
「父さんから聞いた話だけど、身体の中に剣をしまっていたのはヤマタノオロチといって、出雲の国の神話に出てくる大蛇だよ。」
とのは知ったかぶりの顔をして、その神話は、古代ヤマトの勢力が、そのころ日本列島唯一の出雲製鉄所を襲撃して、鉄の武器と製鉄の技術者を奪った話だと言った。続けて、そのときのヤマト軍の指揮官スサノオの作戦は、内地の人々が後年、この土地の先住民の頭領を謀殺したやり方と同じで、八頭の大蛇においしい酒をたくさん飲ませて、酔っぱらって眠ったところを襲ったという話をした。
「出雲の人たちは怒っただろうね。」
神妙な顔をして馬たちが言った。
「出雲の勢力はヤマトによって制圧されたけど、出雲のお祭りは日本全国津々浦々まで広まったんだって。」
とのが得意そうに言った。
「そうか、出雲の人たちは剣の力でなく、思想によってヤマトに立ち向かったんだ。」
馬たちは感心したように大きな息をついた。
「出雲の人たちの思想って、龍の神話となにか関係があるのかな。」とのは、ふとそう思った。
とのたちは、山に登る前に通りすぎた沼の近くまで戻ってきた。山頂で遭遇した地震のせいなのか、さっきまで穏やかだった沼は、荒々しい勢いで流れ込む渓流の水によって泡立ち、盛り上がった沼の水が一本の川めがけて押し寄せていた。このままでは、沼から流れ出している川は、まもなくあふれてしまうだろう。
「沼の下流の集落が危ない!」
馬たちの群れの中から頑丈そうな二頭が走り出した。とのとヴァロンも馬たちの背中に乗った。数キロ先の沢づたいには、農業者の住む小さな集落があり、四、五軒の民家と十棟程度のビニールハウスが散在していた。一軒の古びてはいたが、他の家の倍ほどもある民家の前庭に走り込み、馬たちは大きくいなないた。民家からすぐ人が飛び出した。
「何か大変なことがあったんだな。」
馬の体格に負けないくらい大きな身体の男が、馬たちの真正面に仁王立ちした。その男が両腕を振り上げたとき、大鷲が羽を広げたようにばさばさと大きな音がした。
「よし、わかった。みんなを避難させよう。」
大きな男は、そう言って声を張り上げた。
「村のみんな!山へ逃げろ!」
とのとヴァロンは思わず両手で耳をふさいだ。男が発したごう音は、二匹の身体を馬の背中から吹き飛ばすかと思われるほど強烈だった。
「鼓膜が破れるかと思ったよ。」
とのは、両耳に突っ込んだ肉球を恐る恐る引き抜いて、ヴァロンに言った。馬たちも、集落の人たちといっしょに高台に向かって走った。数分後、川岸からあふれ出した濁水は、低い土地に建ち並ぶビニールハウス群に襲いかかった。あらかたのビニールハウスは、水の勢いによってもみくちゃにされ、ハウスの中の大きく育ったトマトの苗もろとも、またたく間に下流に押し流された。
「住む家が残ってよかったと思うしかないなぁ。」
大男は、馬たちに向かって家に寄っていけと言いながら、馬の背中にへばりついた二匹の猫に初めて気が付いた。男は、こんなところにどうして猫が?という目をして絶句した。
とのたちは、大男に誘われるまま、その辺りでも珍しい茅葺き屋根の大きな民家の前に戻った。落ち着いてその家を見ると、こんもりとした小山のように重厚な威容に圧倒された。なんの必要があってこんなに大きな家を建てたのか不思議だった。玄関口の重い引き戸を開けて中に入ると、相撲の土俵を作れそうなだだっ広い土間があり、その奥に、高い天井に向かって太い木が幾重にも組み上げられた、洞穴のように暗い室内が見えた。そこは、昔使っていた囲炉裏の煙にいぶられて、炭を練りこんだように黒々としていた。その二十畳もありそうな囲炉裏部屋の床には、獣の毛皮が一面に敷きつめられていた。とのとヴァロンは性癖にしたがって、なめらかな光沢を放つ毛皮の匂いをしつこくかいでみたが、長い間煙にさらされ、人や動物の足に踏まれたためか、その毛皮の主を判別することはできなかった。
「この辺りは、熊の巣と言われたくらい、熊が多い土地だった。この毛皮は、ずっと昔、わしの父親が三年がかりで捕らえた熊の皮だ。六百キロもの大物だったそうだ。」
体重が六百キログラムもある動物とは、鯨、ゾウやカバなどの別格を除けば、哺乳動物たちの中でもっとも重い部類だ。
「図体だって、馬より一回り大きかったんだ。」
無精ひげを生やした年齢不詳の大男は、薄暗い部屋の真ん中にどかっと座ったまま、得意そうな顔で言った。すると、彼の身体は、にわかに黒々とした壁や調度品、そして床の毛皮の色にとけ込んで、輪郭が不鮮明になった。とのとヴァロンのこわばった顔を見た男は、にやにやしながら言った。
「怖がることはない。こんな山奥に住んでいても熊の害はほとんどない。山は人間のものではなく彼らのものだから、わしらは、必要なとき以外、むやみに山に入って彼らを驚かすようなことはしない。」
現代よりはるかに熊の数が多かった時代、内地や外国からやって来た人たちの旅行記に熊を恐れる記述がほとんどないのは、現地に昔から住むこの大男のような人々に従って行動したからにちがいない。しかし、とのたちが恐れたのは、まだ見たことがない本物の熊ではなく、目の前にいる熊のような男に対してだった。
大男はどんどん熊の皮に埋もれていった。いつのまにか身体が真っ黒な巨大な塊になり、頭に大きな耳が突き出し、黒い顔の真ん中には黒光りする大きな鼻がひくひくと動いた。
「こうして熊の皮に包まれていると、昔々なめとこ山でまたぎをしていた小十郎という男のように、熊の言葉を聞き分けられそうな気分になるよ。きっと小十郎は向こう側の世界で熊だったんだな。」
目の前の不気味な光景は、二匹の逞しい想像力のせいではなかった。実際に大男は本物のクマの姿に変身していった。とのはこの家からすぐにでも退散したかったが、その前に聞いておきたいことがあった。
「おじさんは、馬や鹿やぼくらの言葉もわかるの?」
「あぁ、耳を澄ませば、この山の生き物たちはそれぞれ固い意志を持って、なにかを伝え合っていることがよくわかる。わしもその中に入れてもらいたいよ。」
大男は、できるだけ人里離れた山奥で自給自足の生活を続けて、人の醜い怒りとか憎しみといった感情をきれいに洗い流してしまいたい、人間たちは気が狂ったと思うだろうがね、と言った。
「人と動植物との違いなんてものはもともとなかったし、そればかりか、山や川や海といった自然界の意志さえ、そこにいる生き物たちの意志と同じものだったんだ。」
男の口調は、自分自身に言い聞かせているようだった。
「それにしても暑苦しいなぁ。」
自分の顔の前に突き出した大男の両手は、曲がった鉄釘のような爪が生え、長い密集した毛が垂れ下がり、剣先スコップのように巨大だった。その両手で、自分の頭を鷲づかみにしたかと思うと、上方にそれを持ち上げ始めた。すると、ずるずるという音がして人の顔が現れた。
「びっくりしたかい? 熊の頭蓋骨をかぶってみたんだ。五十年以上も前のことになるが、この家には熊祭りの祭壇が何度も作られたんだ。」
とのは思わず身震いして、大男のすぐ後ろの暗がりから、もう一頭、熊が現れやしないかと部屋の中をくまなく見渡した。
「熊祭りを知ってるかい? 熊は、彼らが住む世界では人と同じ姿をした生き物なのだ。彼らがこの世に、肉や皮などの貴重な贈り物を持ってきてくれるので、人は最大の感謝の気持ちをこめて熊を祭り、魂を彼らの本拠地に送るのだ。熊は礼儀正しい生き物だから、彼らの世界に遊びにやってくる人を、同じ方法でもてなしているんだよ。」
大男の目は、古びた薄暗い家の境界をすり抜け、はるかかなたの宇宙を見つめる青い光を湛えた。そして、深い眠りに落ちたように、しばらく黙りこくってしまった。とのや馬たちも、大男のまどろみに引き込まれ、時間のゆっくりした流れの中でうとうとした。すると、大男は我に返って、人の世界はもう飽き飽きだが、人としての記憶がなくなる前に、話しておきたいことがある、と次のような話を始めた。
大男の両親は、先祖から受け継いだ、平地の少ない山奥のわずかばかりの土地で、細々と農業をやっていた。それだけでは暮らせないので、山に入って、炭を焼いたり、動物を獲って食い物に充てていた。世の中が経済的にどんどん豊かになっても、彼らだけは違う国に住んでいるかのように、生活の改善するきざしはまったくなかった。
大男は、両親に対し、なんのためにこの土地に執着して農業を続けているのか、何度か議論をふっかけたことがあった。その度に、両親はここにこだわる理由について言葉を濁した。その曖昧さに男はイライラを募らせ、両親を大声で責め立てた。高校を卒業したらすぐにでも、家を飛び出そうと考えていた。
その矢先、父親が山へ入ったきり姿を消してしまった。行方不明になって半年ほど経ってから、山脈の奥へ入り込んだ登山者によって、偶然、白骨死体が発見された。DNA鑑定の結果、その骨は父親であることが確定した。死亡原因の調査のため、警察が辺りを探ってみると、もうひとつ、人の三倍もある白骨が転がっていた。専門家に見せると熊の骨だとすぐわかった。熊を撃ちそこなって逆襲を受け、相討ちしたのではないかと推理する者もいたが、父親の銃には発砲の痕跡がなく、二体の骨に争った傷が付いていたわけでもなかった。両方の骨の配置を見るとなんだか並んで寝ていたようにも感じられた。真相はわからずじまいだった。
残された母親と大男は生活の術を失って途方に暮れた。大男は体が大きいだけで、斜面だらけの農地を耕すことも、山に入ることも、ほとんど経験がなかった。この地を飛び出したいと思っていたのに、母親を置き去りにして、自分だけ逃げ出すことはできなかった。自立することとは、父親がいるからできることであって、今となっては、どうして子どもの甘えから脱したらいいのだろうと悩んだ。
大男は、近所の人たちのアドバイスを受け、見よう見まねで農業を始めたのだが、次第に農地も山も荒れていき、生活の困窮も深まっていった。そのころ、農業政策の変化に伴い、周囲の集落からも離農者が相次ぐようになった。彼らに代わり、大資本や農家集団による経営が導入され、跡地は広大な牧場と数え切れない牛と馬の群によって占領された。山々の木々はぼろぼろに切り刻まれた。しかし、男は相変わらず、山裾にへばりついたわずかな農地を耕し貧乏していた。ほどなく母親が亡くなった。母親が死の床で苦しい息をしながら振り絞るように語った言葉が、男の記憶にいつまでも残った。母が話したのは、生前の父の言葉だった。父親はこう言ったという。
「ここ一帯は、はるか昔の人々が俺たちに預けていった土地なのだ。自分のものと思って処分することはまかりならない。」
一人取り残された大男は、定住する覚悟をしたわけではなかったが、当面、土地から離れられなくなり、自給的な農業を続けた。あるとき、所有地内で河川や道路の改修工事の計画が持ち上がった。
土地の人たちの多くは、災害から土地を守り、交通の便が良くなる工事を歓迎した。一方、大男は、自然豊かな環境と地域の資源を守りたいという気持ちから、公共工事に対し許しがたい暴挙だと抗議した。このため、工事は無理な計画変更を余儀なくされたり、中止に追い込まれたりした。大男は、始めから地域の人たちを怒らせようと思ったのではなかったが、古いムラ社会では、意見が食い違うと人間関係自体がぎくしゃくし、ついには険悪になった。大男と世間とのつき合いはほぼ皆無になった。
その土地の数十キロメートル南には海が広がっていた。秋になるとはるか南方からわき上がる低気圧が海岸付近をかすめていくことがあった。その年は例年になく、低気圧が北上して、大男の農地の裏山を激しく襲ったため、斜面の数ヶ所で土砂崩れが起こった。その崩れた斜面の中でも酷くやられた現場で、奇妙な木柵の一部を発見した。相当古いものだったが、ずいぶん頑丈に作られていて、柵そのものにはそれほど被害はなかった。好奇心をかき立てられた男は、数枚の板を切り取って、そこから柵の内側にもぐり込んでみた。真っ暗闇の中に、懐中電灯の光に照らされて浮かび上がったのは、二十畳ほどの広さの空間だった。数歩足を進めたとき、長靴が地面を突き破り、膝までめり込んでしまった。足を抜こうとして伸ばした手が、重みのある固い板のようなものに触れた。それを拾い上げ、電灯のまばゆい光を泥だらけの板状のものに当てたとき、大男は驚きのあまりその場にしゃがみこんでしまった。泥の流れた部分が明らかに金色に輝いていたのだ。この日から、父親が崖っぷちの奥に金塊が埋まっていることを知っていたのだろうか、という疑念が頭から離れなかった。
その後の生活は、以前にも増して、ほとんど周囲とつき合いのない孤立したものになった。たった一人で、百年ほど前の先住の人たちの生活を習って、山や川からの恵みと小さな畑で採れるわずかな作物だけの不自由な生活を自分に課した。その生活に慣れてきた彼にとって、それは困難なことではなかったが、世間の人々には到底受け入れられる試みではなかった。
「人の寿命なんて、おおかたの動物とそれほど変わらないのだ。彼らのように自分の基礎代謝に見合う分だけの食料と、人に危害を加える生き物が侵入できないくらいの住居を持ち、たまに遊びに来てくれるやさしい動物たちがいれば、それ以上望むべきではない。人は孤独の中で死ぬことはあっても、孤立した生活に耐えられないわけがない。」
彼が本気で言っているのかどうか誰にもわからなかった。
「この熊の装束を着て山野をうろつくうちに、自分が人だか熊だかわからなくなる。そんなとき、猟師にズドンと殺られるのも悪くはないな。」
彼は、人社会からなんと言われようと、今の生活を貫こうと考えていた。
「誰一人知る者はないが、この土地は世にもまれな黄金郷なのだ。」
そのとき、戸外に地面を踏みつける大きな音が響き、何者かが引き戸を壊れるような音を立てて開けた。「大変だ! 子どもたちが人間にさらわれた。」
まだ若々しい一頭の雄馬が、大きな息を吐きながら叫んだ。彼の慌てた話の中から理解できた内容とは次のようなものだった。
木立の陰に馬たちがたたずんでいたら、鉄砲の発射音がすぐ近くで聞こえた。数人の鹿撃ちの人間たちが、自分たちをねらっている気配がしたので、数頭が一斉にいなないて獲物でないことを知らせた。慎重に近づいてきた人間たちは、馬たちが逃げないのを見て、なにやら相談すると、群の中に押し入り、生まれたばかりの無抵抗の二頭の子馬を無理やり抱きかかえ、連れて行ってしまった。男たちの口から、カネ、カネという言葉が何度も発せられた。不意をつかれたこともあったが、人間と争いを起こすことが嫌いな馬たちは、そのまま見送るしかなかったという。
「どこへ連れて行ったんだ!」と、とのたちを乗せてくれた二頭の馬は、怒りに震える声で言った。
「この辺に狩りに来る人間たちの居場所は、きっと西の沢の上流にある山小屋のはずだ。」
大男が確信ありげに言った。
馬たちが駆け出そうとしたとき、大男は両腕を上げて押しとどめた。
「わしもいっしょに行くぞ。野生の馬を捕獲するやつらを許してはおけない。」
二匹の猫と男は、三頭の馬の背につかまり、一斉にかけだした。
とのたちを乗せた馬は、テレビなどで見慣れたサラブレッドに比べ、背丈は多少低いが横幅は倍くらいあって、熊のように大きな男さえ、馬の背中ではこぢんまり見えた。その馬たちが道らしきもののない山中を自在に早足でかけていくと、細めの灌木などは、馬たちの頭や盛り上がった両肩にぶつかってたちまちはじけ飛んだ。その残骸が、とのたちの頭上に紙吹雪のようにバラバラと降ってくるのでちょっと閉口した。馬たちは目的地の方向をどうやって確かめているのかわからなかったが、まるで連れ去られた子馬の声が聞こえるように、歩みに逡巡するところはまったくなかった。
「野生の感覚を持った生き物は、自然の中で迷うことなんかないんだ。」
大男が得意げに言い放った。
「自然界の意志がわかるということなんだろうか?」
ヴァロンが恐る恐る尋ねた。
「あぁ、意志を共有しているというか、互いに共感しているというか、なにしろ、もともと同じものなんだから、わかり合って当然なんだよ。」と男が言ったが、とのには理解できなかった。
「焦ることはない。そのへっぴり腰がしゃんとするころには、なにかじわっとくるものがあるさ。」と大男はとのとヴァロンの乗馬の姿勢を見て笑った。
「ぼくら猫族は、弱い動物をいたぶるのが大好きで、おまけに仲間同士で群れない性質の動物なんだよ。だから、周囲の自然は、ぼくらを警戒して話しかけてくれることはないと思う。」とヴァロンが真面目な顔をして言った。
「群を作る動物だって、雄は必ず自分の生まれ育った群を出て、長い年月一人さまよい、運のいい者だけが別の群に受け入れてもらえる。彼らはたとえ野たれ死にしようと、元の群には絶対戻らないのだ。」と男は神妙に言った。
「彼らは何を考えながら一人っきりでさまようんだろう?」とヴァロンが独り言のように尋ねると、とのがちょっとうわずった声で恥ずかしそうに言った。
「ぼくはいつも父さんと母さんのことを考えているよ。」
小一時間後には、西の沢の上流の高台に出た。その高台から、傾きかけた狩猟者用の山小屋を見下ろすことができた。山小屋の前には、ロープにつながれた二頭の子馬がいた。怪我などはしていない様子だ。そこには小型トラックが止まっており、小屋の中に明らかに人の気配があった。馬たちははやる気持ちを抑え、息を殺して様子を見守った。とのとヴァロンは、彼らの張りつめた気持ちに圧倒されて、身じろぎひとつできなかった。
そのとき、小屋から数人の人間が出てきた。三頭の馬たちは、どの馬が声をかけるでもなく、一斉に急斜面を駆け下った。下界の人間たちは何が起きたのかしばらく理解できず、猛烈な勢いで迫ってくる黒い固まりを恐れおののいた表情で見つめて凍りついた。その物体が間近に迫ってから、彼らはやっと正気に戻ったようだった。馬の蹄に蹴散らされないため、小屋の中にあわてふためいて逃げ込むのがせいいっぱいだった。
馬たちが子馬のロープを丈夫な歯で食いちぎると、申し合わせたように、馬上の大男が子馬を両腋に抱え上げた。三頭の馬はその場をあっという間に立ち去った。
彼らは仲間の馬たちと合流し、とのたちと初めて出会ったトンネルの入り口まで一目散に走った。
「なんと感謝していいか、とても言葉では言い表せない。」
馬たちはそう言って、とのとヴァロンと大男に向かって何度もお辞儀をした。このトンネルを抜け、北か東の方の土地に移動して、しばらくここには戻らない、と彼らは言い残し、黒い蓋をしたようなトンネルの中に次々と消えて行った。
トンネルからの帰り道、大男は幾度となく熊祭りという言葉を口にした。熊祭りはすっかり絶えてしまったが、仮に今、祭りを実行しても、実生活から切り離された形ばかりの祭りに、あのころの魂が宿ることはない。今の世で、祭りから神話を読みとれるのは、わしらのような自然人や猫や馬たちだけになってしまった。
彼はそのようなことをぶつぶつとしゃべり続け、別れの時、身体にかけていた大きな熊皮をスピーカーのように広げ、大音声を発した。耳を覆うばかりのその声は、雪深い山々の斜面を大風になって吹き抜け、黒々とした針葉樹の尖った葉々と枯れ木のような広葉樹の枝先を振るわせて、さらに音量を増幅し、とのとヴァロンの方に向かってはね返ってきた。
「わしは熊になるぞ!」
その響きは、先ほどの地震の再来のようにも聞こえ、とのとヴァロンは震え上がった。
とのとヴァロンは、帰り道の途中、海岸段丘の上から断崖の下を見つめる数頭の鹿たちに出会った。断崖の急な斜面は、淡い陽射しを受けて解けかかった雪と、雪の下からわずかに見える枯れ草によって一面覆われていた。鹿たちの足許から数メートル下の斜面の途中には、四つの足を折って腹這いになった一頭の小柄な鹿がいた。雪原に半分埋もれた小さな鹿は首をうなだれたままで、斜面を登ることはとうていできる様子ではなかった。
そのとき、見下ろしていた鹿たちが一斉に踵を返したので、すぐ後ろにいたとのとヴァロンは鹿たちと目を合わせてしまった。すると、いちばん背の高い一頭がとのたち目がけて、大きな角を数回振るった。明らかに、「何を見ているんだ、あっちへ行け。」と、二匹を威嚇する行為だった。二匹はびっくりして飛び退いたが、鹿たちはそれ以上なにもせず、その場から黙ったまま走り去った。鹿たちが威嚇したのは、本能的に狩猟動物を嫌うからなのだろうか。それとも子どもの鹿を置き去りにする姿を見られたくなかったからそうしたのだろうか。
とのたちは家路をたどりながら、互いに顔を見合わせることもなく、うつむいたまま一目散に駆けた。二匹は同じ想像をしていた。あの小さな鹿はほどなく肉食の動物たちに身体を引き裂かれ、ついばまれるだろう。しかし、それは仕方がないことであり、誰にも止められないのだ。猫だって危害を加える側の動物であり、自分より力がない動物を見ると、狩猟本能がくすぐられ、恨みも怒りもないまま、つい飛びかかってしまう。
育児に参加することがない雄猫はとくに冷酷だ。函館にいた「ヒゲ」は、発情期が来たとき、母猫にまだ甘えてくっついていた子猫をかみ殺したという。理由は明快だ。子孫繁栄を邪魔する親離れできない者を、自然の掟は容赦しないのだ。
「そんなことないよ。」突然ヴァロンが独り言を言った。
確かに例外があった。ヴァロンは、自分の家の三匹の雌猫にとのを加え、四匹の子猫の世話をかいがいしく焼いて、雄猫にも育児能力があることを証明した。
我に返った二匹は、急に胸につかえていたことを話し出した。
「鹿たちは冷酷な気持ちで子鹿を置き去りにしたんじゃないよね?」「胸が張り裂けそうだったかもしれないよね?」「ぼくたちにはどうすることもできないけど、ひょっとしたら助けてくれる人がいるかもしれないよね?」(第2 とのの帰還 了)